第31話 田中の家
充実した毎日は足早に過ぎて、七月の二週目に入っていた。
月半ばの期末テストが終われば夏休みに入る。みんなたくさんの楽しみがあるようで、校内は再び期待感で満ちていた。
青春を謳歌するのに忙しい彼らは、もう俺になど目を向けている暇はないらしい。
うきうきとした空気の中を少しだけ視線を上げて歩いた。
ところが、噂が落ち着くのを待っていたように、俺はまた告白をされた。
例の事件を知らない下級生や、どこで見知ったのか、他校の生徒から待ち伏せされたりした。
俺の何がいいんだろう、やっぱり自分では分からない。そして告白はなぜかすぐに周りに広まってしまう。
「高瀬はモテるよ」
菊池に言われてびっくりしてしまった。
「どうして?」
「かっこいいじゃん」
立て続けに思わぬ言葉を食らって、俺は会話につまずいた。
「そ、そうかな」
自分ではそんなこと思ったことがない。サッカーをやってる姿がかっこいいと言われるなら受け入れられるけど、別にかっこいい見た目をしているわけじゃないと思う。
ただ菊池に「かっこいい」と言われたのにはちゃんと動揺した。
「アイドルみたいとかじゃないけどさ、まず背が高いじゃん?」
「そうかな」
「180くらいあるだろ?」
「78だよ」
「同じようなもんだよ」
孝一や先生の方が背が高いから、あまりピンと来ない。三人だって低くはない。
「頭が小さくて、すらっとしてんだよな」
全身を眺めてくる熊田に、くすぐったい気持ちで「ありがとう」と返す。
雰囲気がかっこいいっぽい、ということだろうか。いや全然よく分からないけど。
「で、何で付き合わないの?」
熊田の言葉にびくっと肩が上がった。
「一年の子、可愛かったよ?」
菊池がぐぐっと俺を覗き込む。
「青栄女子は美人系だった」
熊田が何かを探るように俺の顔を眺める。
だから何で知ってるんだよ!
「実は彼女がいる?」
眉を互い違いにした熊田にハッキリ首を振る。
心臓が少し早い。汗ばむ手で椅子の縁をぎゅっと握った。
「正直に言うと、付き合わなくてもいいからお友達になって、俺にその子の友達を紹介してもらいたいです!」
きっぱりと言った熊田に、「思っても言ったらダメなやつ!」と菊池が笑った。
あー、なんて言えばこの会話は終わるのかな。
これまで異性の話がなかったのは、やっぱり気を遣ってくれてたんだと思うと心が温まるけど、告白してきた人と付き合わずに友達になる、なんていう高度なコミュニケーション能力は持ってない。
「喋ったこともないのにいきなり付き合えないよな?」
突然後ろからフォローが入った。
振り向いて、肘を突く田中になんとなく「うん」と頷く。
「だからそこはぁ、じゃあお友達からーとか言って連絡先交換して、やり取りをしてみたりするんじゃないの?」
熊田の意見に思わず頷きそうになる。
そうだと思うよ? 普通はね、可能性があるならね。
「お前の好きにしろよ? こいつらのことなんてどうでもいいんだから」
田中が冷たい視線を投げて、二人は嘆きながら机に突っ伏した。
田中のことは少し好きだ。二人よりも波長が合う気がする。俺より小さいから、そういう意味では好きにならないけど。
ほら、こんなことを考えてるんだよ俺は。みんなのことをそういう目で見て無いなって思ってんだよ。しれっと友達みたいな顔してさ。ヤな奴。
「ノート写し終わった? 帰ろ」
努めて明るく促すと、熊田と菊池はしぶしぶ立ち上がった。
テスト一週間前になって部活もなくなり、放課後の校内はずっと静かだった。
中学時代は、よく孝一とチームメイトに勉強を教えてあげたけど、今は学習する習慣のある人たちばかりだから、テスト前もさほど騒がしくない。
「どっか寄るー?」
荷物をまとめながら熊田が提案した。
