第28話 心の中の泥団子

 

 先生におやすみを言って布団に入ったけど、眠れる気がしなかった。

 薄闇を眺めながら孝一に会った日曜日を思い出した。

 本当は嫉妬した。

 どんな子? って聞く時には息が詰まった。

 孝一は照れ混じりの嬉しそうな表情で、オーボエという楽器を吹いていると言った。俺はそれがどんな楽器か分からなかった。

 女子の中では背が高くて、人数の多い吹奏楽でもすぐに見つけられると言った。

 それは好きだからなんじゃないのと言うと、「そうかも」と恥ずかしそうに頬を上げて笑う孝一に胸が苦しくなった。

「向こうがどう思ってるかはわかんないけど、考えるとなんかふわふわする。こういうのが恋ってやつなのかな」

 初めて見るまぶしそうな笑顔を見ていられなかった。

「これから会うの?」

「うん、真結と真結の友達も一緒にね」

 そんなんじゃないよというように孝一は笑ったけど、俺はきっと上手くだろうと思った。

 それぞれの妹達も二人の恋の気配に気付いていて、含み笑いをしながら事が起こるのを今かと待ってる、そんな光景が浮かんだ。

 好きな子の詳細を明かした孝一は、小さくて座ることができなくなったブランコに立って乗った。頭がもう梁にぶつかりそうで、日に焼けた太い腕が掴むロープは頼りなげに見えた。

「壊れるかな」

 そう言いながら無理やりブランコを立って漕いでいる。なんだかこっちが照れるくらい浮ついて見えた。

 数日前の自分を見ているようで、溜まらず視線を遠くへやった。

「……おばさんたちは元気?」

 言ってしまってからすぐに後悔した。前にもこんな間違いをやった気がする。成長のない俺の横で、孝一はブランコを漕ぐのを止めて惰性で揺れた。

「うん、相変わらずかな。最近は喧嘩してないみたいだけど、どっちかがいない日が多いって」

「ごめん……聞いて」

「いや、祐だけだよ気にしてくれるのは。噂はみんな知ってると思うけどね」

 やっぱり孝一も噂を知っていたのか。俺はますます暗澹たる思いに陥った。

 けれど落ち込む傍ら、俺だけという言葉に喜びそうになるのを必死で堪えた。

 なんだかまた昔のように逃げ出したい気持ちになってきた。

「ありがとな、真結にも時々連絡くれてるんだろ?」

「連絡っていうか、コメント付けてるだけだよ」

 なんでもない。あの事件の罪悪感があるだけだ。

 俺のコメントなんか何の価値もないんだ。こうしてありがとうなんて言われて少し嬉しい気持ちになってる。何気ないふりをして、孝一と繋がっていたいっていう浅ましい考えがあるんだ。

「今日は家で夕食を食べるんだ。母さんが張りきってなんか作ってるよ。父さんはいないと思うけどね」

「ふうん」

 自己嫌悪に陥っていた俺の心は、ぎゅっとねじ切れそうになった。

 父親が帰らないことより、家に招く仲なのだということにショックを受けている。

 あの子は今夜あの家で、おばさんの作る、真っ白いお皿に乗った丁寧な料理を食べるんだ。孝一に愛しく思われながら。

 頭を抱えそうだった。

 惨めっていうのはこういう気持ちを言うんだろうな。まるで両側から押しつぶされているみたいに肩が首へと寄ってきた。

 自分の心情にぴったりの言葉があるというのは、同じ思いをした人がいる証拠で、少しだけ救われる気がする。

「――じゃあ俺もう帰るよ」

 逃げ出したい気持ちが限界に達して、ブランコから立ち上がった。

「え? まだいいのに」

 驚く孝一に見られないよう手のツボを強く押した。

 やっぱり会ったらこんなことになる。まだ俺は……いや、考えるな。

「ちゃんともてなす準備しなよ。おばさん手伝ったりさ。身だしなみは、まあいつもちゃんとしてるけど!」

 明るく笑って、ちょっとからかって、友達ってあとなにをすればいいんだっけ。

「忙しいのか?」

 不思議そうな孝一の目に見られ、耐えられなかった。

「俺には会おうと思えばいつでも会えるからさ!」

 上手くいったら教えろよ! なんて言って、ついにその場を走って逃げだした。



 気が付くと涙が零れていた。

 あの日の感情が心を埋め尽くして、さめざめと枕を濡らしている。

 涙の理由は考えたくもない。泣いている自分を同情したくもない。

 終わってしまった初恋として、そっとしまっておきたかったのに。

 墨が滲むように心が黒に染まっていく。濡れた黒い心は簡単に破けて二度と元には戻らない気がした。

 自分を責める感情の中に、先生を呼ぶ声がする。

 助けて欲しい、破けてしまう前に。

 迷うこともできずに電話を掛けた。先生は直ぐに出てくれた。


「どうした?」

「本当は嫉妬した、凄く」

「……うん」

「俺は孝一の友達にしかなれない。俺が怖くて入れないあの家で、その子は一緒に夕ご飯を食べるって言ってた。孝一のお母さん料理が上手なんだ、いつも美味しかったの覚えてる」

「うん」

 何度も息を止めながら、感情を抑え込む。

「孝一の両親、上手くいってないんだ」

「え?」

「中学の時から、お互いに別の人がいるみたいで」

「そうなんだ」

「親の言い合いが始まったら真結ちゃんと二人で外に避難するんだ。そんな喧嘩、俺の親はしない。もっと話を聞いてあげたかったし、外で無理してる孝一のそばにいたかった。でも俺はあの頃それどころじゃなくて」

「うん」

「親の話をするのは俺だけだって、気にしてくれてありがとうって。でも俺は、その子が彼女になったら俺じゃなくてその子に話すようになるんだろうなって思って寂しい気持ちになる。俺なんか必要なくなるんだろうって、そんなことを心配してる」

 涙さえ腹が立つ。拭っても拭っても零れてきて、どんどん自分が嫌になる。

「こんな日が来るって分かってたのに! 友達でいたいのに……なんで俺は!」

 なんで俺はまだ孝一が好きなんだろう。

 もう一年も距離を置いたのに。もう大丈夫だと思ったのに。嫌な心が噴き出して止められなかった。

 不思議そうに俺を見る孝一の顔が頭から離れない。俺はどんな顔をしてた?

