第19話
今日の1コマは、アルバイトを優先して落としたコマの再履修分だった。一人で話しまくるタイプの教授なので座っていれば、あっという間に講義が終わった。ただ座って、数回の課題提出さえできれば単位が取れたというのに。あの時の自分は愚かだった、といまさらの懺悔しながら資料とボールペン、赤ペンを片付ける。
「お、今日はちゃんと来てる。」
講義が終わってすぐに、左後ろに座っていたラチャナが声をかけてきた。
「さすがに今日は来ないと。課題提出日だし」
ネパールと日本のハーフである彼女は、生まれも育ちも東京で、ネパール語よりも日本語の方が断然得意らしい。同学部同期生で、再履修コマの授業で行く先々にいたので、自然と会話を交わす仲になっていた。落ち単仲間である。
「へいへーい、ラチャチャにターシー、集まってるの久々見るら」
静岡出身の西は、誰にでも距離感ゼロの男で、同じく落ち単仲間。真の陽キャは、他者を不快にさせず、相手の懐にスッと入り込んでしまう、こういう人間のことを言うのではないだろうか。
「西、いつも通りまとめといたから。ノート、来週には返してね」
「おっ、サンキュー。ほんといつも助かる」
ラチャナが西にノートを渡す。西は講義に出ているにもかかわらず、毎回ノートをラチャナに借りているが、居眠りでもしているのだろうか。西の講義での様子を監視してやりたいが、講義ギリギリに着いていつも自分より後ろの席に座っているので、核心的証拠を掴めずにいた。
「そういえば就活、もう終わった?」
ラチャナが聞いてくる。多くの同期生は例年通り、前期までに内定をもらい、就活を終わらせていた。もうすぐ企業の内定会が開かれる時期になる。
「俺はまだまだ、もうちょっといろんな会社見てからさー」
西はあっけらかんと答えた。
「私も。働きたいと思う会社がまだ見つからなくて」
西もラチャナも、同じ落ち単仲間だが、将来については、ちゃんと考えているんだな、と思うと、尊敬する一方で、どこか胸の奥に重いものがのし掛かって来る感覚を覚える。
「ターシーはどうら?」
西がこちらを見てくる。
「最近内定もらったから、そこにしようかなって」
売り手市場と呼ばれる昨今、就活を優位に進める学生が多いのだが、なかなか最終面接まで進めず、一つも内定をもらえない状況が続いていた。しかし先月、やっと希望職種の内定をもらうことができた。
「ええっ、よかったやん、はよ言ってよ!ラチャチャの店でお祝いや」
「おめでとう。お疲れさまだね」
二人はまるで家族のように温かく祝福してくれる。サークルを、2回生の前期に抜けたこともあって、大学の友人は少なかった。沈黙が怖くなくて、気のおける友人は、この二人だけなので、大切にしたいと思っている。
そんな二人にも、言えないことがあった。内定をもらった会社だが、規模の割に毎年大量の新卒を入れており、面接の時から、あまりよくない予感がしていた。もう少し就活を続けるべきなのかもしれないが、就活に漂うあの異様な雰囲気から、一刻も早く抜け出したいというのが本音で、今さら面接に繰り出す勇気がどうしても持てなかった。
「ありがとう。来年から社会人とか、考えたくないけどな」
笑顔で答えたが、割と真剣に、社会に出るのが億劫だった。希望職種も消去法で残った、唯一集中ができそうな仕事で、だからといって、何時間も毎日残業ができるかと問われると全く自信がなかった。社会では、やりがいを求めると、代償として過労や薄給が生じる傾向にある。それに文句を言うと、「自分で選んだ道だろう」とむしろ説教をされる。僕が進もうとしている職種も、そのような分類にある職種だった。たいていの選択でつきまとうのは、「自己責任」と「世の中甘くない」なのである。仕事が楽であることは、いけないことだと見えない誰かが言う。果たして、そんな社会に馴染める日が来るのだろうか。そんなことを考える時、自分はまだまだ子供だと実感する。
西が横で、祝勝会の日時を調整してくれている時、僕の頭に、またあの鈍い音が響いた。隣人が電子ドラムを叩いているような音。夜じゃなければ、特段不快感があるような音ではなかったのだが、日が経つにつれ頻繁に聞こえてくるようになったので、さすがにうんざりしてきた。
「ごめん、今から就職相談室行かないと。また連絡する」
このままここにいると、耳鳴りは酷くなるような気がして、急いで席を立った。実際、就職相談室には行く予定があったので、そのまま向かうことにした。
「内定取れたの?田代君、本当におめでとう」
就職についての指導をしてくれていた野々村さんに、内定が取れたことを報告しなくては、と思っていた。野々村さんには模擬面接や試験問題の指導、企業研究まで、3回生の時からとてもお世話になっている。お礼の菓子折りを持参したのだが、「私は何もしてないから、気持ちだけで十分。お友達と食べて」と頑なに受け取ろうとしなかった。菓子折りは受け取るのもマナーだという人もいるが、野々村さんのきっちりとした性格を表しているようなその振る舞いが、僕は嫌いではなかった。
しばらく就職相談室を、あてもなくうろつく。部屋には、4回生よりも3回生の方が多いようで、春に向けての企業説明会や就職相談会のチラシを確認する生徒がチラホラいた。しかし中には、来春卒業予定の新卒募集の企業一覧を眺めている生徒もいて、そのような生徒は決まって深刻そうな、どこか憂鬱な表情をしていた。そんな様子をなんとなく観察していると、個別相談スペースの仕切りの奥で、学生が相談している声が聞こえてきた。
「やっぱり僕は、俳優になりたいんです」
プライバシー的に、この相談スペースはいかがなものか、と思いつつ、ハキハキと聞こえる声に耳を澄ましてしまう自分がいる。
「そうかー。先週教えた適職診断とかもやってみたんだよね?」
問いかける男性は、青いウインドブレーカーを着ている。野々村さんと同じデザインのもの。地球が最後の日にゼロになったら、きっとこんな色なんだろうな、というような濃い青色だ。顔は見えないが低くて落ち着いた声で話している。
「はい。やってはみたけど、どうしても俳優以外の仕事をする自分が思い描けなくて」
学生も仕切りで顔は見えないが、ベージュのトレーナーの下に白いハイネックシャツを着ていて、ここではよく見かける東京の大学生のおしゃれなイメージまんまの服装だった。
「でもやってみないと想像つかないことの方がもちろん多いよ。それに俳優業の方がこの先のことを考えると大変だと思うけど」
「分かってます。だから、最後の挑戦にしようと思っていて。明日、この間受けたオーディションの結果発表があります。それがダメだったら、今度は本当に就活始めようと思います」
「…そう。よく決心したね。夢はさ、追い続けることより、諦めることの方が実は難しかったりするからさ」
相手に寄り添うというよりか、どこか冷たい印象の担当者だが、夢だけじゃなく現実を教えてくれる大人も、僕らのような学生には必要かもしれない。
「来週の木曜日、同じ時間に、また来てもいいですか?結果が既に発表されていると思うので」
「もちろん、いいよ。今の時間は結構空きがあるから」
相談していた俳優志望の生徒は、そのまま奥のドアから部屋の外に出ていった。結局顔を見ることはなかったが、どこか他人事には思えなかった。就職指導の担当者はああ言っていたが、夢があり内定がない彼と、夢がなく内定がある自分。一体どちらの方が、持たざる者なんだろうか。
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