第7話 俺専用のものさし


 秋が過ぎて、冬になった。

 早朝のランニングに、手袋とネックウォーマーとイヤーカフが追加装備された。

 落葉樹は殆ど葉を落とし、宿り木がぼんぼりのように裸の木を飾っている。

 ストレッチを済ませ、ワイヤレスイヤホンに音楽を流して走り始める。

 孝一も時々走ってるらしいけど、時間を合わせたりはしないから会ったのは数えるくらいだ。

 ペースが違うから一緒に走るとはならない。

 一定のリズムで砂地を蹴る。冷たい風に頬を冷やされながら、見慣れた景色を過ぎて行く。

 イヤホンからどこかで聴いたような音楽ばかりが再生される。相変わらず流行りに疎い俺は、若者の教養として週に一度、ランキングのトップ10を聴くようにしている。それ以外はオーディオブックを聴いて走る。

 今聴いている本は、正直登場人物が多すぎて把握しきれていない。でも内容が面白いのでそのまま聴き続けている。

 本を聴きながら走るのは新しい感覚だ。走る事と内容はリンクしていないのに、何故かほんの少し臨場感が出る。

 読み上げられることで言葉のアクセントが思っていたのと違っていたりして、時々ハッとさせられたりもする。

 便利だなーと思う。思いつつ、俺は相変わらずみんなの話題に付いて行くことはできない。できないというか、はっきり言うと見たくないだけだ。全然気が向かない。

 みんなが楽しめる事に興味は湧かないけど、スマホは買って良かったと思う。ニュースを見たり、調べ物をしたり、テレビを見たりするのに重宝している。本を聴くのにも。

 ただ、流行り物を知らない俺は、もうすぐ来るクリスマスに欲しい物が浮かばなかった。スマホを買ってもらったし、十一月の誕生日には今付けている最新のAirPodsを買ってもらった。だからクリスマスプレゼントはいらないと言うと、母さんはつまらないと不貞腐れた。考えておくと言って保留にしたけど、本当に何も思いつかなくて困っている。



 年が明けて、冬休みも明けた。

 季節のせいか憂鬱で気分が冴えない。いや、冬のせいだけじゃない。

 冬休み中、クリスマスと年明け五日の地域の年始イベントに真結ちゃんが演奏すると言うので聴きに行った。

 どちらもほのぼのとしたいい催しだったけど、やっぱり二人の両親は来なかった。


 振舞われたお汁粉を食べながら、思い切って「おじさんたちは用事があるの?」と聞いてみた。すると孝一が驚いた顔になった。

 聞いちゃいけなかったかと焦ったけど、もう発言は取り消せない。

 ジッと答えを待っていると、孝一は、「うん」と溜息交じりに頷いた。

「色々、挨拶に回ったりがあるんだって」

「そうか、おじさんもおばさんも、そういうのが大切そうな仕事だもんな」

 俺は納得できてホッとしたけど、孝一はまた息を吐いた。

「真結の演奏会があるよって言ったら、お金をくれた」

「え?」

「なんのお金って聞いたら、ドレスでも買えって」

 孝一はふっと嘲けるように笑った。

「地域のイベントだよ? ドレスなんて着る子はいないよ」

 孝一はほんの少しだけ首を傾けて、今度は困惑したような顔になった。分からないという顔だ。その顔を作ってから、「あの人たちはさ、真結のことを大切にしないんだ」と、ぽつっと言った。

 俺は固まってしまった。

「俺のことはいいけど、真結のことはもう少し……俺の進路を考えると」

 孝一はそこで言葉を切って、「ちょっと真結の髪結んでくる」と、真結ちゃんのところへ行ってしまった。

 真結ちゃんを大切にしない?

 ふーんそうなんだっていう内容じゃない。けど、なんて言えばいいかはもちろん分からない。それに、それと孝一の進路になんの関係があるんだろう。俺はいいけどって、なにがいいんだ?

