◇14 【過去】またね
──広々とした机、大きな本棚。大きな窓から差し込んできた光が机の上を明るく照らしている。
椅子に深く腰掛けたテセウスは、動かしていた手を一度止めた。ペンの先でおでこをこつんと叩く。
「家がない民と話をし、この国の貧困層に触れ……ううん、何て書けばいいんだろう」
教育係のマルセルから命じられた報告書をまとめているのだ。
その横でフィオネはこの国の地図を広げていた。「行ったところを塗りつぶしていくわよ」という宣言通り、いくつかの地域が塗りつぶされている。
次はどこに調査に行こうか考えているようだ。
「ねえテセウス、ここは何?」
名前のない、空白の山を指差してフィオネが言った。
「そこは──魔王城だ」
「魔王城?」
「この国の汚点」
端的に答えたテセウスを見やって、フィオネが首を傾げる。
「魔王は魔物を使役している。鋭い牙を持つ、その生き物は時々山から下りて、人間を襲い、食い物を奪っていくんだ」
「戦わないの?」
「人間は魔王城の麓にすら近づけないよ。そういう意味も含めてこの国の汚点、と言った」
ため息とともに呟いたテセウスの顔をフィオネはじっと見つめていた。
それから数日が経ち、フィオネが国に帰らなければいけない日が来た。
朝からフィオネはため息ばかり。
それでも国を空けるわけにはいかない。皇女としての務めもあるし、両親や家臣たちも寂しがっていることだろう。
迎えの馬車がやってくるのを見て、フィオネがのろのろと立ち上がる。
「遅れてきたって良かったのに」
馬車を忌々しげに見つめ、フィオネが呟く。それから、テセウスに向かって微笑んだ。
「さよなら、テセウス。あなたと街に行けたのとっても楽しかったわ」
「僕も楽しかった。でも、違うよフィオネ。さよならじゃなくて、『またね』だろう。また、すぐ来ればいい」
フィオネははっと目を見開き、それから花のように微笑んだ。
雪のように白い手を振って、フィオネが階段を下りていく。風が吹き、ふわりと金の髪が揺れる。
ふと、記憶が蘇る。
──……じゃあな、テセウス。
誰だ、この声は。
自分はこの声をいつ聞いたのだろう。靄がかかったように記憶が曖昧だ。
でも、でも──どうしてか、兄の声のような気がした。
じゃあな、と言った兄。
兄はテセウスを置いて行ったのだろうか。
自分の意志で。
フィオネの背中が遠ざかっていく。
テセウスは叫びたくなった。
待って、僕を置いていかないで──!
僕を、もう一度一人にしないで。
そう願ったとき、フィオネが振り返った。桃色の唇が動く。
「またね」
声は聞こえないはずなのに、フィオネの想いがはっきりと胸に届いた。
「またね──また!」
テセウスは叫んだ。
置いていかないでと泣き言を口にする代わりに。
──その約束は、叶わなかった。
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