第7話

 ”歌舞伎町一番街”赤い文字がぎらつき、疲れた目を突き刺すような痛みが走る。もう日もすっかり落ちているというのに、この町は昼時よりも明るかった。その明るさから逃れるように、真っ黒なスーツを身にまとった男は、ふと空を見上げた。ここ何年もまともに星をみていない。落ち着いて空を見るほどの心の余裕がなかった。自分が今いる場所から、真っ逆さまに落ちてしまう確率は、年々増していってるように感じる。どうせいつか闇に落ちるのなら、奇麗なものは目に毒である。

毎日、仕事と呼べないような仕事をこなしていくたびに男の心は荒み、闇が広がっていった。何度も後悔し、一度は本気で抜け出そうとした。それでもこの東京の魅惑には抗えなかった。この年で他の場所で再出発することなど、考えただけで身震いがする。四十の誕生日を迎えた今日も、これから荒れた街へと駆り出されるのだ。同級生たちはすでに昇進したり、温かい家庭を築いているというのに、自分は家庭を省みず、安定のない場所で確実に老いていっている。まだ幼い息子は、最近よく父親である男の行動を真似するようになった。この父の背中を、堂々と我が子に見せることができるだろうか。重い体を何とか動かし、逃げ出したい気持ちとは裏腹に、歌舞伎町の汚れた路地に足を運ぶ。

以前、見回りの警察に職質をされて面倒なことになったのを思い出し、人通りがまばらな薄暗い通りを進み、例の計画が行われる場所にたどり着いた。予定の時間より少し早すぎたようで、待ち人はまだ現れていないようだ。キャメルのメンソールライトボックスをポケットから取り出して、火をつける。コスパが良く、さっぱりした後味も気に入っており、数年前から愛用している。ビールを一口飲んだだけで顔が真っ赤になる祖母からの隔世遺伝を引き継いだお陰でアルコール浸けになることはなかったが、煙草だけは、身近にあるストレスや焦燥感から現実逃避できる嗜好品だ。

二本目を吸い終わった頃だったろうか。しばらく電柱の影に隠れてじっとしていると、この時間には珍しく、5~6歳の小さい女の子がぽつんと立っていた。周囲には数人だが、通行している人もいた。しかしその中に彼女の両親はいないようだ。すると近くから目つきの悪い男と、整った顔をしている男が、いかにもカタギではない容貌で現れた。瞬時に同業者だと判断した。今時むしろ珍しいほど、ガニ股で肩を揺らしながら、ずんずんと歩いている。目つきの悪い方が、女の子を見つけ、コテコテの関西弁で話しかけていた。

「ねえねえおじょーちゃん、何しててん?ひまならにーちゃん一緒に遊んだろか?」

「おいっそんなガキに興味ねーよ、行くぞ」

ハンサムな方が制止した。

「お前知らへんのか?今の世の中いろんな奴がおるんや。こういうかわいこちゃんが好きな奴かてようけおるんやけん、そいつらにあげたらみりあちゃんの店でドンペリでも頼めるんちゃうかー。さっ、ほんならおじょーちゃん一緒に行こか」

「いやっ。えりかここでママ待ってるんだもん」

女の子は今にも泣きそうになって抵抗する。近年、金銭的な問題や育児放棄などで子供を繁華街に置き去りにする親が続出していると、家を出る前に見ていたニュースで報じていた。子供達は保護されて施設に行くことがほとんどだが、過去には悪い大人に捕まって、売り飛ばされたり詐欺などの受け子にされたりする事案もあった。前知識があったので、男はさほど動じなかった。サバンナのように枯れて飢えてしまったこの世界では、起こりうるべくして、起きた事件である。ここで自分が何をすべきか、模範解答は既に出ている。後はそれを行動に移すだけなのだが、なにせこんな状況は初めてなので、本当に自分の想定通りに事が運ぶのか、逡巡してしまう。学生の頃は、防災訓練などの予行練習は、席を立って運動場まで行進するだけで、無駄な作業だと思っていたが、経験していることと、していないことの差は、歴然としているのだと、大人になってよく分かった。


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