第10話
あれ、こんな展開、台本にあったっけ。蒼汰は突如現れた男の力強い右手を眺めながら漠然と今の状況を整理しようとしていた。ヤクザ1とヤクザ2に絡まれるところまではリハーサル通りだった。昨日はこの日に向けて、気合を入れようと夕方にランニングをしたのだが、走りすぎたようで、足ががくがくしてしまったことはあったが、おおむね満足な演技ができていた。おかしくなったのはそこからだ。この謎の男が現れて、ヤクザ1,2に向かって大声で叫んだ。
「ヤられたくなかったらさっさとこの場から立ち去れっ。ここで死ぬか、逃げるか。どっちだ」
本当に人を殺しそうな雰囲気と立ち振る舞いに、偽やくざは明らかに動揺していた。
「お、おい、あんた関係ないだろ、誰だよ」
ヤクザ1は関西出身という役柄を忘れて答えるが、俳優としての最後のプライドなのか、貫禄のある雰囲気はほのかに残していた。
「あっ」
ふと男は大声で叫びながら偽ヤクザの後方を見た。偽ヤクザが振り返る。一瞬のことだった。
「行くぞっ」
男は少女Aを左手で抱き、俺の左腕を掴んで走り出した。まだ混乱していたが、強い力になされるがまま、ひたすら男に引っ張られ走っていた。ちらりと見た偽ヤクザ達は半開きの口で、追いかけることもなく自分たちを死んだ魚のような目で見つめていた。
男の背中は、とてもとても広かった。広いのだが、そこには孤独や寂しさが現れている。この背中には、強い既知感があった。蒼汰は、流れる景色の中で、走馬灯のように過去を思い出した。
幼少期、仕事が忙しい両親に代わって、蒼汰の面倒を見てくれたのは、祖父の憲司だった。空襲で荒れた東京の土地に戦後、小さな鉄筋会社を立ち上げ、昭和の経済復興を支えた一人だ。会社は今、憲司の息子、つまり蒼汰にとっての父が引き継ぎ、憲司は息子夫婦と一緒に暮らし、隠居生活を楽しんでいた。職人気質の性格で、仕事先で喧嘩をすることもあったというが、蒼汰は怒られた記憶がないほど優しく接してもらった。祖父は平日の昼間に放送されている、昔の映画を見るのが習慣の一つだった。蒼汰も夏休みなどの長期休暇があると、祖父と一緒にその放送を見ていた。
当時、見た映画のなかで、強く記憶に残っているものがある。アメリカで1955年に放映された「エデンの東」という作品である。旧約聖書のカインとアベルがモチーフとなっていて、問題を起こしがちな弟が、出来のいい兄に嫉妬したり、父に好かれようと努力しつつも空回りしてしまう、青春映画だ。この作品は今まで何十、何百回と見たほど影響を受けた作品で、一番好きなシーンは主演を務めるジェームズ・ディーンこと、ジミーが、カメラに背中を向けて、ある男とロッカー越しに会話をする場面。ジミーはカメラに背中を向けて話しているのだが、その背中には、哀愁と孤独感と、何とも言えない表情があり、それを見て、役者という夢が生まれたほどだ。
歌舞伎町で出会った男の背中は、まさにジミーの背中そのものだった。何度も憧れ、真似をしたが、やればやるほど自分が偽物であることが明白になってゆく。時を経て、やっと正解が分かったような気がした。そうか、これが本物の背中だったんだな。
あれからどれくらい走っただろうか。風俗店が立ち並ぶ、路地裏の狭く暗い隙間でやっと男は立ちどまった。
「さすがにもう追ってはこないだろ」
男は息を切らしながらそう言うが、当然のことだ。先ほどのあの様子を見る限り、あいつらは追うどころか、逃げ回っているだろう。それにしても、なぜ男は俺たちをかばおうとしたのだろう。男の様子、服装を見る限り、こっち側というよりあっち側の人間に近い気がする。それに、引っ張られたときに見えた彼の右腕には龍の入れ墨が彫られていた。率直に尋ねることにした。
「どうして助けてくれたんですか」
男は壁にもたれ、地面を睨みながら答えた。
「お前が昔の俺に似ていたからだよ」
どういうことだろう。疑問を投げかけるように男の顔を見つめた。答えるように男は続ける。
「ずいぶん昔に、惚れた女を悪い奴らから助けようとしたんだ。あいにく見ての通り、まともに喧嘩したことがねえし、その時もボコボコにされたんけどな」
一呼吸置いて、また話し出した。
「お前がこの子をあいつらから助けようとした時、あの時のことを思い出したんだよ。今ではこんな、社会の底辺にいるようなクズになっちまったけど、あの時は少なくとも誰かを助けたいって気持ちを持っていた。それを思い出させてくれたお前に、恩返しのつもりだ」
蒼汰は演技をすることを忘れて男の顔をまじまじと見つめた。自分は青年Xをまっとうしたが、現実に台本のようなことが起こったら、行動に移せる確信はない。皮肉にも本物のヤクザが、ヤクザを装った男に立ち向かって、正義を敢行したのだ。
「じゃあ、もう会うこともねえだろうけど、元気でな。あんま無茶すんなよ。お嬢ちゃんもこんなとこ二度と来ちゃだめだぞ」
少女の頭を優しくなでて、男はその場から立ち去ろうとする。そこでやっと、蒼汰は台本の存在を思い出して、最後に少女に言うはずだったセリフを少し編成して、男に向けて発した。
「今はきっと辛いだろう。これからの道のりも、易しくはないと思う。それでも君は、今日から再出発する権利がある。更生する権利がある」
男は黙って蒼汰の方を真剣に見ている。その視線を全身に受けながら、蒼汰は自分の言葉を続けた。
「あんたがどんな悪事を今まで働いてきたのか知らないけどさ、変わりたいと思ってるんだったら、今動くことだ。二度と後悔したくないんだったらな」
男は何も言わず蒼汰に背を向けて、そのまま来た道をゆっくり戻っていった。どう受け取ったかは、表情から分からないが、その背中を見れば返事は何となくわかるような気がした。
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