第21話 夜の桜公園
妻の一周忌まで一か月余りとなったある夜、高瀬に会った。
春休みとは言え、高校生が出歩いていい時間じゃなかった。
まるで置き去りにされた子どもみたいに、桜が満開の公園のブランコで一人で揺れていた。
「先生死んじゃったの? 幽霊?」
ふわっと笑ってそう言った高瀬が、妻の死を知らないと直ぐに分かった。知っていたら彼はそんな言葉を選んだりしない。
「生きてるよ、不良高校生」
ブランコの柵を跨いで高瀬の正面に腰掛けた。
「先生なんかカッコよくなったね。メガネ止めたんだ」
高瀬は軽く首をかしげて、俺の足元から頭のてっぺんまでを眺める。
「高瀬は色が白くなったな」
俺も同じように高瀬をわざと舐めるように見てからそう返した。
「サッカーやめてヒョロヒョロ」
クスクスと笑う声が懐かしさを引き起こして耳に残った。
突然、妻の死よりも前の世界に戻ったような気がして、急激に胸がいっぱいになった。
溢れそうな気持ちを落ち着けながら隣のブランコに移動して、一緒に夜空を見上げた。
街灯が明るいが、星もよく光っている。
「高校はどう? うまくいってる?」
俺はその質問を「まあまあね」とか、「普通だよ」とか、それくらいの返事が来るだろうと思って言った。
でも俺の一年がそうじゃなかったように、高瀬の一年もそうではなかったようだった。
「全然、だからこんな時間に公園にいる」
ドキっと胸が鳴った。自分のことを言われているのかと思った。
俺はなんでこんな時間にこんな所へ出歩いているんだろう。そして高瀬はどうして。
高瀬の横顔は、よく見ると記憶よりもずっと大人びて見えた。
「どんな一年だった?」
聞いてから、話してくれないかもなと思った。そしてもう一年も高瀬のことを思い出さなかったんだと気がついた。
面白くて好きな生徒だったのに。
少し間があって、ぽつと答えてくれた。
始めは順調にいっていたと思う、と。
高瀬はサッカーが上手く、頭のいい生徒だった。教師からの評判も良くて、三年の途中でクラブを辞めてしまって、あの時は酷く何かに迷っていた様子ではあったけど、結局詳細は教えてくれなかった。ただ、よく考えることのできる生徒だったから、あまり心配はしていなかった。
「先生、俺ゲイなんだ」
その告白はとてもサラッとしていて、彼がもうそのことについて考え尽くしたんだと分かった。
「初めは上手くいってた。女子とも男子とも普通に。でも知ってた? 高校生ってさ、直ぐ付き合いたがるんだ。本当すぐ告白してくるんだよ。居心地のいい関係になったと思ったら、好きですって。俺一年で五人に告白されちゃった。モテるでしょ」
高瀬はこっちを見ずにずっと遠くを見て、昔よりも幾分か饒舌に話す。
「男子にもからかわれた。なに振ってんだよ付き合っとけばいいじゃんって。断った子の友達に、思わせぶりなことするなって言われた。でも俺さあ」
そこで高瀬はひとつ息を吸い込んだ。
「俺、女の子じゃ勃たないんだ。本当にみんな友達だと思ってたんだよ」
上手く言葉が出てこなかった。
あの頃の自分なら何て言っていた? あの頃の俺なら。
「……」
さっきいっぱいになった胸の中はただの空気だったようで、今度は急激に萎んでしまった。
「男のことはさ、性格はいいけど好みじゃないとか、いい奴だけど背が小さいとか、そんな風に考える。向こうは俺を友達だと思ってるのに、俺が女の子に思うみたいに、居心地のいい友人だって。でも俺は、告白してきた女の子と同じように男を見てる」
高瀬の目から涙が溢れた。
「バレンタインにね、女子が二人、俺のことで喧嘩して停学になったんだ」
「え」と喉から声が漏れた。
「告白された子?」
「ううん別の子。中学から俺のファンだったんだって。サッカーはもう辞めてるのにさ」
高瀬の靴が地面を擦った。
「初対面みたいだった。好みが合うね、趣味が合うねって二人とそれぞれ会話して、俺に物をくれようとしたりするんだ。でも俺はさ、ゲイだから、受け取らなかった。連絡先も交換しなかった。そしたらバレンタインの日に二人が掴み合いで喧嘩してた。お互いに顔に怪我までして、こいつは俺のこと中学から知ってたって。嘘つきって罵りあって、先生たちがみんなで引き剥がした。生徒もたくさん集まってた」
高瀬の頬を音もなく涙が流れ、小さく前後に揺れている。
とても儚い生き物のようで、今にもこぼれて散ってしまいそうだ。
何も掛ける言葉が思いつかない。
その代わりに、俺の心の中の孤独が共鳴するように揺れていた。
「ゲイだって言ってやろうかと思った。もっと早くに言ってたら、そしたらきっとあんなことにはならなかった」
「高瀬のせいじゃないよ」
それは明らかに行き過ぎた考えだ。たらればの域にもない。けれども、やっと出た言葉が高瀬を救った手応えはなかった。
「二人ね、孝一の妹の真結ちゃんのSNSに悪口まで書き込んでた。発表会を見に行った時に一緒に写した写真を上げてたんだ。複数のアカウントから悪口にいいねまでして」
その話は確かに聞いた覚えがあった。他校の高校生がうちの生徒のSNSに誹謗中傷を書き込んだと。
書き込まれた生徒ではなく、向こう側から連絡が来て、謝罪されて解決したと聞いた。誰だったかは覚えていなかった。
「一人は転校して、一人は一週間の停学。それでも俺は言えないんだ。庇ってくれた友人にも、両親にも。俺がゲイだってことは、二人の人生をあんな風にしてまで秘密にすべきだったのかな。真結ちゃんにまで迷惑かけて」