「俺はいい、高瀬も帰るだろ?」
田中が立ち上がって俺を見降ろした。断定された帰宅に、押しの弱い俺はつい「うん」と返事をする。
「俺はツタヤ行くぞー」
ツタヤに向かう二人を見送って、田中とバス停に向かった。
バス停まであと少しのところで、田中がこちらを振り返った。
「なあ、うち来ない?」
「えっ?」
「俺んち」
驚いて足も思考も止まってしまった。けど間を開けるべきじゃない誘いだ。
時間は遅くない、家もバスの定期の範囲内で、断る理由は思いつかなかった。
結局間が開いて、「嫌ならいいけど」と、田中が肩を上げる。
「嫌じゃないけど、むしろいいの? こんな急に」
「何も持て成すつもりはねえから」
ニッと笑う田中と、丁度来たバスに乗った。
二人席がひとつしか空いてなくて、「ラッキー空いてる」と田中が座り、リュックを脚の間に挟んで俺を見上げてくる。
「座れよ」
グエー。
心の中でカエルが鳴いた。息を吸って隣に座る。
狭くて身体の右側が広範囲で触れている。はっきりと緊張が始まっていた。せめて素肌は触れないようにと身を縮める。
冷房は効いているけど並べば温かくて、触れた肩から田中の呼吸を感じる。
友人としてとは言え、さっきちょっと田中が好きだとか考えてしまったことを深く後悔した。
田中とは、バスの路線は一緒だけど、あまり同乗したことはない。
田中は朝は早く来て予習をしていたし、放課後も大抵は希望者が行く補習教室に寄るからだ。今日もそうするんだろうと思っていた。なのに「帰るだろ?」と言われて驚いた。
あー緊張する。心臓はまだ落ち着いている。大丈夫。さっきちょっと好きとか思っちゃったけど大丈夫。そういう好きじゃないから大丈夫。
「……」
段々大丈夫じゃない気がしてきた。
「双葉町な」
降りる停留所を告げられ、不必要な回数頷く。
西日が田中の腕や太ももに降り注いでいる。田中は俺よりも背は小さいけど、腕は太いんだななんて思って、なんとなくいけない気がして目を逸らした。
なんで俺を誘ったんだろう。テスト範囲で分からないとこでもあるのかな。
とりあえず足首を交差して、太ももの触れ合う範囲を減らした。
停留所に着いてホッとして、慌てないように気を付けてバスを降りた。
「こっち」
曲がる道を覚えながら、田中に並んで歩き出す。
「あの、なんで俺だけ誘ってくれたの?」
耐えられずに訊ねた。田中は「んー」と鼻から音を出してから、
「高瀬ってさ、最近は無口ってわけでもなくなっただろ?」
笑顔を向けられてまた少し緊張する。
「そう、かもね」
「なんか、もう少し仲良くなれるんじゃないかなーって思ってさ。俺、結構お前好きなんだよ」
菊池に言われた「かっこいい」よりもダイレクトにぶっ刺さる「好き」に、頭のてっぺんに強く電気が走った。
「……ありがとう、田中君」
「急に丁寧になるなよ」
田中が笑って、「こっち」と先導した。
どうしよう、これはあれだ、友達だと思ってた人に距離詰められて好きになっちゃうあれだ。いや何言ってんの俺。田中は友達として仲良くなりたいって言ってくれてんだって! そういう好きじゃないから! ほんと落ち着いてお願いだから!!!
「こんにちはっ!! お邪魔しますっ!!」
「びっくりしたっ! 高瀬ってでけえ声もでるんだな」
田中がぎょっとして、それからふはっと笑った。
「一応、運動部だったから!」
家の人に聞こえるように言ったんだよ。でも誰も出て来る気配がない。まさか。
「家、誰も居ないの?」
「居ないから鍵かかってたんだけど?」
何言ってんだよ!!!
「居てもかけるでしょ、防犯的に!」
うちは掛けるよ! いやそれより、誰も居ないとかは言わなきゃダメだよ! 同性でも言った方が良いよ! ゲイの場合があるからさ!!
