第2話 月下の城_1

開け放した窓辺から涼風が吹き込んだ。


鳥も飛ばぬような真夏のだる暑さも過ぎ、城の中庭には弾むようなさえずりが響いている。


書庫で書を読んでいたメナは風でたなびく銀髪を目元から払い、耳にかけた。

露わになった黒曜の瞳は、文字を追って甲斐甲斐かいがいしく動き続けている。


静謐せいひつな部屋に、扉を叩く軽い音が響く。

彼女の返事を待つまでもなく扉を開け、部屋に入ってきたその男は、彼女の背後に立つ。


「―――お気に召したかな、メナ様」


メナは声をかけられてはたと文字を追う目を止めて振り返った。


「オウマじい……」


そこには白く長い髭を生やした老年の男がいた。全体的にカッチリとした見た目で隙がなく、見れば優秀な人間だとわかる、そんな男だ。


そんなオウマは父の重臣じゅうしんであり、長年に渡って父を補佐し続けていた。


だから、という訳でもないだろうが、彼は時折、メナにも良く声をかけてくれる。

物心ついた頃には祖父がいなかったメナからすれば祖父を感じさせる存在だった。


「―――いいところでしたのに」


メナが茶化すように非難すると、彼はカラカラと笑った。


「それは申し訳ない。ですが、お気には召したようですな」


「そうですね。ここまでとは思いませんでした……爺はこの本をどこで?」


「オクホダイの御仁ごじんに譲っていただいたのですよ。かの御仁は物好きだ。どうにも自分で調べさせていたようですな」


「確かに、物好きですね」


「メナ様がおっしゃりますか?」


嬉しそうに破顔したシワだらけの顔を見ると、彼が長年宮廷きゅうていで父の補佐をしている冷厳れいげんな男と同一人物だとは思えなかった。


とはいえ、オウマが公私を上手く分ける男だということはメナも知るところだ。


「―――爺、本当にありがとうございます」


「礼には及びません、さして手はかけておりませんから。―――民謡みんようを調べたいなどと変わったことを申されるとは思いましたがね」


「自覚はしていますよ。王族である以上、もう少し政治的な内容を勉強しろと、そう言いたいのでしょう?」


オウマは何も言わずに微笑んで肩をすくめた。


「どうにもわたしは、政治的なことに興味が持てぬようです。そういう意味では、早いうちにとつぎ先でも見つけた方が良いのかもしれません。―――遅すぎるきらいもあるようにも思えますが」


「―――……存外、政治に興味はなくとも、メナ様が父上の跡を継いだ方が良い、ということもあるやも知れませんが」


ファルマに不満があるようにも聞こえます。滅多なことは言うべきではありませんよ、爺」


オウマはメナの叱責しっせきにも微笑みを崩さず、むしろおどけるように「おっと」などと言って口元を抑えた。


実際、身振りだけだろう。それほど、王宮内での彼の力は強かった。


「そもそも、わたしは自分で放棄したのを知っているでしょう?」


「存じておりますとも、もちろん冗談です。嫁ぐなどとおっしゃられるものだから少し揶揄からかいたくなったのですよ……弟君はよくやっている。このままいけば優秀な君主になるでしょうな」


メナは彼の言葉を聞いて少し安心する。本気で押されたらどうしようかと思ったからだ。


「それはよかった。押し付けた身で言うのも何ですが、わたしの我儘わがまま犠牲・・にはなって欲しくないですから」


「弟君はむしろ意気込んでおられるようですがね……まあ、仮にそうでなくても、そればかりは仕方ありますまい。誰かが何かを欲する以上、それに対して割を食う人間がいる。それはもはや摂理。避けられることではありません……いまはメナ様が望むことをやられればよろしいかと」


メナはオウマになぐさめられ、苦笑する。


オウマの価値観は基本的には王族のそれとは異なっている。いまのメナがあるのは彼の影響が大きいのではないかと思った。


「とはいえ―――」


オウマは外の様子を確かめるように窓辺に立ち、外を眺めながらメナに言い含めた。


「―――生き残るためならば、敵の手を取ることすらあるのも事実。どこで釣り合いを取ることになるのかは、わからないものですよ」


彼の忠言はいつも抽象的で、結局は何が言いたいのかが分かり辛いことが多かった。今回もその例に漏れず、メナはひとまず理解することを諦める。


オウマは窓の外を流し見て「さて」と呟く。


「もう行くのですか、来たばかりでしょう?」


メナはオウマを呼び止めるが、彼は困ったように笑った。


「いやはや、望めるならば、もう少し時間が欲しいところですな」


「それは……また父が無茶を言っているのですか」


彼はどちらとも取れるような笑顔で「いえいえ」とそれを否定した。


「いつも通りですよ。とはいえ、外しすぎるのも不味い。ちょっとした息抜き程度のつもりでしたからな」


メナとしては少し本について彼と話をしたいところであったが、無理は言うまいと口を閉ざした。


「―――ところで、そのご様子だと今日もまた、書庫でお休みになるのですかな?」


オウマの言葉を聞いて、メナは自分の格好を見下ろした。そして、その雑な姿に苦笑する。


どうにも人前に出るつもりがない日だと、おろそかになってしまう。気をつけねばと思っていても、いつも従者に注意されてそれに気づくのだ。


そして父は、メナのその悪癖を嫌っていた。


「バレてしまいましたか、そうですね。そのつもりです」


オウマは「陛下には秘密にしておきますよ」と、口元に指を当ててニヤリと笑うと、出口に向かう。


メナもつられて笑い、その背中に軽く礼を告げる。


見えなくなるまでその芯の通った背中を追っていたメナだが、ふと喉の乾きを覚えて従者の名を呼んだ。


「ギノー、いますか?」


「は〜い」


奥の間から聞こえてきた穏やかな返事を聞き、彼女が来るのを待つ間、メナは窓の外に視線を向けた。


(―――こんな穏やかな日々がずっと続けば良いのですが)


窓から見えた陽は、まだらの雲を引き連れて群青の空に沈んでいくところだった。

その上を黒点のように鴉が飛び去り、メナは先まで読んでいた民謡を思い出した。


(ひらり空から―――)


ひらり空から羽が降る

黒くて綺麗な大きな羽が

翼を離れたその羽は

きっと自分でわかってた

自分がおもしになったこと

だからひとりで空に舞い

私のところに降ったのさ

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