第16話
薄暗くて静かなこの会議室では、エアコンの羽の音が煩わしいくらいだ。いや、このエアコンの年季が入りすぎているからこんなに耳障りなのだろう。肝心な手元の資料は見えにくいのに、エアコンが吐き出す埃たちは、青い空を舞う粉雪のようにしっかりと見える。ハウスダスト持ちの堂上にはいささかきつい状況だが、「住めば都」というように、慣れてくるとこのかび臭い部屋も、案外落ち着くものだ。瞑想なんかもできそうだし、チーズを熟成させる倉庫としても使えそうだ。チーズの熟成は聞いたところによると10℃くらいの低温で、湿度が90%以上あるのが好ましいらしい。エアコンはもはや埃を循環させるためだけのマシンと化しているし、湿度も体感だと95%くらいに感じるので、ベストな状況なのではないだろうか。いや、チーズなんか作ってもどうしようもない。堂上は急に我に返った。ここは運用公正提案本部、通称「ウンコッティ本部」が入っている会議室である。我々には、残念ながらこの会議室以外に居座れる場所がない。従ってこの部屋は、会議室兼オフィスの何でもスペースと化している。
志村は相変わらず、デスク栽培を続けており、小さな植木鉢に芽吹いている緑色の葉っぱを愛撫しながらこちらを見ている。
「それにしても、役に入りすぎてませんでした?キャストに会う前でもすごい雰囲気出してましたね」
「俺はただ、台本に従っただけだよ」
堂上は葉っぱを睨みながら答えた。
「台本にはタバコを吸うシーンとかなかったですけど」
「ああいうのは設定が肝心なんだよ。主人公がどういう人間なのか分からないと、観衆も入り込めないだろ?かといって、全部説明しちゃったら興ざめしちゃうから、その人の所作振舞いの中に、落とし込むんだよ。演劇の基本だ」
「じゃあ、自分の境遇を大げさに悲嘆してたのも設定ですか?どうせいつか闇に落ちるのなら、奇麗なものは目に毒である、とかだいぶイタかったです。胸元のマイクで僕が聞いてること、忘れてたでしょ」
「真の俳優はな、演じようとは思わない。それが本当の姿だと信じて疑わないんだ。故に、真実か設定かなんて、どうでもいい」
「俳優を本業でやったことないのによくそんな堂々と言えますよね。タトゥーのシールまでつけて、尊敬をこえて敬愛です。」
「どういたしまして」
「それで、どう思いました?あの劇団員たちはアドリブ強いタイプでしょうか」
「うん、ちょっと小林兄弟の兄の方は弱そうだったけど、他は及第点なんじゃないかな。特にあの森蒼汰の対応力は良かった。全く別物にするんじゃなくて、元々の台本を最大限活用して乗り切った。さすが子役からやってるだけあるなあ」
その時、志村が自分の背後を見つめていることに気が付き堂上は振り返った。
「うわっ、牧部長に才木課長!どうかしました?」
普段は自分のデスクから一歩も動かないナマケモノとキリン、いや二人の上司が、じっとこちらを見ていたのが気味悪かった。
「ごめんごめん、驚かせたね。いや、プロジェクトの進捗はどうかなと思って。二人だとなにかと忙しいだろう。あれだったら全然、私たちも力になるけど」
プロジェクトを人任せにして、業務時間の大半をフリーセールやぷよぷよで費やしている二人から出てくる言葉ではなかったので耳を疑った。
「お気持ちはありがたいのですか、もうほとんど業務は終わっておりますので」
堂上は丁重にお断りした。二人はやけに気味の悪い笑顔を見せて、頷きながら席に戻って行った。席に座ってからもこちらをじっと観察しているようだ。一体どういうつもりなんだろう。まあ今はそんなことより大事なことを決めないといけないのだ。
「それで、次のプロジェクトは本当にあれをやるのか?」
「劇団員が台本を作って実演するって話のことですよね。その予定です。そのためにいつもより準備期間が長くなったんですから」
志村は少し前に、急にそのような話をしだして、劇団員たちの適応力を把握するために「歌舞伎町プロジェクト」を実行した。このプロジェクトは公式のものではなくて、二人で考案したテストのようなものだった。それを踏まえて、実際のプロジェクトでも導入するかを判断することにしたのだ。
「でも、こんなことやっていいのかな。今までこんなことなかっただろ」
どこか躊躇している様子の堂上とは裏腹に、志村はプロ野球の監督のように椅子にどっしり構えて腕を組んでいる。風格はあるがどこかフィギュアのようなかわいさがある。
「何を今さら迷うことがあるんですか。いいです?内部規約には”規定されたテーマに基づいて台本を作成すること”としか書かれてません。キャストが台本を作成することが違反だとは書いていないじゃないですか。つまり僕たちはルールの中で、動いているんです」
「そりゃそうだけどさ、なんか法の抜け穴をつくような感じがして、釈然としないんだよな。ほら、俺は正統派でいきたいからさ」
「”これじゃ一匹狼どころか、行き場を失った孤独な渡り鳥である”が正統派語ってるんですか」
「おい、そのネタをこするのやめろよ!実を言うと、マイク仕込んでたこと完全に忘れてたんだよ。お前にこすられることが分かってたら、絶対にあんなことしなかったよ」
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