「防犯ねえ」
「掛けてね!」
「分かった」
田中は妙な顔で俺を見ながら頷いた。
洗面所で手を洗う。歯ブラシが四つある。
「四人家族?」
「刑事かよ。兄貴がいるよ」
「アニキ」
兄ちゃん勢しか俺の周りには居なかった。
「高瀬は?」
「俺だけ」
「へー、っぽく見えない。妹とか居そう」
「居ないよ。これからできることもないと思う」
「そう? 分かんなくね」
「怖いこと言うね」
田中の家は綺麗だった。余計な物を置かないタイプの家だ。それに何だかいい匂いがする。
「いい匂いがするね」
沈黙を避けて口に出すと、「兄貴の部屋だわ」と、二階の右奥の部屋を指さした。
「彼女がアロマが好きらしくてさ、なんかエロいよな」
「何が?!」
唐突に出てきた単語に思わず聞き返すと、田中が振り返る。
「彼女が部屋でアロマを炊くんだぞ? なんかいやらしい感じがするだろ」
「いや、全然意味が分かんないけど」
田中はなぜかくくっと笑いだし、お兄さんの部屋と反対側の左奥のドアを開けた。
「あつー」
むわっと熱のこもった空気が溢れてきて、田中がエアコンのスイッチを入れた。
孝一の部屋で勃起してから初めての男の部屋だ。
個人的に歴史的瞬間だなと思いながら、厳かな気持ちで入室した。
俺の部屋と同じ、ごく普通の六畳間だ。窓が正面と左にあって、クローゼットと机とベッドと本棚がある。
「座ってて、飲む物ないか見てくる」
「ありがとう、水道水で構わないから」
「無かったらな。適当にしてて」
田中が部屋を出て、足音が階段を降りていく。
「はああああああああ」
確か孝一の家でもこんな息を吐いた気がする。
普通の家のリビングくらいの広さのあった孝一の部屋とは違って、完全に一人向けの田中の部屋は、男二人には狭く感じた。
落ち着け、ただの友人、ただの好ましい友人。
「……」
スマホを取り出して素早く先生にメッセージを送った。
『男友達の家 二人 助けて』
呼吸を整えていると、田中が両手に飲み物の入ったグラスとポテトチップスの袋を脇に抱えて入ってきた。
「ごめん、ちょっとポテチ持って」
慌ててスマホをテーブルに置いてポテチを受け取る。
「奇跡的にオレンジジュースとポテチがあったわ」
「奇跡なの?」
「兄弟がいるとそういうもん」
「なるほど」
座ると、田中が隣に座った。
隣なんだ! 向かいとかじゃないんだ!
「……頂きます」
「おん」
オレンジジュースの酸味がこめかみを痛くしてくる。
「田中ってどこ中だっけ?」
ありきたりな質問集を脳内で開く。
「双葉中」
ああそうか、ここ双葉町だった。
「クラスに双葉中の人居る?」
「浅見さんと三峯さんはおな中だよ」
「確かにたまに喋ってるね」
「うん。中学ではクラス違ったけどね。高瀬は三旗中だよな」
「うん、うちのクラスには居ない。B組とE、F組に固まって数人いるかな。知り合いではないけど」
ああ口が渇く。本棚は相手を知るヒントになると何処かで聞いた。素早く目でなぞる。
「田中君」
「だから急に丁寧に呼ぶなよ」
「あれって中学のアルバムですよね?」
「うわ目ざとい」
「ウォーリーを探せ、得意なんで」
「アルバム探すなよ」
田中がやれやれみたいな声を上げてアルバムを取ってくれた。
「見られたくない?」
「アルバムって見られたくないもんだろ」
自分のアルバムはじっくりと見ていない。色々と情緒が乱されるだろうから。だからまあ、見られてもいいけど、見たくはない。
「笑うなよ」
早々に会話が滞らないアイテムを手に入れて、ホッとしてアルバムを開いた。
アルバムの表紙を開くと、校舎の写真と校歌が載っている。双葉中には試合で行ったことがある。
「校歌まだ歌える?」
「歌えるけど歌わねえぞ」
次を開くと教師が並んでいる。
「怖い先生は?」
