第8話 さよならサッカー


 五月が終わりに差し掛かって、隣の県にあるサッカーの強豪校から特待生の話が来た。

 俺はその時すでにサッカーを中学で辞めると決めていて、監督の田所先生が珍しく嬉しそうにみんなに話すのを居心地の悪い思いで聞いていた。



「辞退したい?」

 初夏になり、紺色のスウェットから紺色のポロシャツに着替えた中屋先生は、持っていた赤ペンをわざとらしく落として横に立つ俺を見上げた。

 俺は田所先生に断る勇気が出ず、またこの人に頼るため、職員室に来ていた。

 三年生になって、持ち上がりだったはずの二年時の担任が『ご懐妊』して、副担任に入る予定だった中屋先生がうちのクラスの担任になった。

 俺にとっては孝一と一緒のクラスにならずに済んだことと並ぶ、ここ最近の数少ない嬉しい出来事だった。


「なんで?」

 ぽかんとした顔の先生に首を竦めて見せる。

 先生の落とした赤ペンが、クラスの小島の小テストに赤い点を付けていた。丁度間違っているところだ。

「サッカーは中学で辞めるんで、特待は受けられません。東高校を受けます」

 決めていた通りにハッキリと言うと、サッカー好きを公言する俺の若い担任は、まあとりあえず、と言って俺を別室に引っ張った。

 前と同じ職員室横の進路相談室に俺を引き入れると、ドアを閉めた先生が俺に向き合った。

 何を言うのかなと黙っていると、先生の口が、すうーっと音を立てて息を吸った。


「俺は教え子がプロサッカー選手になって、インタビューを受けるのが夢なんだ」


 真面目な顔で淀み無くそう言い切った先生がふざけていることが分かって、心からホッとした。

「それなら監督になるべきなんじゃないですか? 試合を見に来るだけじゃなくて」

「俺はサッカーが好きだけど、経験は無い」

 先生はやっぱり真面目にきっぱりと言った。俺はしょうもなさに笑った。

「バレーも絵も柔道も、プログラミングだって好きでしょ先生は」

 呆れながら指摘すると、先生もふふっと息を漏らして笑った。

 この人はサッカーだけじゃなく、クラス全員のクラブ活動に強く興味を持っていると公言していた。

 去年先生が担任だったチームの後輩が言うには、去年からすでにそうだったらしい。

 みんな嘘だとわかっているけど、先生は休日の試合や発表会、作品展示なんかをマメに見にきてくれる。だから俺もみんなも先生の嘘が嫌いじゃない。

「ひとつに絞らないと夢は叶わないんじゃない?」

 言うと先生は憐れむような眼差しになって、「ほとんど叶わないのが夢というものだよ」と首を横に揺らした。

「じゃあ先生のは数打ちゃ当たる作戦?」

「それいいよね、的もたくさんある方が楽しいし」

 先生はこうして話をお気軽にする。俺はそれに喜んで乗る。

「誰かが立派な大人になるといいね」

「みんな立派な大人になるよ」

「だといいけど」

 くすくす笑う俺を先生がとぼけた顔で見ている。俺はその表情にますます笑ってしまった。

 久しぶりに笑っている気がする。もうずっと息苦しかった。


 あれから先生に相談をしに来たのは初めてだ。

 あれ以降の俺の悩みは全て、あれの相手が孝一だという事を開示しなくては形を成さないものばかリで、どんどん変化する身体や、チームメイトたちとの関係に気を配るので精一杯で、話を聞いてもらいたいと思いつく暇も無かった。


