高校二年生

第22話 先生と憂鬱な俺


 目が覚めた時、きっと夢を見たんだろうと思った。

 ここ最近はあまり眠れていなかったし、あの事があってからひと月以上、俺の心は一度も浮上していなかった。

 表情筋は毎日同じ位置にいたし、言葉も数種類ほどしか発していない。さすがに心の酸素が欠乏したとしても不思議はない。

 夢ならまだいい、妄想や幻覚を見たんだとしたら?

 落ちていくのに慣れた俺の思考は、きっかけがあると速やかに現状を悪くする新しい可能性を作り出すようになっていた。

 そして出来上がった良くない想像をまるで確定した未来のように思わせて時間を潰させる。

 思春期が始まってからコツコツと作り上げてきた、自分で自分を落ち込ませる思考回路が、今現在の俺のメイン回路として使用されていた。

 でも……。

 ベッドの上で仰向けになって目を閉じ、身体の隅々に気配を巡らせる。

 でも、多分夢じゃない。妄想でもない。そう身体が言っている。

 完全に腹の底にあった憂鬱が、胸の下あたりまで浮上している。あとちょっと揺すれば、耳から水が抜ける時みたいに、快と不快を同時に味わうみたいな感覚と共に、身体から抜け出ていくんじゃないかと予感させた。

 そう考えられることが違いだ。

 もしあれが俺の作り出した妄想だったとしたら、そんな前向きな未来を予感させることなどない。あらゆるバリエーションをもって、さらに自分を落ち込ませたはずだ。

 確かめる方法は手の中にある。スマホに先生の名前があるかどうかを確かめればいい。

 でもなかなか実行には移せなかった。

 もし無かったら、つまりあれが夢か妄想だということになる。絶望的だ。でももしあったとしても、それが自分で辻褄を合わせるために作った架空の連絡先である可能性も無いとは言えない。どう考えてもそっちの方が重症だ。

 この間、珍しく気が向いてSNSを眺めていると、こんなショート動画が流れてきた。


『不幸でない人には、不幸な人が一向にそこから抜け出すつもりが無いように見えるかもしれない。でもそういうことではない。不幸な人間というのは、行動を起こすことで、より不幸になる可能性を山のように見出している。ほんのちょっとの勇気が未来を明るくするように、ほんのちょっとの気の迷いが、さらなる不幸へと自らを突き落とす気がしてしょうがないのだ』


 とても強い共感を得られた。

 ドンピシャでそれが俺におすすめされたことが怖くて、俺はまたSNSを離れた。


 結局その日も不幸の可能性に怯えてスマホには触れず、いつも通り勉強と読書で時間を潰した。

 けれど普段よりも活発に脳が動いたお陰か、久しぶりに空腹を感じた。勉強は捗らなかったけど、午後に母さんにおやつに呼ばれて、初めて気が向いて階段を降りた。

 降りてきた俺を見た母さんは明らかに嬉しそうにして、いそいそとコーヒーとクッキーを出してくれた。ただそれが、前に森崎さんがシュークリームのお礼にくれようとした、老舗洋菓子屋のバナナチョコチップクッキーだったために、俺の心はまた闇へと傾いた。

 クッキーを前に表情が暗くなる俺に、母さんの顔も難しくなっていった。

 昨日までなら、無言で席を立っていたかもしれない。でも今日は母さんの表情に気が付いて、なんとかクッキーを口に入れた。

 食べ馴染みのあるそれを美味しいと思うことはできなかった。噛むたびにクッキーとチョコチップがばらけて、口の中が採掘場になったような気がした。

 ふいにコーヒーが香って、一口含む。

 一時期は美味しいと思えていたコーヒーも、今の俺には温かな苦い液体だった。でもそれが、中学時代に先生が淹れてくれたコーヒーの味と同じで、思わずくすっと笑ってしまった。

