第57話 闇を負う覚悟FIN

メナは、太陽が空に昇りきる直前の昼前の時間帯にやっと目を覚ました。


先日のことがあって全身に筋肉痛と倦怠感が残っており、寝台から身体を起こすまでにしばらく時間が必要だった。


身体を起こして視線を下向けると、窓の外から差し込む陽光が床に伸び、磨かれた木の床板を金色に照らしている様子が目に入る。


(王国が抱える深淵を調べる……彼らは本当に信じても良いのでしょうか?)


エノの瞳を思い出してほうと考えていたメナは、口の中にごろつきを感じて立ち上がると、いつものように寝間着から多少は丈夫な服装に着替えてから井戸へと向かった。


今日は珍しくビレトもジーナも居間におらず、メナは誰にも会うことなく井戸の側にたどり着いた。


メナは痛む腕に顔をしかめつつ、色褪せた藁色の綱を引いた。

誰も居ない静かなビレトの家に、釣瓶つるべが引かれる滑車の回る音がガラガラと響いた。


(思えば、二人が居ないことなんて今までありませんでしたね)


メナはビレト家の方に意識を向けながらも釣瓶をおろし、その前にしゃがんだ。

水を両手ですくって口をすすぎ、顔を流していた頃には全身を覆うような身体の倦怠けんたい感もほとんど消えていた。


そしてひと息をついて、うんと伸びをする。

それは、久しくなかった平静な時間だった。


陽光はギラギラと眩しいが、風は冷たく過ごしやすい。


少し村から離れた森の木々に視線をやれば、その葉は風に揺らめいていて、わずかに褐色を帯び始めて、緑と黄色がまばらに散らばっている様子が見えた。


(そういえば、もう、紅葉の時期なのですよね)


メナは従者であったセジンがあの成りに似合わずに紅葉を好んでいた事を思い出し、次いでその最期の血に塗れた姿を連想し、少し郷愁にも似た物悲しさを感じた。


紅はよく血肉と結びつけて考えられるが、貴石の教えにおいてもそれは同様である。

その紅は森に死者の血肉が戻った合図だとされ、その時期に多く糧食が採れる様になることも、それらが今世に還元されるためだとされている。


故に秋には大きく神事が取り仕切られる。


(例年なら、この時期はいろいろと忙しくなってくるころですが……)


