第48話 道標に黒鳥

ニコイは悩んでいた。


自分の心に浮かんだ一片の疑念、ふたつの相対する正義が彼女の中で共存し、判断を鈍らせている。


「……」


ソチのいた洞穴から離れたニコイは、一人、幼年時の思い出に従って丘を登り、その頂上から自分たちの暮らす山々を眺めていた。


白味がかった岩肌に、短い草木がまばらに生えた岸壁の丘。

そこに木陰が出来るような高木ははないが、代わりに風を遮るものもない。


手頃で平らな場所を探して両膝を抱えて座ると、真っ白な曇天の下、涼風を肌に感じて目を細める。


そのまま、彼女は頭に浮かぶ思考を思うままに走らせた。

彼女がこの場所に来たのは、無意識に父が居た頃のことを思い出していたからだったのかも知れない。


彼女の持つ父親との記憶は七年前で止まっている。

いや、彼が戦いに出ていた時間を考えれば、実際はそれよりもう少し古い記憶だろう。


それは丁度、彼女がここで過ごしていた時期だった。


「……私に、父は殺せるのか?」


ニコイは独白する。


悩みは口にすると軽くなると云うが、それはむしろ逆だった。

一度空に舞い上がって消えたかのように思えたところに、思い出したように凝結して形を得て、口から放たれたそれとは全く違う重圧となって彼女に降り注いだ。


父親を殺すということは彼女にとって、道徳的な問題以前に、大きな意味がある。


すなわち、彼女にとって父親の存在は遠い憧れ・・であり、失われた理想・・・・・・でもあった。

(―――……いや、失われたからこそ・・・・・・・・だろうな)


ニコイは苦笑する。


それは、そこに自身の確かな成長の影が見えたのと同時に、そんなことを考えてしまう自分に少しばかり嫌気がさしてしまったからだった。


今ならば分かる。

父は決して、うたうたわれるような理想の存在・・・・・ではなかった。


少なくとも、ソチや氏族にとっては。


そうでなければ、彼の生存が分かった時点で何かしらの接触を図り、融通を効かせることを考えるはずだ。


だが、そうはしなかった。

それが全てを物語っている。


では、彼女にとってはどうだったのか。


今の彼女は、自分の父親が理想の存在・・・・・などではないと理解していた。


しかし、彼女がその「理想の虚像」を追って戦団の長を務めていることは事実だったし、その結果が正当なものという自負もある。


「―――……憧憬どうけいに真偽など不要、か」


ニコイが呟いたその一言は先程とは違い、空に溶けていった。


それを追うように彼女は空を見上げた。


曇り空に浮かんだ木綿のワタのように白い雲が漂い、風に乗って流れている。


その先に何があるのか、彼らにもそれは分からないのだろう。

自分の心を照らし合わせるように、ニコイは見通しの効かないその先を見透かそうとする。


しかし、行き着く先は決まって山の連なりで、それ以上のものは何ひとつ見えない。


(もし本当に父が王族の襲撃と暗殺を計画し、実行したのだとしたら。それは現状、父を山の民イカコに仇なす存在と考える他ない。そしてそれを確かめるには、父を見つけ出さなければならない)


ニコイは視線を下げ、膝の前に組んだ指に目を向ける。


その指は将たるを目指して修練し、歩んできた道のりが記されているかのようにボロボロで、固くなっている。


「……結局、父は、どのような男だったのだろうか」


ニコイはもはや姿も思い出せない父と自身を照らし合わせ、そのあり方を想像した。

もしかしたら、そこに鍵が隠されているかも知れないと考えた。


一族のために命を張る豪傑だったか。


あるいはもっと単純に、家族を守る父親であったのか。


それとも、使命に突き動かされ、働かされる、ただの番犬・・・・・であったのか。


彼女と同じように・・・・・・・・


「―――……駄目だな」


ニコイはそこで堂々巡りをしていることに気づく。

結局、それらを知るには、彼女が父親を見つけるしかないのだ。


(だが、見つけてしまえば、私に父を見逃す選択肢はない)


指を解き、両手を地面に付けて仰け反って空を仰ぐ。


氏族の戦団を預かるということは、そういうことだ。

私情を挟んで氏族を危機にさらすなど許されることではない。


(―――……それは果たして正しいのか?)


ニコイはそこまで考えて、思わず苦笑した。

今更、自分が「道徳」について考えようとしていることに気づいたからだ。


(道徳は規律を守る道具だ。規律の外の物事は解決し得ない。……分かっているはずだぞ、ニコイ)


ニコイはため息をつき、再度膝を寄せて座り直す。


その時、眼下の森で鴉の鳴く声が聞こえた。

何事かと腰を浮かせ、覗き込むように森に目を凝らすが何も見当たらない。


(縄張り争いでもあったか?)