「これ、遠藤」
田中の肩が触れて、俺はそれを頑張って気にしないようにする。
「好きな先生は?」
「えー? 部活の顧問はお世話にはなったけど、やっぱり怖かったしな。安孫子は女子に人気あったけどー……あ、一年の時にいた保健室の先生は美人で優しかったわ」
美人で優しい保健室の先生って本当に存在してるんだ。
並ぶ写真の顔ぶれから、うちの高校にいる生徒を教えてくれる。
「たった一、二年で結構変わるね」
「なー、浅香があんなに垢抜けるとは思ってなかった」
「三年生と付き合ってるよね」
「そ、美人の先輩」
いいよね、お付き合い、青春。
恐らく俺は学生恋愛というものに一生コンプレックスを抱くんだろうと思う。
不安定なこの時期を誰かと一緒に過ごす特別を味わうことなく、ただやり過ごすしかない。それどころか初恋相手の恋愛話を聞いて過ごすことになるかもしれないんだから笑うしかない。いや、実際は全然笑えないと思うけど。
ポテチに手を伸ばした田中の肩がまた触れた。
俺は今、友達と遊んでる。あんなことのあった俺ともう少し仲良くなりたいと言ってくれる友人と。充分特別なことだ。
「田中発見伝」
「見つかったか」
「ちょっと若い」
「俺も成長してんだよ」
ふと田中が右上を指していることに気がつく。よく見ると数人の男女が同じように何処かを指さしている。
「この指差しポーズなに? 流行ってたの?」
「うん。流行ってた」
真顔の田中に、訝しんでもう一度写真に目を落とす。
指先を目で辿ると、一人の女子が同じように田中を指しているのを見つけた。
ああ、なるほどそういうことか。
「田中の彼女可愛い」
「お前やっぱり刑事だろ」
「分かるよ誰でも」
顔を寄せて、田中さくらと書かれた女の子をまじまじと見る。
「田中の彼女、田中なんだね」
「そ、結婚しても変わんねえ」
さらっと出てきた結婚という言葉にきゅっとする。
結婚か、そういう話もするんだ。思い出がいっぱいあるんだろうな。いいな。
「ま、別れちゃったんだけどね」
軽い告白は、ポテチを噛む音に紛れた。
「そうなんだ」
「そうなると、こんなのはちょっと恥ずかしいよ」
田中は苦笑いしながらポテチを何枚も重ねて口に入れた。
またアルバムに目を落とすと、中学三年生の田中も少し照れくさそうに笑っている。
この時は、別れてしまうなんて思ってなかったよね。結婚しても名字が変わらない、なんて会話をしたんだもんね。
田中には苦笑いで誤魔化したい思い出なのかもしれない。このアルバムも、若気の至りみたいに思っているのかも。でも無かったことにする程じゃない。誰かに知られても構わないくらいの、照れくさい恋の思い出。
俺は自分の初恋を思い返す。
孝一を抱きしめたいと思った瞬間、きっとそこには愛しさがあったはずだけど、甘く切ない片思いのひと時を味わうこともなく、瞬時に強い罪悪感と混乱にすり替わってしまった。久しぶりに会ったら、生まれたのは嫉妬心と惨めな気持ち。
「恥ずかしくないよ、何もないよりずっといいよ」
「そうかな」
「うん」
次のページに手を掛けて、中学生の田中を見送った。
「高瀬、スマホ光ってる」
「え?」
見るとマナーモードのままのスマホに着信が来ている。
「ごめん見ちゃったけど、先生って誰?」
この時間に先生から電話なんて、「えっと中学の時の先生。ちょっと出るね」
「うん」
「もしもし?」
「高瀬っ! 大丈夫か?!」
「は?」
慌てて音量を下げて、田中から距離を取った。
「なにが?」
「なにって、男の家、助けてってあったから!!」
「……友達って、書いたよ」
「えっ?! あ、じゃあ……あぁ、そういうあれか」
初めての先生の慌てぶりに、笑いが溢れてきた。
「ごめんなさい、紛らわしかった」
