第14話

沸騰したばかりのやかんを手に取って、茶こしを載せたティーカップの上にお湯を注ぐ。乾燥していた茶葉が花開くように水を吸収して生き生きしている。同時に生姜の爽やかな匂いが鼻腔をくすぐる。沸騰しすぎたお湯は紅茶の香りを立てるのにはよくないので、コンロから離れずに見張っておいた。ネットで調べた、かじりたての紅茶知識で紅茶を淹れてみた。全国的に店舗数を拡大している、お茶界注目の茶葉専門店で購入した、生姜入り紅茶を用意した。今日のような寒波が到来した日には最適の飲み物である。

 最近なんとなく「お茶」が趣味のようなものになりつつある玲奈だが、事前にカップをお湯で温めるという作業がなんとなく面倒で、そういった手順については、見なかったことにしてお茶を淹れている。これは自分のこだわりで、慣習にあえて逆らうことで見えるものもある、そう捉えると 最近なんとなく「お茶」が趣味のようなものになりつつある玲奈だが、事前にカップをお湯で温めるという作業がなんとなく面倒で、都合の悪い部分は見なかったことにしてお茶を淹れている。これは自分のこだわりで、慣習にあえて逆らうことで見えるものもある、そう捉えると、さながらエジソンのような発明家気分でいられるから悪くない。

「なんだこれ、紅茶からなんでカレーの味がするんだ」

信二が訝しそうにティーカップを覗いている。これだから素人は、と思いながら玲奈は呆れ顔で説明する。

「カレーじゃなくてクミンシードよ。スパイスは体を温めるっていうし、紅茶との相性もいいから入れてみたの。チャイみたいでおしゃれでしょ」

「くみんしーど、ちゃいってなんのことだよ。カレー味の紅茶だって素直に言えばいいのに」

これ以上説明する気がなくなった玲奈は、信二を一瞥して、初枝のことを懐かしんだ。初枝は玲奈がどんなお茶を淹れても、毎回美味しそうに飲んでくれて、「玲奈ちゃんの淹れたお茶はやっぱり最高ね」と褒めてくれた。玲奈のことをいつも気にかけてくれて、劇団にとっても欠かせない存在だった初枝は、もういない。 退団してしまったのだ。

 先日、初枝が提案してきたのは、初枝が住んでいる町で、プロジェクトのようなことをしたいということだった。台本はすでに作ってあり、費用もこちらが負担すると言ってきた。劇団員に費用を負担させるわけにはいかないと、玲奈が断ろうとしたが、初枝は老後資金が貯まりすぎているのだと譲らなかった。話を詳しく聞くと、初枝は以前、新宿で小さなバーを経営していたらしく、その時の資金がまだ残っているのだという。意外な過去に驚いたが、やけに歌舞伎町のことにも詳しかったのにも納得がいった。

 そして台本には既に、誰がどの役を演じるかが書いてあった。初枝が小林兄弟に駆け出しの漫才コンビ役を任命していたのは、武の漫才への思いひしひしと感じていたからだろう。「漫才の内容は二人で考えて」と一任していたのも粋な計らいだった。武はいつになく真剣にネタ帳を見つめながら、漫才のネタ構成を練っていた。そういう思いやりがあるのも彼女がみんなに愛される存在である所以なのだ。信二だけは「ツッコミって性格キツそうに見えるから嫌なんだよな」とブツブツ文句を言っていた。ただ、久しぶりの悪役ではない役に、嬉しそうな表情が隠せていなかった。

「このプロジェクトの目的は、町内会のみんなが一致団結して、詐欺から身を守ることよ」

初枝はプロジェクトの趣旨を劇団員たちに説明した。このプロジェクトのために、図書館に籠って詐欺事件について、勉強していたらしい。

 お年寄りの詐欺事件の要因の一つは、「自分は大丈夫だ」という過信があるのだという。それを変えるためには、誰もが詐欺に遭う可能性があるということを自認させる必要があり、そのために身近な人が詐欺に遭ったことを知る機会を作るべきだ。

「でもこの台本だと、町内会の側にも協力者が必要だよな」

武は疑問を呈した。それに対して初枝は自信げに答えた。

「その件は任せて。話が分かる人に協力をお願いしているから」

そしてお年寄りが詐欺に遭いやすいもう一つの要因として、周囲になかなか打ち明けられないことがあった。そのせいで事件が表面化せずに、詐欺の手口を共有できないで新たな事件が勃発することも過去の事例にあった。それを踏まえ、「早く言っておけばよかったこと」をテーマの漫才という劇を披露し、町内会みんなの意識を変革するのが目的だった。

 そうやってプロジェクトは10月のとある日に始動した。結果は大成功だった。これは後に武から聞いた話だが、初枝たちの協力者である延岡という老人の芝居がごく自然で、「知らなかったら自分も信じていたと思う」と言っていた。彼の芝居でかなり暗くなったゲートボール大会だったが、自分たちの漫才のおかげで空気が軽くなったのだと嬉しそうに武は話した。最後の方のネタはあえて信二には教えずにいたことで、大仰にリアクションする癖がなくなって、本当に漫才師みたいだったと、恍惚な顔で語っていた。武は本当に漫才が好きで、兄弟漫才がやりたいのだな、と思うと信二がそれに何も気づいていないのが切なく感じる。言ってあげたい気もするが、信二は信二で役者の仕事が好きみたいなので、本人たちに任せるしかないと玲奈は思っている。