結局何も見つけられなかったニコイは空の色が変わり始めたのを見て、そろそろ戻らねばと立ち上がった。

何一つ迷いは断ち切れていないが、立場上それでも、彼女は進む必要があった。


「―――……いずれにせよ、居場所を探るところからだ。そうでなければ話にもならない」


そして、ニコイは丘を下るために振り返る。


「こんにちは」


「!?」


背後から声をかけられて、ニコイは慌てて声の方向に振り返った。


さっきまで彼女が向いていた場所に、一人の髪の長い女が立っている。

濡れたように波打つ黒髪が、黄色く陽光を照り返して煌めいていた。


その格好は山のイカコの文化からは外れた黒く染められた滑らかな材質の外套と木綿の服、革の装飾で、ひと目で異邦の者であると分かる。


「……なんだ、お前は」


ニコイが問うと、女は面白そうに目を細めた。


「皆な、初対面だと同じような反応になるのよね」


「質問に答えろ、女。賊であれば引っ捕らえることもやぶさかではないが、どうする?」


ではないし、むしろなのだけれど、どうせ言っても信じないでしょう?」


ソチとの会合の帰りということもあり、ニコイは自分が帯刀していないことを悔いる。

女の上半身は外套で隠れているとは言え、その内には武器が隠されていることが容易に察せられた。


「―――……確かに、信じられないな」


いまは戦地から離れているとは言え、ニコイは戦士だ。


細かい部分にも気を払い、最悪の事態を避ける。

それが、戦士が戦士であり続ける素質と言っても過言ではない。


そのニコイに、あろうことか一切の違和感も感じさせず、彼女はその背後をとった。


身元も分からぬ脅威が目の前にあって、どうして気を許せよう。


「まーでも、端的に話すわ。時間がない・・・・・から」


どうやら女は急いでいるらしく、そう切り出した。


「私は、イマ・エノ。アナタの上司……ソチさまとは知り合いみたいなものと思って? それで、ここに来た理由だけれども、ちょっとした手伝いをするように頼まれてアナタのところに来たのよ」


ニコイは眉を釣り上げ、エノを見る。


「手伝い、とは?」


ヒエラーゾおとうさんの居場所を知りたくはないかしら、ニコイさん?」


「―――……知っているのか?」


「どちらとも言えるわ」


「謎掛けか? 時間がないと言ったのは自分だろう?」


ニコイが吐き捨てると、エノは「それもそうね」と、簡単に言った。


「大体の居場所は掴んでいるのだけれど、細かい場所は知らない、が正しいかしら?」


細かい居場所は知らない。

確かにそれは居場所を知っているとは言えないかも知れない。


しかし現状、何も手がかりを持っていないニコイからしたら、大体の居場所だけでも大きな手がかりだった。


「それは……」


文字通り喉から手が出るような勢いでその場所を訊ねる言葉が口をついて出かかるが、彼女の理性が直前でそれを押し留めた。


「―――……いや、仮にお前がそれを知っているとして、お前の取り分は何だ?」


エノはそれを聞いて「あぁ」と手を振った。


「それは気にしないで、ソチさまにお代は支払ってもらう予定よ」


ニコイは釈然としない思いで彼女を見る。

飄々ひょうひょうとしていて掴みどころのないこの女は、どこかあの・・黒い男・・・を思い出させる。


ニコイに見られているのを気にした様子もなく、エノはニコイに記しの付けられた地図を手渡した。

手書きで簡素だが、最低限の情報は読み取れる。


「私の読みだと、その辺りが怪しいわ」


彼女はそう言って印の付けられた一点を指す。


「―――……オクホダイの北西寄りの境界付近、か?」


「そう、魔獣被害があった大規模な廃墟群が残された土地ね。『魔獣狩り』の尽力で魔獣自体は狩られたみたいだけれど、いろんないざこざ・・・・でその一帯は放棄されて廃墟になった。そのどこかに彼らは潜伏しているはずよ」


「なぜ、お前はそれを知る?」


ニコイはエノに視線を向け、その黄金の瞳を見つめる。

仮に彼女が何かを隠しているのなら、その瞳に何か秘密を見つけられないかと期待した。


「……全てを話しはしないわ、何が・・どう・・関わっているか・・・・・・・私には・・・判らない・・・・もの。言えることは一つ。ヒエラーゾの件は決して彼だけの力では成し遂げられることはなかったということ」


「糸を引くものがいると?」


言葉通りそれ以上語る気はないらしく、彼女は首をすくめて見せた。


「さて、私はアナタに情報を渡した、後はアナタ次第よ。……とは言っても、結末自体に変わりはないでしょうけれど」


「―――……どういう意味だ?」


ニコイが問うと、エノはその怪しい光を湛えた瞳をスゥと細めた。

それはまるで、全てを見透かすかのような目。


それを見た瞬間、ニコイは彼女が放つ雰囲気が先程のそれとははっきりと代わり、より超然的で神秘的なものに変化したように思えたのだ。


「気づいてないの、本当に?」


彼女はあるかなきかのため息を漏らすと、ニコイに言い含めるように言った。


「……アナタの父親はどう足掻いても死ぬわ。寿命とかそういう話ではなく、今回の小節の結末としての話よ」


ニコイは図星を突かれたように感じて息を飲んだ。


自分が父親を殺すことを躊躇っていることを見透かされたというよりも、本心では彼女の言う通りのことを思っていたことに気付かされたのだ。


「彼は復讐という甘い蜜に惹かれた代償に、大きな流れに取り込まれてしまった。その流れはもはや誰に止められるものでもないわ。分かるでしょう? 敵を作り過ぎたのよ。……それならば後は、行き着く場所に行き着くだけ」


思わぬ形で突きつけられた現実に、ニコイは思わず目を瞑って顔をしかめた。


「……その大きな流れの中でアナタにできることがあるとするならば、それはアナタがアナタ自身の全てを犠牲にしてでも思いに従って、ただ傍観者として・・・・・・流れの先・・・・見届ける・・・・か、せめてもの慈悲としてアナタ自身が・・・・・・彼に引導を渡す・・・・・・・こと、この二つだけなのよ」

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