第22話

西は、1号館横に併設してあるカフェでパフェをつついていた。試験前のこの時期は、カフェインの力で乗り切ろうとする学生が多く、部屋の中全体に、コーヒーの匂いが充満していた。去年までは西も、同じようにこのカフェで試験勉強に勤しんでいたが、今年は課題提出重視の単位ばかりだったので、特段焦ることもなく、必死の形相で英単語を覚えている前の学生を眺めながらパフェを楽しんでいた。周囲を気にしながら、鞄からあるものを取り出して、自然にパフェに振りかけた。爽やかな柑橘系のような香りがするその粉は、コリアンダーというスパイスだ。このパフェにはマスカルポーネが入っていて、チーズとの相性がいいスパイスであることは分かっていたので、きっとさらに美味しくなるはず。以前より、このパフェにはまだまだポテンシャルがある気がしていた。

 一口食べて、自分の選択が間違いではなかったことを確信した。西は、常時あらゆる調味料を小分けして大きめの黒い鞄に入れている。料理はちょっとした工夫で、格段に美味しくなる。その工夫を忘れずにいることが、人生では何より大切なことだと西は思っている。

 初めて料理をしたのは小学生高学年になってからだった。家庭科の授業で習った生姜焼きが美味しくて、火を使わないという家族ルールを破ってまで、再現したくなった。初めて一人で作った生姜焼きは散々の出来だったし、ルールを破ったことがバレて母親にかなりきつく叱られたことを覚えているが、それでも料理を嫌いにはならなかった。コンロに置いて焦げてしまった初代レシピノートも、急いで火を消した時の水の染みや黒く焦げた影がまるで現代アートの様で気に入っていて、今も大切に保存している。

 もう何十冊目になるかわからないにレシピノートに、「コリアンダー×マスカルポーネ ◎」とすぐさま書き込みを始めた。就職活動などで疲れてしまった時も、このノートに書き込みをすると気分が晴れてスッキリとした。

 周囲からは遅れて、4回生になって始めた就職活動だが、結果は想定より良かった。面接を受けた企業の9割がたは内定を貰えたのだ。就職面接と言っても、試験官と談笑をした記憶しかないので、自分の何が良かったのか、未だによく分かっていない。何はともあれ、後はその中で1番自分に合う企業がどこなのか、見極めればいいのだろうが、どこも自分には今一つしっくりこない。贅沢な悩みであることは間違いないが、今後の人生に関わることだし、このもやもやを放置してしまうと、なにか良くない結果を招くと感じていた。

 取り合えずもう一度、内定をもらった企業の研究と自分との相性をノートに書き出そう。就職活動用のノートに切り替えてペンを握った。

「やけん言ったろおが、このままじゃ絶対後悔するっち」

聞いたことの無い強い方言に耳を疑ったが、この大学には全国から学生が集っていることを思い出した。隣のテーブルには男子学生二人が向かい合って座っていた。何か説得している様子の一人は、スマイルポテトを頼んでいるが、手つかずになっているようだ。あのポテトは揚げたてが美味しいのに。アレをかけたら一気にグレードが上がって、銀座のフライドポテトになるんだよな。

「分かっとる。自分が一番分かっとるよ、それは。けどこの腕じゃあどうやっても勝てんけん」

ポテト男の腕には、縫合された傷があった。

「そんなんやってみらんと分からんやろ。部員も皆、お前と一緒に全国大会制覇したいっち言いよる」

このカフェで一番甘い「チョコバナナ練乳パフェ」を頼んでいる男は、どうやらポテト男になんらかの全国大会への参加を望んでいるみたいだ。二人の体格と、腕の傷から見て、体育会系の部活動だろう。耳が餃子のようにふっくらしているが、確かオリンピックで見た柔道選手もそのような耳をしていた気がする。

「いくら怪我が治っても、前のように体が動かんかったら当然負けるわ。こんな奴が団体戦の主将になっても、皆の足引っ張るだけやん」

ポテト男の苦悶に満ちた表情に、西は既知感があった。大きな衝撃とともに、体がひっくり返る感覚。次に目が覚めたときには、自分にとってかけがえのないものがひとつ失われていた。その日から西は、ずっとその足りないものを追っていた。

  ラチャナには、あることがきっかけでバレてしまったが、ターシーにはいまだに言えていない。タ―シーとは卒業しても付き合いがあるだろうと思うほど深い関係性であるのに、なぜか本当に聞いてほしいことを、打ち明けられずにいる。いや、深い関係だからこそ、本音を打ち明けて、どういう反応をされるのか怖いのだと思う。だけど目の前にいるこの二人になら、なぜか話せる気がした。気づけば彼らのテーブルに座っている。目を丸くしてこちらを見てくる二人に、どうすれば警戒心をほどけるだろうかと考えながら笑顔を作る。最初の一言目が肝心だ。それさえ上手くいけば、後はどうにかなる。

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