 俺は椅子の上で身動きが取れないまま、ネガティブな雰囲気をまとっている断片的な情報を心の鍋に浮かべた。

 結局そのまま演奏が始まって、孝一の漏らした言葉たちは俺の心に放置された。

 芸も無くまた花束を真結ちゃんに贈った。

 真結ちゃんの髪は綺麗な編み込みに結ばれていたけど、俺はそれをやった孝一を褒めることができなかった。



 俺たちの代になって半年が過ぎて、俺はついにサッカーすら億劫に感じ始めていた。

 明るく振舞うことには慣れたけど、周囲に注意を払うのは息苦しかった。変わっていくみんなの姿が目に留まるからだ。

 身長を追い越したり、体格を追い抜かれたりしながら、小学生から馴染みのあるみんなが変化していく。

 低い声で名前を呼ばれ、ロッカールームの匂いさえ変わった気がする。

 まだそこにハッキリとした衝動は無かったけど、自分の視線がみんなにどう感じられるのかが恐ろしかった。

 この頃にはキャプテンとしての孝一はしっかりとみんなに馴染んでいて、俺はこっそりと以前の距離感に戻した。

 年始のイベントで聞かされたことはもちろん気掛かりだったけど、それ以上に自分自身に怯えていた。

 俺はせっかく入れてもらったアプリもほとんど開かなくなり、全ての通知をオフにして、ただ黙々と勉強をして、時間が余ると本を読むか聴くかして過ごした。

 静かに過ごしていないと頭の中が騒音でおかしくなりそうだった。 


 三年に上がって、俺は一層自分の変化に憂鬱になっていた。

 声変わりが落ち着いて、体つきも変わった。身長も中一の頃からは十五センチ違う。いつの間にか父さんを追い越して、重いものを持つのは俺の役目になっていた。

 誰かが知らない間に勝手にパーツを組み替えていったみたいだった。それくらい一瞬で全くの別人に変わった。

 骨ばった手が、厚くなった身体が、体毛すら嫌だった。嫌だと感じるのと同じくらい、そう思う自分が怖かった。

 殆どの女子は生理が始まっているらしい。

 時々クラスの女子が、具合が悪くて保健室に行ったり、痛み止めを呑んだり、腰にジャージを巻いてホッカイロまで当てているのを見かける。大変だなあと思いながら、少しだけ励まされる気持ちになる。

 女の子はみんな大きく変化している。子どもが産める身体になって、毎月出血の痛みを感じている。出産どころか結婚すら考えもしない年なのに。初恋に浸る年頃なのに。

 そう思うと、自分の違和感なんて恐れを抱くに値しないような気がしてくる。

 少なくとも朝勃ちがどうとか言っている男子を見ているよりはずっと頑張ろうという気になる。凄く勝手だけど。

 相変わらず男たちは成長期を謳歌しているように見える。もっと成長したいと騒いでいる。理想に照らし合わせて、もっとここがこうならいいのに、なんて言って笑っている。俺はそれを黙って聞いている。自分の心も体も、これ以上何も変わらないで欲しいと願いながら。


 ある日、松永と数人の男子が学校中からトイレットペーパーの芯をかき集めきて、「これ使って自分のアレのデカさが判別できるぞ」と男だけにそれを配って歩いた。

 女子達は嫌そうな顔をするか聞こえない振りをしていたし、男子達はみんな笑ったけど、俺はそれを机に置かれて泣きそうになった。

 後でアンケート取るぞーと言うのを聞いて、俺はまた通知をオフにした。でもそれでも気が収まらなくて、俺はフォロワーのリストから松永たちを外した。

 俺専用の物差しとして置かれたそれに触りたくなくて、鉛筆で机の端に追いやった。

 松永達は色んな遊びや動画や今回みたいなくだらない知識をSNSで見つけてきては、みんなに広める。楽しさのお裾分けのような気分なんだろう。実際みんなには人気がある。適当に断ってもしつこくはしないし、彼らも全てがみんなにウケないことは分かっている。でも、まさかここで涙を堪えるほど嫌がってる奴が居るとは思っていないんだろう。俺だって何で泣きそうなのか、はっきりとは分からない。

 ただ、彼らのようになりたいと心底思わなかった。

 みんなが楽しそうなことの全てが嫌いだ。楽しそうなみんなも嫌いだ。みんなと違うことを気にはするけど、一度も憧れたりはしなかった。

 子どもの頃、ヒーローになりたくなかった所から、俺は既にみんなとは違っていたのかもしれない。

 

 五時間目の社会の授業中、教科書を読んで歩いてた中屋先生が、俺の机から『俺専用の物差し』を取ってそのままゴミ箱に捨てた。俺は先生の背中にありがとうと念じた。

 孝一と同じクラスにならなくて本当に良かったと、深く深く安堵した。

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