「怪我でもしたの?」

 先生は、俺の身体を診察するように、点々と視線を置きながら聞いた。

 こうして目の前に立たれると、背の高さがよりハッキリと感じられる。185センチくらいはあるんじゃないだろうか。180に手が届きそうな孝一よりもさらに高い。

 頭のてっぺんから下へと先生の視線が下りていく。

 頭頂部を見られるのはあまり居心地のいいものではない。俺は顎を上げて、先生の目がまた俺の目に戻ってくるのを待ってから首を横に振った。

「そういうんじゃないんです。なんていうか、人生を考えたんです」

「まだ中学生だよ」

 真顔の先生に俺はまた呆れる。

「進路相談してるんじゃないの」

「思春期に進路を決めさせるのは、俺はどうかと思ってる」

 先生はむっと唇を結んで腕を組んだ。

 何を言ってるんだこの人は。

「じゃあ文部省に入って仕組みを変えないと」

 俺も真似をして腕を組む。

「文部科学省」

「それ」

 どうでもいいやり取りに、すぐに二人でくすくす笑った。

「高校まではやればいいのに。めちゃくちゃ上手いだろ」

 唐突に砕けた口調になった先生に釣られて、身体に詰まったストレスと思われる籠った空気が、「ハーッ」と吐き出された。

 胸の内から言葉を選ぶ。

「特待で進学したことを想像したら気が重くなった。特待っていう期待が重苦しい。そういうのは、孝一みたいのが受けたらいいんです」

 浮かんだ孝一の笑顔によくわからない責任を押し付けて、その顔を打ち消した。

 申し訳ないんですけど、と続けた俺に、先生は前髪を適当にかき上げて息を吐いた。それは重苦しい吐息ではなかった。

「特待が重荷なら受けなくてもそれは高瀬の自由だけど、サッカーをもうやらないって言うのは、つまり別に理由があるんだろ?」

 先生は本当の真面目な顔で俺を捉えていた。

 いつも生徒に気安く絡まれているこの先生は、やっぱりきちんと大人だった。

 俺はしょうがなく頷いた。

「もちろんあります。詳しくは――」

「言うつもりはないけど?」

 もちろん言えるわけがない。

「とても個人的なことなんで」

「それは一生に関わることなのか?」

 一生と言われて、俺は何故か笑ってしまった。

「そうです、多分」

 多分という飾りはいつまで付けていられるだろう。正直もうかなり苦しい。

 先生の眉が小さく動いた。鼻がすっと息を吸って、口元は少し笑っている。次に先生が言う言葉も、きっと俺を辛くさせない。

「そこいらの中学生ならもっと突っ込まなきゃいけないんだ。思慮の浅い『気づき』なことがほとんどだからね。でも高瀬はそうじゃないんだろうな」

「尊重していただけてありがたいです」

 ホッとした俺に向かって、先生は真っすぐに立った。さっきよりもさらに大きく感じた。

「尊重はするけど気にはなる。親は理解してる?」

「うちの親は最低さえ守れば好きにしていいスタイルなんで。放任ってほどでもないんですけど、今それなりにちゃんとできてるから、多分ずっとこのまま俺の好きに決めさせてくれると思う」

 親がこのスタンスで居てくれることも、俺にとってはありがたい事だった。

「決まっているんなら思う通りにしたらいい。ただ個人的にはもったいない、とだけ言っておく。意味はないんだろうけど」

「助かります」

 会話が終わった。けれども先生は俺をじっと見つめている。もう何も話したいことはない? と、問われているのが分かる。俺はそれを黙って見つめ返して、きっと相談すればどんなにか楽になれるだろう物事の全てを懐にしまった。

 最終確認を眼差しで終え、先生はうんと頷くと、「受験勉強、頑張れ」と言ってさっさと部屋を出て行ってしまった。

 突然置いてけぼりにされて少し戸惑った。

「はい……」

 そっと返事をして、自分も部屋を出た。



 その日の練習の後、田所先生に呼び止められた。

「祐希、本当に特待断るのか?」

 結局こうして確認されることは分かっていた。でも中屋先生に先に言えたことで、落ち着いて田所先生の目を見ることができた。

「はい」

「なんでだ」

 信じられないという目が顔を撫でる。

 息を止めて、準備しておいた言葉を口にした。

「高校でサッカーはやらないので」

 ハッキリと答えた。迷うような音は出せない。一度できちんと断りたい。

 田所先生の目が何かを探すように目の中を覗いてくる。

「なにかやりたいことがあるのか?」

 口の中で強く歯を噛み締めた。

 多分、あると言えばいいんだろう。

 どうしてもなりたい職業があって、勉強に集中したいとか、行きたい大学があるだとか、海外留学がしたいとかなんでもいい。それなら仕方ないと思わせる理由はいくらだってでっち上げられる。