「――ごちそうさま」

 二階に上がって、また机に向かった。

 母さんはきっと混乱しているだろうな。でもあまり申し訳ないとは思わなかった。

 コーヒーの味が呼び起した情景が、俺の心を少し、揺すった。



 夜の十時過ぎに、先生から『眠れそう?』とメッセージが入って、妄想じゃなかったんだと安堵した。


 ベッドの上で寝っ転がって、なんと打とうか迷って、先生にゲイだと告白したことを思い出した。

 俺の思考は一日、先生との再会が現実か夢か妄想かという所で足踏みしていて、内容については追えていなかった。

 そうだった、俺は先生に最大の秘密を話してしまったんだ。

 それに気付くと、ありふれたやり取りで悩む必要もないんだと、素直に思った言葉を打ち込んだ。

『あんまり眠くない』

 階下では母さんがまだ起きている気配がする。父さんは、分からない。

 あの事があってから、母さんとも父さんとも、まともに会話はできていない。

 年頃なのだし問題無いようにも思えるけど、あんな事があったわけだから、俺のこの無口っぷりを思春期だからとは両親も思えないだろう。

 心配させているのは分かっているけど、自然発生的な会話がどんなものだったかも最近ではよく分からなくなっていた。

 ぽこ、と音がして返事が来た。

『じゃあ少し話そう』

 文面を目が捉えた瞬間、煩わしさを覚えた。

 聞いてもらいたい話は昨日全部してしまった。それを踏まえてさらに何かを聞き出されるのかと思うと、気は進まなかった。

 一方的に聞かせておいて、我ながらわがままだ。

『先生は眠くないの』

 前向きになれない気持ちで返事を打ちながら、それでもこうして人と会話をしていることに懐かしさを感じた。

 俺は初めてのカミングアウトというやつを一年ぶりに会った中学の担任の先生にしてしまった。一体何を考えていたんだろう。睡眠不足でちょっと感覚がおかしかったのかな。

 星につられてふらふらとたどり着いた夜の公園に、思いがけず先生が現れて、胸の中が驚きと懐かしさでいっぱいになった。

 半分、夢に居るように感じていたと思う。それで、抑え込んでいた色んな物事が、ひとつふたつのつもりが、ポロポロとこぼれて全て流れ出てしまった。

 堪らず、ぎゅうっと枕に顔を埋めた。

 俺がゲイだと知って、先生はどう思ったんだろう。

 一日遅れで身がすくんだ。でも直ぐに、「ごめんな」と言った先生の潤んだ声と、優しく摩られた背中の感覚が蘇る。

 じわっと胸が沁みて、喉の奥に卓球ボールくらいの空間を感じた。その空間には、憂鬱ではなく、安堵感が詰まっている。

 ぽこ。

 また間抜けな音がして、枕から顔を上げた。

『眠くないけど、眠らなきゃいけないなーって気持ち』

 ああそうだった。先生はこういう人だった。

 そうだよ、俺はこの人が好きだったんだ。何でか分からないけど、この人を直感に近い速さで信頼していた。だから言ってしまったんだ。

 中学の時から、この人にだけはギリギリのところまで白状していた。俺の大事な部分が抜けた話を先生はいつもただ聞いてくれたんだった。

『同じ』

 返しながら、いつぶりか上がった口角を指先で確かめるように触れた。

『高瀬は春休みだろうけど、俺は明日も仕事なんだよ』

『じゃあ寝なよ』

『寝なきゃいけないなーとは思ってるんだって』

 何の意味もない会話が、俺を静かな空間で笑わせる。大人相手とは思えないほどしょうもない。

 きっと先生はあの頃と変わらない。変わらず、ただ俺の話を聞いてくれるんだと分かった。

 さっき喉に現れた安堵感が、鼻腔の天井を突き抜けて脳に届いた感じがした。


『どうしたいの』

『わかんなから高瀬と話してる』

『いが抜けた。わかんない』

『わかるよ』

『俺がわかんないのに?』

『いが抜けた話の方』


 くだらなさにクスクスと笑いながら、昨日の告白を心の中で繰り返す。

 

