第29話 小塚先輩



 六月は朝から暑い。

 街路樹の影に立ち、夏服の半袖から伸びる腕の白さを気にしながらバスを待つ。

 体育祭が終わって、これからますます盛る夏は俺にサッカーを思い出させる。一年中やっていたはずなのに、どうして夏なのかは分からない。


 あれからSNSを開いてない。まあ普段から滅多に見ることもないけど、今回は意図的に封印している。

 真結ちゃんか孝一のSNSに例の彼女の写真が上がるんじゃないかと思って避けている。

 気持ちがあるうちは好きでいるしかないって先生は言った。

 始めから叶うとも叶えたいとも思っていないこの感情の落としどころがどこなのか、まるでわからないけど、辛くなくなるまで好きでいるしかしょうがない。

 もっと積極的に傷付いていくべきなのかとも思う。そっちの方が荒療治的に早く慣れる気もするけど、積極的に傷を負うにはせめて明るい未来がなくちゃ思いきれない。

 ただの友達、それで充分。でもそこにはやっぱり嘘の俺がいる。

 いつか孝一にもカミングアウトしなくちゃいけないのかな。

 そんなことを考えて明るい気持ちにはなれるはずもなく、やってきたバスに乗り込んだ。



 昼休み、四時間目の体育で忘れたペットボトルを取りにグラウンドに行った。

 芝生に転がっていたスポーツドリンクはまだ半分ほど残っていたけど、目を離したそれを飲む勇気はなかった。

 グラウンドを囲う木々の葉が風に揺れ、下草に影を作っている。その濃淡を踏みながら自販機がある方の玄関に向かって歩いた。

 もう通院はしていないけど、今も水分は1.5リットルを目安に摂取している。

 ぬるくなったボトルをべこべこしながら歩いていたら強く声をかけられた。そっちを見るとボールが飛んできたところだった。

 高く上がったサッカーボール。

 久しぶりだなと思って足先で受けると、制服のままやってる数人のグループに蹴り返した。ネクタイの色を見るに三年生だ。

 せめてジャージでやればいいのにと思いながら、ありがとうと叫ばれて、頭を下げてお礼を受け取った。



 次の日の昼休みの終わり頃、五時間目の現国の教科書を机に出していると、三年の男子生徒が教室の入り口に顔を出した。

 ネクタイがエンジのストライプの三年生をみんながちらちらと気にしたが、その人は柔和な表情でクラスを見渡すと、俺を見て手招きしたように見えた。

 まさか、知らない人だ。

 俺はその人を見たまま黙っていたが、もう一度手招きされて、「高瀬じゃないの?」と菊池にも言われてしまい戸口に向かった。

 近付いても視線が外れない。呼び出し相手は俺で間違いないらしい。

「こんにちは」

「こんにちは!」

 目の前で元気な挨拶まで貰ってみても、どこかで会ったという記憶は蘇らなかった。

 目線はわずかに下がる。目元が優しくて、薄い唇も微笑んでいるのが定位置だと思われた。

 短い髪は少し明るくて、手間の掛けられていないラフなスタイリング。腕には特徴的なごつい黒い腕時計。緩められたネクタイが少しくたびれていて、全体の佇まいが親しみやすさを醸している。