 でも俺がサッカーを辞めるのは親友に勃起したからだ。男が好きだからだ。こんな事は言いたくないし、言わなくてもいいはずだ。でもそのために大人に夢があるような嘘をつくことは腹立たしかった。

「もう、サッカーは終わりにしたいんです」

 先生の顔に皺が寄り、顎が歪む。

「もう三年やってみたらどうだ? 怪我をしたわけでもないのに。推薦じゃない、特待性として迎えたいと言われてるんだぞ? 今よりももっと高いレベルのサッカーができるんだぞ?」

 汗が額を流れて落ちた。監督のシャツにも汗がにじんでいる。

 そんなこと分かってる。

 俺はサッカーを頑張ってきた。毎朝走って、学校では成績を落とさないように勉強をして、それから暗くなるまで練習をした。

 汗や泥にまみれて、胸が痛くなるほど走った。楽しかったから大変でもなかった。

 うちのチームは全体としてはそこまで強いわけではない。監督はみんなにチャンスを与える。背の高い一年生を入れた育成途中のディフェンスラインが崩されることは多い。失点も多いけど、それでも前が、俺が点を入れて勝ってきた。俺たちの代になって、強豪から練習試合を申し込まれる機会もあって、凄く楽しかった。今までのサッカーで一番。

 俺はサッカーが好きだ。長い時間走り回って、ようやく入った一点をみんなとぐしゃぐしゃになって喜ぶのは最高だった。

 でも今はそれができない。

 今までと同じように抱き合って喜び合うことができなくなった。

 みんなに触れることが怖い。自分の下半身に不信感があった。きっと大丈夫だってそう言い聞かせた。試合中は集中している。

 でも、自分の脚が放ったボールがネットを揺らした瞬間、イメージ通りのパスが、同じイメージを持つチームメイトに通った瞬間、脳からあふれる快楽物質が、万が一でも俺の気を緩めたら?

 想像すると吐きそうなくらい怖かった。自分の事が信じられなかった。

 だから今はみんなの輪には向かわない。すぐに守備に戻ってクールな振りをする。息を吸って、吐いて、落ち着いて、落ち着いて。

 何度も唱えて湧き上がる感情の高ぶりを無かったことにする。

「それで最近やる気がないのか?」

「は?」

 この、「は」が問題だったんだろう。反抗的に見えたのかな、確かに反抗心があった。

 瞬間、いつも優しい田所先生が厳しい顔になった。

「ゴールを決めてもアシストしても、大して嬉しそうでもない。プレーは悪くない。でも雰囲気は上がらない。うちのチームの柱が自分だって自覚があるだろう? サッカーが誰よりも上手いお前が」

 田所先生は自分を落ち着かせるように言葉を切って、幾つか呼吸を繰り返した。

「孝一がキャプテンになって、お前が副キャプテン。意外だったよ。キャプテンはお前がやって、副キャプテンに健人が入るかなと思った。でもきちんとまとめた。まとめたのはお前だ。馴染みきっていなかった孝一とみんなをちゃんと繋いで見せてくれた。いいチームになってきたと思った。勝ちにこだわってもいいかと思うくらいにだ。そうしたらお前の様子がおかしい。孝一に聞いても分からないと言うし、チームメイトもみんな戸惑ってる」