 あの後どうなったんだよって友達らしく聞いてやらなきゃいけないのに、少しもその気になれないまま二日が経った。つまらない友人にすらなれない。それどころかこんな嫌な気持ちで溢れてる。

 鬱陶しい。こんな自分は鬱陶しい。


「俺も、叶わない人を想ったことがあるよ」

 

 先生の言葉が、落ちていく思考を止めた。

 

「……ほんと?」


「うん。会いたいけどそれも叶わなくて、すごく辛かった」


 先生の声は、今もまだその痛みを感じているみたいに弱かった。

「……どうやって忘れたらいい?」

「忘れられないんだよ、好きなうちは」

 珍しく先生が答えをくれた。

「自分が嫌になるんだけど」

「そうだよね、考えないようにしたっていつも心にあるのがわかる。辛いのに、想いには逃げ場もない」

 口を閉じたまましゃくりあげた喉が鳴って、涙がじりじりと頬を下っていく。

 一度だって孝一との関係に期待を持ったことはない。先のない思いを一体いつまで抱えれば俺の気は済むんだろう。

「俺がいるよ」

 変わらない言葉がいつもと違う場所に沁みた。

「先生が?」

「そんなしょぼくれた声で呼ぶな、なんだって全部聞いてあげるよ」

 

 逃げ場はない、だから吐き出すしかない。

 深く息を吸って気持ちを落ち着けることに集中した。

 胸の中にあるべちゃべちゃした黒い感情を泥団子をこねるみたいになんとなく丸くまとめていく。

 昔から先生は悩みを解決してくれるわけじゃない。向き合い方や付き合い方を教えてくれるだけだ。でも、それがほとんどの答えだ。

「急に好きな気持ちは無くならない。孝一君がいい男な分、思いが落ち着くまでには時間が掛かるかもしれない。友達でいるのが耐えられなくて、いつか思いを伝えたり、きっぱり決別したりするのかもしれない」

 告白も決別も嫌だ。そんな未来は来てほしくない。

「できたら、友達ではいたいかな」

 なんだか我儘を言うような気がしたけど、一応口にした。

 先生は、「うん」とそれを肯定してくれた。

「また辛いことがあるかもしれないけど、一緒に乗り越えていこう。そういうものだから」

 先生の声は空を見上げてるように聞こえた。

 自分の鼻の先からくたびれた犬みたいな声が漏れた。

「俺じゃ不満?」

「甘えてるなって思っただけ」

「いいんだよ」

「いつもありがと」

 なんだかこの言葉も言い飽きた感がある。涙の止まった目じりが乾いてざらざらする。

「眠れそう?」

 目が熱いと返すと、冷やすように言われた。

「先生、おやすみなさい」

「おやすみ、さっき言ったけど」

 泣き止んだばかりの俺をもうからかってくる先生に簡単に笑わされる。

「ほんと、ごめんなさい」

「いいんだよ、じゃあね」


 電話を切って階下に降りると、母さんがソファーでうたた寝をしていた。

「母さん風邪ひくよ」

 肩をゆすって、付いたままのテレビを消した。

「ひかないわよぉこんな季節に」

 母さんはむにゃむにゃいいながらまた眠ってしまった。

 起きる気がなさそうな母さんにブランケットを掛けて、冷凍庫から保冷剤を探して二階に戻った。

 

 ベッドで仰向けになって、二個の保冷剤を目に乗せたり冷たくて離したりする。

 心に目立った感情が見当たらない。話して泣いて、すっきりしているらしい。単純だ。


 孝一に会った日曜日、それと翌日の月曜日。火曜になって夜の今。

 見ないふりができたのはそれだけだった。先生の声を聞いたら全てを吐き出したくて堪らなくなった。

 昔よりもこらえ性が無くなっているのかな。初めての感情だったからかな。グラビアアイドルへの嫉妬よりも完全にパワーアップしていた。

 吐露する恥ずかしさよりも黒く飲み込まれていく自分に耐えられなかった。

 

 楽しそうに見える学校のみんなも、こんな気持ちになることがあるのかな。

 付き合っていた二人が別れたりするのを噂で聞くことがある。一度思いが通じ合ってからの別れは、俺の抱いた純然たる片思いの嫉妬心よりも痛み度合はきつい気がする。俺なんて初めから期待が無いわけだから、うん、やっぱりきつそうだ。

 俺も少しは青春の苦さを味わえているのかもしれない。ちょっと嬉しい気がする。まあ今だけだろうけど。

 いつか孝一に恋人ができて、キスをしただのセックスをしただの、別の女の子を好きになってどうしようだのいう話を聞かされるようになって、ああああやめよう。


 先生の叶わない相手はどんな人だったんだろう。先生は誰に話を聞いてもらったのかな。

 俺のこの感情も、いつかは誰かの切ない恋に共感してあげられる経験のひとつになるんだろうか。

 是非そうであって欲しい。

「はぁ」

 保冷剤を机に置いて、心の中の泥団子を見つめながら眠った。

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