 すっと息を吸う気配がして、何か言われるんだとその人の目を見た。

「いきなりでなんだけど、高瀬くんって三旗のサッカーチームにいたんだよね?」

 見ず知らずの人に名前を呼ばれるのにはもう驚かないが、サッカーというワードにそわっとなった。

「いましたけど」

「いたよね?」

「……い、いましたけど」

「……」

 なんなんだこの間は。

 妙な気持ちになりながら、後輩という立ち位置から微妙な笑顔を作った。

「俺は三年B組の小塚。サッカー部のキャプテン」

 ハッキリと言われて俺は返答に窮した。

「……サッカー部?」

 確か俺が入学する前の年にメンバーが集まらずに解散したはずだ。

 俺の困惑した顔を見て、小塚と名乗った三年生はくすっと笑った。

「そ、今はないんだ。俺が一年の時はあったんだけどね。サッカーは11人必要だからさ。あったら俺がキャプテンだったはずなんだけど」

 小塚先輩は急に根明な雰囲気で「あはは」と笑った。

 どうしよう。自分の顔が眩しいような変な顔になっていくのを止められない。

「そうなんですね」

 いよいよ何も思い浮かばず、合ってるんだかなんだか分からない文句で対応すると、小塚先輩はまた少し目を細めて笑った。

「だから今はフットサルやってるんだ、外部のチームで」

「あー! そうなんですか」

 良かったですね。

「うん!」

「……」

 うん! って。何この人。会話のテンポが独特過ぎる。俺? 俺が何か言う番なの?

 頷いたっきり小塚先輩はにこにことしているばかりで、無口な俺ですらこの不気味な間に耐えられなくなった。

「あの、昼休み終わっちゃいますけど」

 俺が促すと、先輩はあっという顔をした。

「いやあ去年の球技大会でも思ったけど、君めちゃくちゃサッカー上手かったよなーと思って」

「あ、ありがとうございます」

「怪我?」

「え?」

 唐突に聞かれて、雑に返事をしてしまった。

「なんで今はうちなの? そもそも弱かったし」

「ああ……」

 妙なやり取りに気を取られるけど、この返答には慎重にならなければいけない気がした。怪我と言うべきかもしれないけど、俺はもう不必要な嘘をつくことに疲れていた。

「今は勉強に力を入れているので」

「あー! そうなんだ」

 小塚先輩は残念そうに首を傾げながら、それでもまだ何か思うように俺を見ている。含みがある視線だったけど、不快ではなかった。

 俺は例のあれがあって以来、視線の選別にはそれなりに自信がある。確認は取らないから合っているかは分からないけど。

 チラと先輩の視線が斜め上を見た。多分教室の時計だ。

「――正直にいうと、フットサル一緒にやらないかなって誘いに来たんだ」

 ようやく用件が明かされて俺はホッとした。

「そうでしたか、わざわざすみません」

「ううん、ダメもとだったから」

 先輩はぽりぽり頭をかいて、理解したというように頷いた。俺はつられて頷きながら先輩を見送る心づもりをした。

「君、大学は行くの?」

「えっ?」

 話は終わったんじゃないのか。

「いや、ええと、行くかもしれませんけど……」

 戸惑って答えたところでチャイムが鳴った。

「あ、ごめん! 話の途中で終わっちゃったね! 放課後またくるわ!」

「えっ?!」

 じゃ、と先輩は行ってしまった。俺は戸口で立ち尽くした。

 あの人わざとチャイムに被せたな。

 ニコニコ優しそうな顔も、変なテンポの会話も、俺の放課後を手に入れるための時間稼ぎだとピンときた。

 ああ、今すぐ先生に相談したい。相談というかただ話したかった。先生はきっとあの変な先輩を面白がってくれるだろうと思った。



 先生との話題になるだろうというくらいの軽い気持ちで放課後を待った俺だったが、先輩の押しに負けて金曜日の夜にフットサルへ行くことになってしまった。

 目的のためには不可解な間すら厭わないこの人は、たっぷりと時間のある放課後になると、急に巧みなセールスマンのようによどみなく俺に誘いをかけた。

 人が足りない日があるだとか、高校生が自分しかいなくて寂しいだとか、チームにはここから近い大学の生徒も居るからとか、およそ俺が行く理由にはならないことばかりを連ねられたが、まあ俺が行かなきゃならない理由なんてそもそもあるわけがないしと、いつの間にか行くと返事をしてしまっていた。