 先生、俺ゲイなんだ。サッカーも辞めたくなかったし、孝一のことは好きになりたくなかった。誰にも知られたくなかったけど、嘘をつく度に寂しくて、不安だった。

 最近はさ、夜は特に、一人ぼっちな気がするんだ。


『何か話題ないの』

『卵が高い』

『寝たほうがいいと思う』


 真結ちゃんにも、孝一にも謝らなきゃいけないし、庇ってくれた友達にもお礼を言わなきゃいけない。みんなの視線が怖いけど、親に心配をかけたくないから、ちゃんと二年生になったら学校にも行かなきゃいけないんだ。


『高瀬は今日は何をしてたの?』

『勉強』

『良い子だね。しょうがないな、寝ようか』


 毎日膝に顔を埋めて、座り込んでいるような感じなんだ。立ち上がらなきゃいけないのに、立ち上がったら恐ろしい何かに見つかってしまう気がする。でもずっとこのままではいられないのも分かってる。きっかけが必要だった。

 先生にするね、先生を俺のきっかけにする。


『先生、おやすみなさい』

『おやすみ、また明日』



 それから毎日、先生に手を引かれるように他愛ない言葉を送り合うようになった。

 先生との文章でのやり取りには初めは違和感があったけど、だんだんと昔のやり取りを思い出して、気が付くと毎晩、先生と幾つかの会話をしてから、おやすみなさいと打って眠るのが習慣になった。


 先生は相変わらず物事を大げさにしない。一年生の時のことを聞いてきたりもしないし、中学時代の俺の心情を掘り返してくることもない。ただ今日、何があったかを聞いてくるくらいだ。

 俺が二年の教科書の三分の一の予習が終わったと送ると、『ありがたい生徒だ』と返ってくる。それから、『雨が降ってきたね、明日は少し天気が荒れそうだよ』とか、『靴下のかかとが擦り切れそう』だとか、『コンビニの新作おにぎりが美味しかった』とか、本当にどうでもいい話ばかりする。

 俺は少しだけ笑ったりしながら、『うん』とか、『捨てなよ』とか、『食べてみる』とか、ありきたりな短い返事をして、でも少しだけホッとして眠りにつく。

 するとほんの一週間くらいで変化が現れた。

 夜が少しずつ怖くなくなって、きちんとまとまった睡眠が取れるようになった。体内のサイクルが正常に働き始めて、気鬱さも軽減されているのが自覚できた。

 朝から外に出て、近所のコンビニで新作おにぎりを三つ買った。

 母さんが二つ食べて、父さんには自分で買うようにメールしていた。美味しかった。

 完成されていた不幸へと続く思考回路に、迂回路がくっ付いた。

 俺が作った回路ではない。先生がチョイと簡単に引っかけるようにしてくっ付けたものだ。でもそれは、俺にとっては高速エレベーターくらいの性能で、たった一週間と少しの期間に、人生で一番最悪の状態だった俺をマイナス思考気味の男子くらいにまで引っ張り上げてしまった。