 二人の漫才をきっかけに、町内会の一員が詐欺事件に遭ったことを告白したのは思わぬアクシデントだった。しかし初枝のナイスフォローもあって、むしろ詐欺対策について会議を開くことができて、今後の方針も定まったのだと言う。そうして初枝の住む町では、お年寄りたちのお年寄りのための自衛組織ができて、そこでは詐欺事件の対策本部が立ち上げられ、詐欺に遭わないための電話シミュレーション講座だったり、初枝がバーを経営していた時のツテに刑事もいて、現代詐欺の新たな手口についての講習を開いてくれることになった。

 初枝が最後に事務所を訪れた時、「私たち年寄りで、町を守っていくよ」と楽し気に語っていて、また新たな初枝の一面が見れたような気がした。きっと初枝に救われる高齢者が、今後さらに増えていくのだろう。玲奈にとって初枝は、理想のおばあちゃん像で、いつか玲奈が初枝くらいの年になったら、ああいう風になりたいのだとずっと憧れている。いくつになっても正義感や少しの遊び心は、忘れずに持っていたいものだ。

 「おい武っ、どこ座ってんだよ」

信二の声で、玲奈は我に返った。今日は次のプロジェクトの会議をするために、劇団員たちはみな、事務所に集められていた。

「すみません、あまりにも存在がなくて」

冗談ではなく、本当に気付かなかったようで、武はソファに座っている優(すぐる)の太ももの上に腰掛けようとしていた。優がソファと同系色の深緑色のスーツを着ていたのも災難だった。事務所に来るときは軽装でいい、と最初に言っていたのだが、スーツの方が落ち着くらしく、毎回スーツで参加している。

「いえ、よくあることなので」

名前の通り、この世の誰よりも人がよさそうな優は、娘のまりの私物である、女児向け魔女アニメのキャラクターがプリントされたメモ帳をペラペラとめくりながら、にこやかに答えた。まりは最近そのアニメに飽きてきているらしく、残された大量のグッズ消費を優が担っているらしい。優しくなってほしいという思いで名づけたのだが、あの性格だと世渡りが下手すぎて困ると、優の母である初枝が以前言っていた記憶がある。

「そういえば、この前蒼汰さんがおっしゃっていた、ジェームズディーンの作品、見ましたよ」

「ちょっとパパ、空気読んで」

手で制して、睨みを利かせるまりの様子を、優はぽかんと見ている。常に間が悪いところも、世渡り下手だと初枝が憂う原因の一つだ。

「なあ、あいつ本当にどうしちゃったんだよ」

いつもお互い悪がらみして、蒼汰と犬猿の仲である信二までもが、玲奈に耳打ちをして、直接話しかけるのをためらってしまうほどだ。今や、「名前を言ってはいけないあの人」のような扱いになっている蒼汰は、歌舞伎町の事件があって以来、もぬけの殻のような状態になっている。今日も事務所に来てから一言も言葉を発せず、部屋の隅で体育座りをして、ひたすら地面をぼうっと見ていた。

「いつまでそうやってるの、いい加減気持ち切り替えたら?」

玲奈はたまらず、母親のように蒼汰に檄を飛ばした。

「…あの時のな、背中には勝てないんだよ、どうしても」

森蒼汰は、先の事件で出会ったヤクザの男がずっと頭から離れないのだと言う。

「あいつの背中がな…ジェームズ・ディーンそのものだったんだよ」

この言葉は、ここ最近で、耳にタコができるほど聞いた。ジェームズ・ディーンとは、蒼汰が役者を目指すきっかけとなったアメリカの俳優だ。若くして、事故でこの世を去ったので、彼の出ている映画は3作しか存在しない。その中の1作を、幼い頃から蒼汰がとても気に入っており、彼の演技は誰にも真似できないのだと以前から事あるごとに言っていた。彼が事務所で、空いた時間を見つけては鑑賞しているので、玲奈もあらかたのセリフは頭に入っている。中でも蒼汰が特に好きなジェームズ・ディーンの演技が、カメラにあえて背中を向けて演技をするシーンだった。そのシーンになるたびに「彼の背中にはね、その時の心情がはっきり現れるんだよ、顔を見るより伝わってくる、こんな俳優がどこにいるよ」と言って、見るたびに毎回感動していた。

「演技なんて結局さ、生身の人間の人生に勝てないんだから。俺が何やったって、あいつの背中には敵わない」

「それは違うぞ、演技している人にこそ、救われる生身の人間がいるんだよ」

信二が珍しく真面目な様子で蒼汰を説得する。一瞬蒼汰は信二の方を見たが、再び床に目線を落とし、魂が抜けている様子だ。

「この世界に偽物なんていらないんだよ」

蒼汰の言葉に玲奈は呆れながらも、彼のスランプが思っているより深刻なことに気づいた。長い付き合いになるが、ここまで彼が落ち込んでいる姿を見たことがない。

 投げやりになっている姿を見て、この状況を早く打破しなくてはならないと玲奈は決心した。

「じゃあ分かった!次のプロジェクトがダメだったら、もう俳優になる夢は諦めな」

「そうだな…うん、そうするよ」

まるでここに本体がないかのように返事をする蒼汰に絶句しながらも、玲奈は夢を諦めさせるつもりは全くなかった。彼には何としても役者として日の目を浴びてもらわないと。私はそのためにこの仕事を始めたのだから。 彼には次のプロジェクトで、自信を取り戻してもらわないといけない。いけないのだが、実は最近プロジェクトの依頼が目に見えて減ってしまっていた。

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