◇5 ラッセル街 2

「困ってることは──魔王かな」


 アンナの言葉にテセウスは目を見開いた。ドッドッド、と心臓が動き始める。ぎゅっとズボンの布を握りしめて、テセウスはアンナに聞いた。


「魔王、はどんな悪さをしてるの?」


 絞り出した声は裏返っていなかっただろうか。心臓はまだ激しい音を立てていた。


「あの山の頂上には魔王城があるってのは知ってるよね」


 アンナはすい、と日に焼けた腕を動かした。テセウスはアンナの動きにつられて横を向いた。アンナが人差し指ではっきりと指さしたその先には黒々とした山があった。ただの山なのに、胸がざわつくような感覚があった。山の頂上は霧に包まれていてよく見えない。きっとそこに魔王城があるのだろう。


「あの山にはあたしたちは入ることができない」

「魔物がいるから?」


 うん、とアンナは頷いた。


 テセウスは絵でしか魔物を見たことはない。全身を硬い鱗で覆われ、鋭い牙を持つ魔物。人間と会うなり、その鋭い牙で人間のやわらかい皮膚を食いちぎる、凶暴で野蛮な魔物。


 魔物の鱗には剣刺さらず、牙には盾通じず。会はばとく逃げたまへ。


 ──というのが、昔からの伝承であった。

 

 人間はなるべく魔物に会わぬようにしていた。ごく少数だが罠に掛かる魔物がいたならば、その牙で剣を作り、その鱗で盾や鎧を作った。そういった武具は恐ろしいほど高値で取引されている。


「でも、魔物は最近山から出てこないんじゃなかったっけ?」


 そう問えば、アンナは神妙な顔になった。


「それが、どうにもおかしいんだ。この前なんか、街に降りてきて──みんなすぐ逃げたから大丈夫だったけど……」


 魔王城に動きが出てきている、とアンナは言った。


「一年前、隣国の皇女が惨殺されただろ。あれも魔王の仕業なんじゃないかって街の人たちみんな言ってる」


 それはテセウスの記憶にも新しい。ひどい事件だったからだ。

 隣国の皇女のベッドが血だらけになっており、左腕だけが残されていたようだ。

 そして、その左手には輝くダイヤの指輪が嵌っていたという。


「なんで魔王?」


 首を傾げたテセウスに、アンナは重々しい口調でこう言った。 



 

「隣国の皇女──フィオネは、魔王だと噂されている元王子・ルークの婚約者だったからさ」

 

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