 いつの間にか両親に対する口数も戻っていて、明らかにホッとしたような母さんに、ごめんねと心の中で謝った。

 二年生の新学期が始まる頃には、先生と一日の終わりに会話できる夜の時間が、俺の一番の楽しみになっていた。



 明日が始業式だと送ると、先生から電話が来た。

 初めての電話に驚いて、慌てて受けた。

「どうしたの?」

「うん、少しだけ心配になって」

 先生がはっきり心配だなんて言うのは初めてだった。

 意外さに一瞬ぼうっとしたけど、先生の付けた迂回路が働いて、自分も素直になることにした。

「まあ、少しは不安だよ、友達ともクラスが離れたし」

 持田と鶴見、そして林さんは、Ⅽ組とE組に離れてしまった。俺は変わらずA組のままだ。

 甲田達とも離れられたのは良かったけど、あんな風に目立ってしまった俺を黙って庇ってくれていた三人と離れたのは、やっぱり心細かった。

 ただ担任の溝口先生がそのままA組で持ち上がって、終始穏やかに俺の話を聞いてくれた担任が変わらないことだけが、唯一のホッとすることだった。


「先生?」

 先生が黙っていることに気が付いて声を掛けた。

「うん、電話を掛けてみたものの、なんて言ったら良いのか分からなくて」

 そんな風に言うのも珍しい。声色も落ち込んで聞こえた。

「なんか変だよ」

 様子のおかしい先生を笑った。

「俺が出来る事なんて、本当にただ居てやるってだけだ。無力だね、大人なのにな」

 寂しそうな先生に、俺はむしろ励まされた気持ちになった。

「いてくれるってだけで違うよ」

 そう、全然違う。だって今俺は笑えた。

「もう、一人で抱えられなかったから」

 こう言うことができる。

 口に出す瞬間は怖いのに、言ってしまうと少しだけ楽になると分かった。

「高瀬」

「ん?」

「これからは俺がいる」

 言われた途端、じんわりと涙の気配を感じて眉が上がった。

「もう一人じゃないからね」

「……うん」

 ヤバい、涙が出てしまう。

「高瀬はそのままでいいんだよ」

「そのままで?」

 鼻がつんとしてきた。

「そうだよ」

 溢れた涙がスマホに付かないように持ち直した。

 そのままでいいのか、それが不安だった。ずっと。

 もっと何かしてみるべきなんじゃないかと思った。変わるべきなんじゃないかって。みんながそうしろって言うようにやった方がいいんじゃないかって。

 気乗りしない場所にも行って、知らない人と出会って、会話して。行けば意外と楽しいかもしれない。水着で海に行って、テンションの高い女の子たちとバーベキューを食べるべきだったのかもしれない。

 初恋は孝一だったけど、次は女の子を好きになるかもしれないし、気が合う子と一緒にいるのは楽しかった。孝一と距離を取ることで関心が薄れていったみたいに、近付いてみたら案外好きになれる人がいるのかもしれない。

 黙っていたってあんな事になるなら、その気になれない事だってやらなくちゃいけないのかもしれない。望まれるなら、三住さんが言ったように、「付き合ってみて」みるべきなのかもしれない。キスくらいなら出来るかもしれないし、してみたら全然嫌じゃないのかもしれない。

 だって俺は普通に紛れて生きたいんだから。どうせもう、たくさん嘘を吐いているんだから。

 高瀬、と先生が俺を呼んだ。

「したくないことはしなくていい。それでいいんだ。しなかったことを後悔することはあるかもしれないけど、したくなかったことは後悔しなくていい」

「うん」

 涙が止まらない俺に、先生は何度も「大丈夫、俺がいるからね」と繰り返した。

 声を上げるたびに胸のつかえが取れていく。まるで子どもに戻ったみたいで、泣き声がドアの向こうに聞こえてしまうんじゃないかと思って布団に潜って声を殺して泣いた。

「一人じゃないんだってことだけ忘れないで、少し頼りない大人だけどね」

 先生は俺が泣き止むまで待ってから、おやすみまた明日と言って電話を切った。

 その夜は久しぶりに、沈み込むようにとても深く眠った。






 高瀬との通話を切ると、また何もない部屋に一人になった。

 俺がいる、なんて。

 首を振って自分を鼻で笑った。明日から俺も新学期だ。

 荷物をまとめてソファーの横に置くと、寝室に向かった。

 ベッドに入って、開けたカーテンから差し込む夜の明かりを見た。まだ少し今日が名残惜しい。


「おやすみなさい」


 高瀬の声を思い出して、詰まった息を胸から追い出した。

「おやすみ高瀬」

 呟いて、目を瞑って眠った。

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