口を抑えつつ謝ると、大きなため息が聞こえて堪らず噴き出してしまった。
「びっくりしたー、会議中に飛び出して来ちゃったよ」
いつもの優しい声。俺はまださっきの慌てた先生に笑いが収まらない。
「怒られる?」
「大丈夫、無事ならいい」
「うん、平気」
そうだよな、こんな時間にメールなんてしたことなかったもんな。ごめんね先生。
言いたいけど、田中の前だから念じておこう。
「夜電話するから、どういうことか聞かせて」
「本当?」
つい嬉しい声が出てしまった。これで言い訳ができる。
「じゃあ後でね」
「はーい」
通話を切ってテーブルに置いた。残り笑いで肩が震える。
「中学の時の先生と仲良いんだな」
田中は驚いた顔をしていた。
「うん、話やすい人なんだ」
また笑ってしまいそうになるのを堪えると、田中がじっと俺を見る。
「何?」
至近距離であまり見ないでください。
「いや、普段見ない高瀬だったから」
「そう? 中学生みたいだった?」
「んー? そうかも。一応聞くけど、先生って女?」
「男だよ」
「そうか。あんなテンションの高瀬初めて見た。動画取っておけばよかった」
「やだよ!」
アルバムに目を戻し、残りのクラスのページを軽く見回して、部活紹介のページから田中を探した。
「田中柔道部だっけ」
「うん」
「あ、これだ」
胴着を着た短髪の田中が、他の生徒達と仁王立ちで腕を組んでいる。
「みんな睨みつけてるね、絡まれたくない」
「イキってるよなー。これも恥ずかしい」
「彼女は何部?」
「吹奏楽部。フルート吹いてたよ」
真結ちゃんと一緒だと思いながら、一番大人数で綺麗に左右対称に並んだ生徒の中からフルートを持った田中さくらさんを見つけた。
「背が高いんだね、良く目立つ」
「そう、すぐ見つけられた」
ああ、孝一が同じことを言っていたな。
つい付随した良くない感情も思い出しそうになって、「ちょっとエモいね」なんて慣れない言葉を使って頭から追い出した。
「どこがだよ」
照れる田中がこんなに見られるのもレアだ。動画に取って菊池と熊田に見せたい。
またページをめくると、『思い出』になった。
視線で辿り、田中を見つけた。坊主頭で子どものように無邪気に歯を見せて笑っている。一年生の時かな。
「どうして彼女と別れちゃったのか聞いてもいい?」
「いいよ」
「なんで?」
無数のスナップ写真から顔を上げると、現在の田中はずっと大人だった。
「簡単に言えば遠距離になったから。彼女は他県の吹奏楽の強いところに行って、距離もあったし練習も忙しくて。会う機会どころか、連絡するのも気を遣った。やる気のある子だったから楽しくやってたと思うけど。俺もうちの高校は結構頑張って入ったから付いていくのが大変で、お互いに相手のことを考えなくなってった」
「そうなんだ」
「……いや、違うか」
「え?」
「お互いになんて言ったけど、向こうは楽しくやってたと思うんだよ」
田中の口角が自嘲するように上がる。
「大好きな吹奏楽と苦手な勉強じゃさ、答えは明白だろ?」
田中は、さくらさんの関心が、自分から薄れていくのを感じたんだ。
簡単にと別れを要約できるようになるまでに、どれくらいの時間が必要だったんだろう。
「まあそういう、よくある話だよ」
田中がそっと笑った。普段ならギクッとして顔を逸らす距離だけど、切ない顔の友人の前では、さすがの俺も落ち着いたものだった。
中学時代に想いを通わせた二人は、きっと人より早く思春期を迎えたんだろう。胸に湧く好きという気持ちを受け入れる強さがあったし、それを伝える勇気があった。
確かに田中にはそういう雰囲気がある。大切な誰かのためのスペースを持っている。
今は不在のそのスペースが、そばに居る人に安心感を与える。心のゆとりってやつかな。自分で精一杯の俺には無いものだ。