「靴は何センチ?」

「27です」

 連絡先を交換しながら足のサイズを聞かれる。

「俺と一緒だ。一足余ってるのがあるからそれ貸すね」

「あ、はい。ありがとうございます」

 認証したアイコンが誰かのTシャツの胸の部分で、チリコンカンアタック! と書かれている。ちょっと意味が分からない。

「動きやすい格好ならなんでもいいよ。ドリンクは俺がおごる」

「いえ、自分で持って行きます」

「そう?」

 小塚先輩は第一印象の柔らかな見た目よりも少し……いや結構強引だった。でも不思議と不快ではない。独特の求心力があるタイプだ。

 中学時代のキャプテンの須賀さんに似ている気がする。そう思うと、サッカー部があればキャプテンだったと言ったのも冗談ではなかったのかも。

 下の名前は春道とある。綺麗な名前だなとまた少し好感を持った。

「いつもはね、東中野小とか川向こうの山陽体育館でやったりするんだけど、今度の金曜は河原通りにあるフットサル専用の体育館でやるんだ」

「試合ですか?」

「うんいつも試合形式だよ。相手も馴染のチーム。身内みたいなもんだから気楽にね。やりながらルールも教えるから」

 気楽にと笑った先輩につい昔の癖が出て、運動部臭い返事をしたら笑われてしまった。

 もう二年近く運動は体育以外やっていない。それに球技大会とは違ってちゃんとぶつかってこられるだろうな。

 どうしよう、緊張してきたかも。

 次々に話が進んで不安な気持ちが湧いてくるけど、もう断れる流れではない。

 どうして嘘をついて断らなかったんだろう、ようやく毎日が平穏になってきたのに。

 俺はとにかく早く先生と話したくてしょうがなかった。




「怪我には気を付けて」

 先生は軽くそう言った。

 さっそく夜に先生にメールして、電話が来いと祈るとすぐに掛けてきてくれた。俺は喜んでそれを受けた。


「今更ちょっと緊張してきた」

 後ろ向きな気持ちを告白すると、スマホの向こうで先生はふうんと鼻を鳴らした。

「緊張って、久しぶりの運動だから? それとも新しい場所に行くから? それとも男と接触のあるスポーツをするから?」

「全部だよ!」

 笑う先生につられて俺も笑ってしまった。

「ついて行こうか?」

 優しい声が提案する。

「うんって言いそうになるからやめて」

「冗談じゃないのに」

「付いてきてどうすんの?」

「高瀬がゴールしたら、代わりに全員とハグする」

 想像して噴き出してしまった。

「それ凄く変な人だし楽しそう」

 海外リーグの試合でたまに見る乱入サポーターみたいだ。

「きっと大丈夫だよ、前とは違う」

「何が違うの?」

「もうあの頃みたいに迷ってないだろ?」

「……」

 そうか、そうだな。俺はもう疑いようもないゲイだ。

「新しい出会いだよ、色んな人を見てくればいい。もっとムキムキがいいとか、将来性がなさそうとか、人相が悪いとか」

 先生の言い方だと、あまり魅力的なチームでは無さそうだ。

「それで、好みの人がいたらどうするの?」

「話しかけてみたらいいよ」

「先生……」

「好きになるのは自由だよ、諦めたい男もいることだしね」

 言われて心にぽこっと孝一が出現する。あの子とは上手くいってるかな。

 新しい出会いに肯定的になろうか、まだ無理だと言おうか迷う。

「何があっても俺が全部聞くからね」

「うん」

 そう言われたら頷くしかない。

「本当に一緒に行かなくていい?」

「それは大丈夫」

 念押しする先生に笑いながら、いつの間にか気持ちはずっと前向きになって、去年の球技大会ぶりにボールを蹴ることができるんだと、急に胸が騒がしくなった。

 大丈夫、きっと大丈夫だ。

「高瀬がまたサッカーするのが見たかったのに」

「フットサルだよ先生」

「そう、俺フットサルが大好きなんだよね」

 中学時代の先生の常套句に、俺はまた声を上げて笑った。

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