メナはあの日以来、目まぐるしく変わっていった状況を思い苦笑する。

散々な目にあったとは言え、こうして呑気に色付き始めの森を眺めていられるのはあの出来事のお陰であるとも言えるのだ。


「―――……お姫さま」


メナはそれからしばらく森を眺めていたが、背後からメナを呼ぶ声が聞こえて、振り返った。


メナはその声を聞いてほっと胸をなでおろし、振り返った。

昨日の内に聞いてはいたが、実際に姿を見たほうが安心できる。


「カイルくん」


少年は彼が攫われてしまう前と同じ、大きな怪我などない様子でそこに居た。

ただ、様子は少し違っていて、メナから少し離れた位置に立ち、モジモジとどこか近づきづらそうにしている。


「無事だったのですね」


メナはゆっくりと彼に近づいて声を掛けた。


しかし少年はメナから逃げるように少し後退りをして顔を背ける。

何か嫌われるようなことはしただろうかとメナは逡巡するが、そうであればわざわざ呼んだりはしないとその考えは打ち消した。


とするならば、この態度は彼自身の問題に起因している。


「―――……どうしたのですか?」


メナはなるべく優しげな声音になるように意識して、少し身を屈めながら訊ねる。


「―――……えっと、その……」


少年は、メナが少年に対して怒っていないようだと見ると、少しずつ話をし始めた。


「お礼を言いたくて……」


「お礼、ですか?」


メナは先日の件だろうかと当たりをつける。


「―――……わたしはほとんど何も出来ませんでしたが、あなたが助かったことは本当に良かったと思っています」


メナは心からそう思って少年に微笑み掛ける。


しかし少年はそれを聞いて、今まで俯き気味だった顔をパッとメナに向けた。


「そんな事ない! 僕はお姫さまがいなかったら、何もできなかった!」


メナは思わぬ熱量に驚いて思わず「わっ」と小さく声を上げた。

それは少年には聞こえなかったようで、彼は話を続ける。


「放火の犯人を見つけられたのも、僕が助かったのも、お姫さまのおかげだよ。……何もしてないのは僕の方だ!」


メナは、なぜ少年が申し訳なさそうにしているのか、その理由が何となく分かった気がした。

彼は子どもながら、メナに負い目を感じているのだ。


「犯人を探そうと思って行動したのは、カイルくんでしょう?」


少年が「何もしていない」ことはない、というつもりでメナは言った。


しかし少年は、メナが思いもしなかったことを口走る。


「―――……うん。でも、僕は犯人を見つけても何も出来なかったんだ。僕は役に立つどころか、迷惑を掛けただけ……僕が犯人探しをしようとしなければ、お姫さまは危険な目には合わなかった」


少年は、今にも泣き出しそうに口元を震わせ、顔を伏せた。


メナはその様子を見、そしてこれまでの事を思い出して、確かに少年にはかなり苦労させられているなと感じて苦笑いする。


「……確かに危険はありましたけど、結果としてわたしはここにいますし、カイルくんも助けることができた。放火の犯人たちも、然るべき罰を受けた。何も気にすることはないですよ」


カイルはそれでも頑なだった。


「でも、それって、お姫さまは何も貰えてないよ」


メナは、眼の前の少年の言葉に目を見張った。


そして、この眼の前の少年が純真だが、賢い少年であったことを思い出す。

この少年が語ることは、いつも幼い視点ながらも筋は通っていた。


確かにメナは今回の件で、何も得ていない・・・・・・・


「僕、何かお姫さまにしてあげなきゃって思ったんだけど、分からなくて……僕は、お姫さまにあげられるものなんて、何も持ってないんだ」


少年がメナについて本気で考えてくれていることは、彼の言動を見れば明らかだった。


メナは微笑み、首をふる。


「何もいりませんよ。お礼が欲しくてあなたを助けた訳じゃないのですから」


メナはそう口にしつつ、不思議に思った。

メナは何の見返りもないはずの今回の件、少年を巡る一連の出来事、その苦労について、本当に・・・気にしていない・・・・・・・のだ。


(どうしてでしょう?)


作戦のためとは言え、拘束されていた時の身体の痛みは未だ残っているし、いくつもの新事実に遭遇して、それらの整理も、疲れも取れきっていない。


メナは、自分が全てを慈悲で包み込めるような聖人とは思っていなかった。

行動には何かしらの見返りを求める人間であり、そしてそれは人間としてごく当たり前のことだと、そう思っている。


だが、少なくとも少年の目から見た現在のメナは、まさしく聖人・・である。

危険な目にあって尚、その原因を作った相手を前にして微笑み、見返りはいらないのだとのたまっている。


「でも……」


少年は子供心ながら、それがおかしい・・・・と感じているようだった。

メナがそんな化け物じみた何かではなく、ただの人間・・・・・なのだと思ってくれている・・・・・


だが、メナが少年から何かを受け取る必要がないと感じているのもまた、事実なのだ。


メナはぐるぐると頭の中を駆け巡る思考を一旦放り出し、苦笑して提案した。


「―――……それじゃあ、一緒に考えましょうか。カイルくんがわたしに何をあげられるのか」


少年はメナが笑ったのにつられ、はにかむように笑って頷いた。



**



木の葉に秋の気配を感じたとは言え、まだまだ森は生気に満ちていた。

鳥のさえずりは至るところから聞こえ、メナは王宮の中では感じなかったその騒々しさに驚いた。


(この辺りを歩くのは初めてではないのですがね……今まではそれだけ余裕が無かったということでしょうか?)