手元の『思い出』に目を戻した。
「別れて寂しかった?」
田中はうーんと後ろのベッドにもたれた。
「最後は電話だったし、お互いに完全に分かってたからな。ただ、俺から言い出すってことには少し罪悪感があった」
「そうなんだ」
「言ったら少し気が楽になって、あれ? ってなった。あんなに無限に湧いてくるみたいだった気持ちが、こんな風に無くなっちゃうんだって、それは寂しかったかな。あの時は本当、結婚するのかなーって思っちゃうくらい好きだったからさ。逆に凄いなって」
きっとこれは田中の大切な話だ。それを俺に教えてくれた。信頼してもらえてるってことなのかな。
中学時代の男子は、女子の見た目の話ばかりしていた。でもその間、田中は素敵な経験をしていた。きっと孝一も、これから素敵な経験をするんだろう。友人としてちゃんと聞いてやりたい。それだってきっと特別な思い出になるはずだ。
「変な話に飛躍するけどさ」
「ん?」
パリッとポテチの割れる音がする。
「別れてから、どうやってこの人とは結婚できるって判断するんだろうって考えるようになった」
「結婚」
本当に大きく飛躍したな。俺には完全に縁のないやつ。
「どんな状況でも気持ちが続く人がいるのか、それとも俺の感じた好きのその先があるのかな、とか」
田中の口から「好き」がこんなに出てくることに内心ニマニマしてしまった。
好きになって付き合って、距離ができて別れてしまう。口には出せないけど羨ましい。ありふれているのかもしれないけど素敵だ。
羨ましいよ田中、恥ずかしがることなんてない。俺は片思いを忘れようとするので精一杯。それ以上を望める相手が見つかる可能性も感じない。ほんと、羨ましいよ。
心の中でたくさん羨ましがりながら、ふと思い立った。
「先生に聞いてみようかな」
「先生ってさっきの?」
「うん。結構若くに結婚してるから」
そうだった。もちろん忘れてたわけじゃないけど、先生は結婚していたんだ。
遅い時間に電話したりして、やっぱり非常識だよな。メールももっと早い時間にした方がいいのかな。いや毎日するのも迷惑なのか。
「聞いたら教えて、俺も知りたい。親には絶対聞きたくないもんな」
「確かに」
その時下から、「ただいまー」と声がした。
「噂したらかーさん帰ってきた」
時計を見ると五時半を回っていた。
「こんな時間か、挨拶して俺も帰るね」
「また来いよ。てか化学教えてくれね? 苦手で」
「良いよ」
立ち上がる田中の横でジュースを飲み干して、ポテトチップスを口に詰め込んでいると、上から笑い声が落ちてきた。
「食わないからポテチ嫌いなのかと思った」
「アルバム汚れちゃうと思って」
「高瀬のそういうとこが好きなんだよな、男には無い気遣いっていうか。今も出されたのに手付けてなかったから詰め込んでるんだろ?」
頷きながら、男には無いというフレーズにギクっとした。
「ちょっと元カノに似てる」
目を細めて見下ろされて、今度はドキッとした。
「……女子っぽいってこと?」
「いや、そんなんじゃないよ。育ちがいいんだなって」
「親に聞かせたい」
二人で笑って、田中のお母さんに挨拶をして家を出た。
「田中お母さん似」
「うるせ」
「また明日」
手を振って別れて、混み合うバスに乗った。
吊革に掴まって、まだ明るい町並みを眺める。
なんだか清々しい。
普通に遊べた。緊張したのは始めの十五分くらいで、後はいつも通りでいられた。孝一の家に行ったあの日から二年以上もかかったけど。
ちゃんと変わっていくって先生は言ってくれたけど、あまり期待はしていなかった。でも、変わっているみたいだ。
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