 変だな、指先が冷たい。

「お前一体どうしたんだ? 何か気に入らないことでもあるのか?」

「……」

 気に入らないことか、何もないよ。自分以外には。

 なんて言えばいいのかな、謝ればいい? やる気がなくなったと嘘を吐けばいいのかな。嘘か、また嘘だ。

 黙る俺に、先生は両手を腰に当てて短く息を吐いた。どうしたらいいんだという心の声が聞こえてくるようだ。


「仲間とはしゃぐのはバカらしくなったか?」


 思春期かと、そう言われたようだった。

 瞬間湧き上がる怒りを歯を食いしばって抑え込む。違う、この人はそう見えるぞって言ってるだけだ。俺にもわかってる。どう見えるかは分かってる。それに、それはきっと間違っているわけでもない。

「できないだけです」

「できないってなんだ」

 田所先生のスニーカーがジリと砂地を押し潰す。小学の時の監督だったら怒鳴りつけてきただろう。いつも優しいこの先生を苛つかせてしまった。

 ごめんなさい、でもできないんだよ。

 汗で濡れた肌、不快なはずの男臭さや、自分と同じ持久力と筋力に特化した身体。低くなった声、容赦なく抱き寄せられる大きな手。全部が俺を変えてしまいそうで怖くて堪らないんだよ。

 俯いたら涙が落ちた。田所先生は少し驚いたような気配を見せ、それから重たく息を吐いた。

「お前にはお前の考えがあるんだろう。でもあんな態度しか取れないなら試合には出なくていい。お前は最後のつもりかもしれないが、みんなにはこれからがある。下級生だっているんだ、妙な雰囲気で続けるつもりはない」

 それは確かに納得できた。雰囲気を壊している自覚もある。俺のせいだ。俺の問題だ。

「わかりました」

「改められるか?」

「いいえ。もう、辞めます」

「祐希!」

 俺は走って逃げ出した。


 汗のついた腕で涙を拭った。目の周りが濡れただけだった。

 ロッカーにはまだ戻れない。この泥と汗にまみれた身体でどこに逃げたらいいんだろう。涙だってまだ止まらないのに。

 誰にも見つかりたくないのに、誰かに助けてもらいたい。どうしたらいいのかわからない。サッカーがしたかった。したかったよ! 特待で野頭高にも行きたかった! レベルの高いサッカーをしてみたかった! でも怖いんだよ! 孝一を見て勃起した時の衝撃が忘れられない。ほとんどパニックで、過呼吸になりそうだった。全身に針が刺さったみたいに、勃起した自分に別の自分がやめろと言っていた。違う! 間違ってる! そうじゃない! それは普通じゃない!

「そうじゃない……俺は普通じゃない」

 校舎に寄り添った水飲み場の蛇口のひとつに短い青いホースが付いていた。俺はそこに行ってしゃがみ込むと、ホースで頭から水を被った。夕暮れの水道は、日中の温度に温められたぬるい水を吐き出すと、すぐにひんやりと冷たくなって、全身から汗と泥と熱を奪っていった。

 これでいい、辞めよう。しょうがない。逃げたっていいって言うじゃないか。男が好きだったとして、それからはきっと逃げられない。でもサッカーからは逃げられる。どうせあとひと月もすれば引退だ。

「祐」

 振り返ると薄闇の中に孝一が立っていた。

 黙って水たまりの中の近寄ってきて、俺の手ごと水道の蛇口を閉めた。

「風邪ひく。こんなにずぶ濡れになるな」

 大きな手が俺の顔にかかる髪をかき上げた。

 気安く触らないでくれよ。そんな心配そうな目で見ないでくれよ。抱きしめて欲しいって思っちゃうからさ。

「クラブ辞めるのか」

「うん」

「監督に何言われたんだよ」

「俺が悪いんだ。俺が、もうサッカーを楽しんでできないから」

「なんで」

「なんでだろうな」

 顔を歪めて孝一の視線から逃げた。

「帰りたいけど部室いけねー。俺の荷物取ってきてくんない?」

 孝一は少し黙って、「いいよ」と部室の方へ走っていった。

 身体にくっつくシャツを脱いで力任せに絞った。それをタオル代わりに頭や身体を拭いて、またそれを絞って頭から被った。少しだけ寒かった。

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