また涙が落ちて、靴が地面を弱く蹴った。
たった一年。俺は妻を亡くして、高瀬は秘密を一人で抱えて生きていた。その二人が並んでいる。
なんなんだこれは。誰が救いに来てくれる? 今ここに。
「みんなが俺を見る。俺にも原因があったんだろうって目で。ちゃんと断ってたんだから気にするなって言ってくれる人もいるし、先生も納得してくれた。でも俺は堂々とはできない。だってあんなことにはならなくてもよかった」
いい、秘密にしてていいんだ。その出来事は高瀬のせいじゃない。
ちゃんとそう言ってあげたいのに、一年のブランクが自分の信頼性を損なわせているのも分かった。
一人でたくさん考えていた高瀬に、久しぶりに出てきた俺の言葉が勝てるわけがない。それにきっと、高瀬もそれは分かっている。自分のせいじゃなくったって胸は痛む。
「中学の時、孝一の家に泊まりに行ったら俺、勃っちゃったんだよね。あの話覚えてる?」
「うん、覚えてるよ」
言えない相手は孝一君だったのか。
「何かの間違いだと思った。でも怖かった。そうじゃない気がしたから。孝一をそういう目で見た自分が信じられなかった」
頭の中で、薄れていた記憶の辻褄が合うのが分かった。
「それでサッカーを辞めたの?」
「そう。だって抱き合って喜ぶんだ、ゴール決めたらそのくらい嬉しいから。でもできなくなった。みんなに触れるのが怖かった。そうなってしまうって思ったから」
「ゲイに?」
高瀬は何度か頷いて、下唇を噛んだ。
「なんとか距離を取ってたら、やる気がないんだろうって監督に言われた。違うって言いたいけど理由は言えないし、チームワークが乱れるって言われて、腹が立ったけど理解はできた」
ブランコが寂しい音を立てている。
「孝一から離れてもダメだった。気の迷いじゃなかった。俺は女の子に興味がない。孝一だけが特別なわけでもなかった。男が好きなだけだった」
静かに涙を溢す高瀬を俺はただ見ていた。
身動きが取れなかった。ブランコのチェーンの音すら立てたくなくて、俺はとにかくジッとした。
どうして俺は一度も高瀬のことを思い出してやらなかったんだろう。俺にだけ話してくれていたのを分かっていたのに。
高瀬の言うように、こんなことにはならなくてもよかった。でもどこから?
自分の喉が詰まるような毎日が頭を過ぎる。
「あの頃に戻りたい」
言葉が強く胸に刺さった。
ダメだ、言わないでくれと今にも口を突いて出そうになって、足の裏で地面が音を立てた。
ざあっと夜風が吹いて、たくさんの桜がひらひらと舞い散る。
「みんなと同じだと思ってたあの頃に戻りたい。何も考えないでサッカーして、ゴール決めて、揉みくちゃになって喜んでたあの頃に戻りたい」
俺だって変わりたくて変わったわけじゃない。そう言って理由を明かさずに辞めてしまった。
あんなに上手だったサッカーに、飽きたわけがなかった。
「サッカー、辞めたくなかったんだね」
「辞めたくなかったよ」
高瀬は声を震わせて泣き出した。
見逃してしまった。高瀬の大切な人生の分岐点を。
「ごめんね」
なんとか絞りだした謝罪の声は酷く震えていた。
高瀬の将来を守れなかった。特待生の話まで自分で断ってしまった。自分の性的指向に混乱して、一番の特技さえ手放して。
もっと踏み込んだらよかったんだろうか。あの時の俺は、理解のある大人のふりをしすぎていたのかな。
あれからずっと、今もまだ一人で。
「泣くなよ先生」
高瀬は笑って、肩で濡れた顔を拭う。
「一人にしてごめん。一年も話を聞いてやらなくてごめん」
涙を親指で拭って、ただ謝るしかできない。
いいよと笑った高瀬は、また遠くに視線をやった。
「上手くやれてたんだよ、今年に入るまでは。でも色々あって、最近はちょっと耐えられなくてさ。それで今日はふらふらここまで来た。星が綺麗だったから」
空を見上げていた横顔が、ふっと俺を見た。
「そしたら先生に会えた」
頬の濡れた笑顔に、また胸がはち切れそうなほど膨らんだ。
痛々しい何かが詰まっている感じがした。孤独や、憤りや、戸惑いや、あらゆる不安な気持ちを生み出す感情が、俺の胸を内側から痛めつけた。
言いたい、この痛みを吐き出してしまいたい。
高瀬、俺もだよ。俺も今日はちょっと耐えられなかったんだ。夜を一人で越えられる気がしなかった。真っ暗な明日が怖かった。寂しかった。
寂しくて誰にもそれを言えないのは、凄く苦しいよな。
でも言わない。
きっと高瀬は妻を亡くした俺の方が辛いだろうと考えてしまう。
そんなことは絶対にない、高瀬の辛さは何とも比べたりできないんだよ。
手を伸ばして高瀬の背中を何度も摩った。
高瀬を家まで送って連絡先を交換した。
「いつでも、夜でも構わないから、ふらふらする代わりに俺に連絡して。時間はいつでも大丈夫」
「奥さんに怒られない?」
遠慮する顔に、「大丈夫」と、笑顔を返した。
「ありがとう先生」
「またいつでも」
高瀬は少し疲れた顔で頷いて、家に入っていった。
嘘になるだろうか、なるか。
深く息を吐いてから、「奥さんはもういないから大丈夫」と、小さく呟いた。
妻がいないことが大丈夫な時もある。それは少しだけ、救いにも感じられた。
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