第20話 中屋 櫂


 俺が中学校の教師を目指したのは、中学生の時の担任の先生の影響だった。

 話しやすくて、いつも機嫌がよくて、あまり否定しない人だった。

 その頃、俺の通っていた中学は荒れていて、備品の破壊や生徒同士の暴力問題も頻繁にあって、その先生以外の教師はいつも苛立っていた。問題を起こしていない俺たちへの視線も鋭く、本当に居心地の悪い環境だった。


 校内や校区内の色んな所に落書きがされていた。

 大抵の落書きは、意味を持たないことに意味があるんだとでも言うように、子どもが書き殴ったような強い線と色で、日常の至る所の景観を損ねていた。

 俺はそれを極力視界に入れないように、いつも足元を見て歩いた。


 でもある日、通学路にある毎年綺麗なバラを咲かせている老夫婦の家の門扉に、真っ赤なスプレーで卑猥な言葉が書かれてあるのを見つけた。

 それを目にした途端、見て見ぬふりができないほどの強い怒りで、体中の体液が沸きあがった。

 俺は走って学校に行って、落書きの清掃をさせてもらいたいと先生に頼んだ。先生は快諾してくれ、それを一緒に手伝ってくれた。


 全ての学校がそうではないだろうが、姉の話では、別の中学も同じような問題が多かれ少なかれあるみたいだと言っていた。

 俺自身も思春期であると自覚していたし、コントロールしがたい感情に飲み込まれそうになることはあった。あの落書きを見た時のように。



 門扉がおおかた綺麗になって、俺は先生に、どうして中学の教師になることにしたのかを尋ねた。

「一番めんどくさい時期じゃない? こんなバカなこともするしさ」

 俺がそう言うと、先生は、「そうだねえ」と立ち上がり、門扉を少し離れて眺めると、消え残りを見つけてまた擦りながら言葉を続けた。


「今の君たちは、二次性徴って言ってね、心と体が子どもから大人に大きく変化する年頃なんだよ。子どもらしい純粋な気持ちがその変化を怖いと思うし、大人になりたいという本能が、恐れる自分を腹立たしく思う。ただみんな変わりたいと思って変わるわけじゃない。気に入らない声、気に入らない顔、気に入らない体。心さえ思い通りにならない。勝手に変わっていって、それをなんとか受け入れて、これからの人生をやっていかなくちゃいけない。そう考えれば、拭えば消える落書きくらいは、許容してやれると思わないか?」

 俺は黙って返事をしなかった。


 俺は昔からこういう性格だったから、荒れて物や人に当たるやつ等を冷めた目で見ていたけれど、そうやって大人ぶる俺も、先生から見れば背伸びをするただの中学生なんだと思うと悔しい気持ちがした。でも同時に、それでいいんだと言われているのも分かった。


 人には変化が起こる。思春期に限らず、唐突に、乱暴に。心や体や人生を自分の想像もしていない状態へと変貌させる。そしてそれはほとんどの場合、自らで望んで起こるわけではない。

 人間という生物に元々備わっている変身であり、または運命と呼ばれる偶然であったりする。

 誰もそれを避けられない。変わってしまった自分自身で、その後の人生を生きていかなければならない。



 去年、妻が交通事故で死んだ。ゴールデンウィークに入った初日だった。

 平日じゃなかったことは小さな幸いだった。狼狽える姿を生徒に見せずに済んだから。

 

 正直その頃の記憶は定かじゃない。あったりなかったり、順番が違っていたり、慌てていたり、誰かが泣いていたり、何かの音が耳に残っていたりする。

 言われるがままにサインをして、何かの書類を受け取ったり、白い花を手向けたりして、波に揺られるように、朝とも夜とも言えない霞がかった世界で漂う日々。

 事故の損傷が酷く、最後の姿を見ることは止められた。

 ただ棺があって、それから灰になってしまった。

 綺麗に残った骨を叩いて砕き、骨壺に納めた。

 灰の中に結婚指輪の溶けた塊を見つけて、初めてひとつ、涙が落ちた。

 

 妻の両親が淡々と全てを片付けて行った。加害者の謝罪も、弁護士とのやり取りも。気がつくと見たこともない額の賠償金が振り込まれて、酷く泣けてきたことは覚えている。

 仕事に戻り、贈られたお花のお礼を伝え、教室で生徒たちに笑い掛けると、幾人かが泣いてくれて、申し訳ない気持ちになったことも覚えている。


 毎日、気がつくと薄暗い家に居た。

 妻の物は殆ど妻の両親が持って行って、残ったのは判別できなかった本や、日用品。

 持ち帰る仕事もない。いつも誰かが俺を気遣って、俺は何度も、「何かをしていた方が気が紛れます」と言った。

 夜は長かった。気が付くとスマートフォンの写真や動画を眺めて空が白んでいたりして、俺は写真を全て削除した。


 残った妻のものを少しずつ片付けた。

 あってもいいと思っていた。妻の両親が次々片付けて持っていくのを止められなかったが、心が苦しかった。でもいざ一人の生活始まって、残された妻の物が目に留まると、やり切れない感情に飲み込まれて家に居られなかった。