メナはちらりと横を歩く少年に視線を向けた。

彼は真面目な表情で考え込んでいるようで、周りの景色には何一つ興味を示さない。


あるいは彼にとってこの山道は慣れ親しんだ庭のようなもので、真新しいものはないのかも知れない。


状況や立場が変われば、それだけでものの見え方は変わってくる。

きっと、メナと少年の間にある認識の隔たりも、そういったものなのだ。


しばらく無言で歩いていたカイルはふいに、木々を眺めているメナに言った。


「お姫さま、木が好きなの?」


メナは急に何事かと思ったが、少年がメナの行動を観察していたのだということに気づいた。


「あぁ、いえ、色付き始めの葉っぱが珍しくて見ていたのです。王宮に住んでいると森を歩く機会は少ないですからね。紅葉の時期に森を見ることはありますが、変わりかけの葉っぱを見ることは、なかなか……」


「じゃあ、紅葉は?」


メナは例年の赤々とした景色を思い出し、それが好きなのかどうかを考えた。


「綺麗とは感じるのですが、好きかと言われると……どうしてでしょうね?」


我ながら面倒なことを言っているな、とメナは苦笑する。

別に嫌いでもないのだから、好きと答えれば良い話なのだ。


だが、メナは律儀にも眼の前の少年に本心を伝えるために最善を尽くしていた。


「じゃあ、お姫さまは、何が好きなの?」


メナは少し考えて「あれ?」と首を捻った。


「何が好きかと言われると……少し悩みますね。とっさには出て来ません……カイルくんは何が?」


言葉に詰まったメナに対して、カイルは淀みなく答えた。


「僕は、好きな人たちと一緒にいること」


メナは少年の言葉に込められている切なる願いを感じ、押し黙った。

カイルは両親を失った。


彼が言う好きなことは、それを失ったからこそ彼の口から紡がれたものだ。


「それは……」


メナは何を言うべきか分からず、言葉に詰まって立ち止まる。

しかし今の少年はメナの思ったような悲壮感など、少しも感じさせなかった。


「大丈夫だよ、お姫さま。僕、本当にビレトさん家の子どもになるんだ」


メナは驚き、少年の顔をまじまじと見つめた。

少年は照れくさそうに笑う。


「確かに、お父さんとお母さんにはもう会えないけど……」


一瞬、少年の顔は悲しみに歪んだが、すぐにその陰も引っ込む。


「ビレトさんや、ジーナさんも、僕を本当に思ってくれてたんだ。僕が気づかなかっただけで」


カイルは気負わぬ笑顔をメナに向けた。

それはメナが出会ったころの、家族を奪った犯人を追っていた少年の姿からは思いもよらない、柔らかな少年らしい顔だった。


そこには、触れるもの全てに警戒するようなピリピリとした空気は見る陰もない。

彼は悲しみを抱えながらも、前を向くことを選んだのだ。


メナはそれを見てホッと胸をなでおろすのと同時に、ストンと腑に落ちるような気がした。


(―――……そうか、わたしは・・・・これが見たかった・・・・・・・・んだ)


メナはそれならば、自分が少年に何も望んでいないことにも説明がつくことに気づいた。

彼女は初めから、それだけを求めて動いていたのだ。


「カイルくん、あなたのお陰です」


「え?」


戸惑う少年に、メナは心からの笑みを少年に向けた。


「やはりわたしは、あなたから何かを貰う必要はないようです」


しかし少年は納得のいかない様子だった。


「どうして? わかんないよ。―――……やっぱり僕じゃお姫さまが欲しいものは用意できないってこと?」


メナは少年の前に屈み、ゆっくりと横に首を振った。


「いいえ。あなたからはもう十分に貰っていた・・・・・ことに、いま、気付いたのです」


少年は少しどきまぎしたように目を逸らしながら、メナの目を見つめ返した。


「―――……初めて会った時から思ってたんだけどさ」


「何でしょう?」


「お姫さまが言っていることって難しいよ」


メナは少年の思わぬ言葉に顎を落とす。

半開きの口から「えっ?」という声が漏れた。


それを見た少年がくすくすと笑い出したのを見て、メナも釣られて微笑む。


「―――……それなら、分かるようにお話しましょうか。代わりに、カイルくんは村長さんたちのこと、教えてくれますか?」


少年は頷いた。

それからしばらく、昼下がりの山道の中には二人の談笑がひっそりと続いたのである。


〜闇追いのメナ 「闇を追う」完〜

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

闇追いのメナ 瑠璃色のてらさん @shiryouhihou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