 本をまとめ、妻の選んだ食器を捨てると、食器棚には殆ど何もなくなった。

 箸を捨てるのは少しためらわれた。妻の口に触れた物だからだろうか。でももう二度と妻はその箸で食事を取ることはない。そう思って紙に包んで捨てた。その流れで冷蔵庫に残っていた期限の切れた食品を捨てていく。いつからか冷やされていたビールを取り出して一口含んだ。

 爽やかな苦味を好んで飲んでいたはずなのに、そのキレのある炭酸は、落ち込んだ心の澱を掻き混ぜただけだった。

 缶を逆さまにシンクに置いて、流れ出る金色の液体から目を逸らす。

 妻の物がもう何もなくなって、一緒に選んだリビングのカーテンを外した。

 街灯の光に照らされた二人用の部屋は、寂しくなるくらいには広かった。



 玄関に置きっぱなしになっていた紙袋に、友人がくれた線香を見つけた。妻の家はクリスチャンなので線香は炊かない。

 それを自分で買った安い皿の上で燃やした。

 たおやかな煙が顔を撫でていき、香木の香りは、沈んだ心を優しく包んでくれた。


 常に心が身体からずれているのを感じた。

 心のある場所は水圧に似た抵抗があり、動きが緩慢で、思うようには進まない。

 身体は心が生み出す感動のほとんどを失って、ただの入れ物のように、それでも現実の世界を自発呼吸で生きている。

 俺は慎重に生活をした。急がず慌てず、ただ穏やかに生きた。そうでなくては心が千切れて完全にどこかへ逸れてしまうように思った。

 今と今に近い未来を推し量るので精一杯だった。

 生徒たちが不安を感じないように、気分を安定させて、今までと変わらない態度を心掛けた。


 夏が来て汗を掻いても、身体の芯が冷えている感覚が続いていた。このまま俺の心はいつまでも身体がある世界から少し離れた場所で、現を彷徨うようにして生きるのかもしれない。

 それでも妻を送るたび、夜に一人、線香から一筋伸びる煙を見つめるたび、少しずつ心が身体に戻ってくる。

 空腹を感じるようになり、出汁と味噌が混ざる香りや、炊き上がったお米が蓋を開けた瞬間に立てる濡れた音に食欲が刺激された。

 簡素な食事を美味しいと感じて、自分は生きているんだと思った。


 相変わらず周りは俺に気を遣って、憐れみの混じった眼差しを向けてくるし、生徒たちは全然問題を起こさなかった。

 俺はその度に周りからのバリアを感じた。俺を優しく守るバリアは俺を孤独にしていった。

 妻の父は、「君はまだ若い、娘のことは忘れて、早く自分の人生を生きなさい」と言い、妻の母は、「いつまでもあなたは私たちの息子よ」と言った。

 どちらが優しいのか俺には分からなかった。


 俺の母は、十数年前に夫である俺の父を亡くして以来、独特の哲学を持っていて、一連の葬儀が済んだ後、塞ぎ込む俺に、「あなたは感謝が足りないから」と言った。

「俺の感謝が足りないから事故に遭ったって言うのか!!」

 俺はあれほど禍々しい感情を抱いたことは生まれてから一度もない。多分これからもないだろうと思う。あれから母には一度も連絡を取っていない。


 冬を迎える頃には俺の孤独はかなり極まっていた。

 このままではいけなんだろうと思い、ようやく二人の部屋を引き払い、物を捨て、買い替えて、シンプルなワンルームに引っ越した。

 学校に行き、周りに気を遣わせない程度に明るく振る舞い、必要な会話をして、誰も居ない部屋に帰る。

 食事をして、明日の準備をして、時が来たら眠る。ただその繰り返し。

 貰った線香も焚き尽くして、時々きっかけもなく涙が出るようになって、環境を変えるため、次年度から私立中学に転職を決めた。

 そこは共学になりたての中高一貫の元女子校で、共学になって今後はスポーツ分野にも力を入れていくそうだ。

 浅い教師歴だったが、教師不足だったことと、大学時代の塾講師の経験も加味されて採用が決まった。

 俺は気まぐれに髪型やファッションも変えて、新しい環境に強く変化を付けた。

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