第6話

彼女は美しすぎる。ベッドで眠りこけているその寝顔を、俺だけが独占してもいいのだろうか。ぷっくりしたその口元に頬ずりをしたいし、ふわふわの頭を撫で繰り回したい。だけど、彼女を起こして機嫌を損ねてしまうのはいけないことなので、今はただじっと目に焼き付けるだけにしておこう。今だけは、仕事が上手くいくのかとか、昇進できるのかとか、家庭を支えていけるだろうかとか、そういった不安を全部忘れてもいいだろうか。妻の顔がふっと頭をよぎり、胸がキリっとする。先日うっかりそのまま洗濯してしまったシャツに毛がついていたことを指摘された。バレてしまうのも時間の問題かもしれない。悩みは尽きないが、彼女の寝顔はその悩みを引き延ばしてしまう強い魅力があった。もうすぐ起きる時間だ。目をとろんとさせながらも、瞼を持ち上げながら、大きく口を開けて欠伸する。

「にゃあああ」

もう我慢ができず、顎を優しく撫でた。ゴロゴロと気持ちよさそうな返事をしてくれる。

「堂上さん、さっきから僕の話ちゃんと聞いてます?」

呆れたように志村がこちらを見ている。猫を撫でる手を止めずに返答する。

「そりゃ聞いてるよ。聞くためにここに来たんだろう」

 今日はプロジェクトの会議をするため、渋谷にある猫カフェに来ている。なぜ猫カフェなのかというと、偶然このカフェが空いていたからだ。昨今、猫アレルギーを抱えている人が増えた影響もあるに違いない。しかし、猫の存在で自律神経の働きが整い、免疫力の向上とストレスの減少効果もあることが科学的に証明されており、仕事にも良い影響を与えることは確実である。己の趣味で場所を決めたわけではないことをここに宣言しておく。

 議題となっているプロジェクトとは、ウンコッティに依頼される国際的な非公表プロジェクトのことだ。歴史が長いプロジェクトらしいが、いつどこで、誰が始めて世界的に波及していったのか、詳しいことは謎に包まれている。上層部は知っているのかもしれないが、下っ端の自分には、所詮知る由の無いことだった。ウンコッティへの部署異動があって知らされたのは「偶然」を創り出す役目を担うということだった。

 自称シベリアンハスキーこと「チャウ・チャウ先輩」にここでの仕事を教わっていた日が昨日のことのように蘇ってくる。

「いいか、プロジェクト創始者である某氏は言った。”偶然こそが、世界を平和たらしめる所以だ”と」

さっぱり意味が分からなかったが、黙っている俺を尻目にチャウ・チャウ先輩は続ける。

「氏はこうも言った。”偶然は偶発的現象であり、偶然を創り出すというのは明らかに矛盾している。しかし、偶然が一定の間隔で、一定数存在しなければ、平和は存続し得ないのである。我々はそういう意味では、いわばパラドクス状態にあると言える。一方で、計画なき偶然こそが理想的な偶然であることは頭の片隅に入れておいてほしい”」

全く持って意味が分からなかった。元より理解しがたい思想を、日本語に翻訳しているものだから、二重に複雑な読みづらさがある。海外のミステリーを読むと、トリックを解読すると同時に、その土地の習慣や横文字のオンパレードをマスターしなければならないあの難解さと似ている。とにかくこれが、自分たちがやっているプロジェクトの目的だった。

 正式名称は「Something Creator(SC)」で、国内では「偶然請負人」と呼ばれている。各国でプロジェクトの内情が異なることもあるが、目的はみな同じである。厳格な分厚い内部規定も存在し、中でも重要な規定は以下の通りである。

一、「偶然」を発生させる場所や時間は無作為抽出とする。請負人らが故意に指定してはならない。

一、「偶然」の内容に、特定の思想、宗教、政治を結び付けてはならない。規定に従って考案すること。

一、プロジェクト内容を第三者(キャストも含む)に開示、漏洩させてはならない。

 「キャスト」というのは「偶然」の台本を実際に演じる役者のことで、ウンコッティでは小さな劇団などに依頼をしている。我々は都心のみを担当しているが、各地域の研究所に同組織が名称を変えて存在しており、自分たちと同じように偶然請負人が存在する。毎年、本元の海外組織からおおまかなプロジェクトの依頼が届き、それを各地域で練り上げて、その地域の劇団員や、専属の業者に依頼して遂行してもらうというのが一連の流れである。中には人材不足もあって、請負人自らがキャストを兼務することもある。他の地域がどのように対応しているのかは定かでないが、ここでは毎年前例に従って、無難にプロジェクトをこなすというのが、俺が異動してきてからの習わしだった。そういえばチャウ・チャウ先輩は、プロジェクトに疑問を呈した俺に、こんなことも言っていた。

「元来、仕事をする人間の目的は二つに一つだ。生きるためか、生きる意味を見つけるためか。俺は生きるために仕事をする。だから理由なんてものは必要ない」

異動最後の日まで、何を考えているのかよく分からない人だったな。でも、この職場にはチャウ・チャウ先輩のような考えの人の方が多数派だと思う。恐らく俺が来る前も、ずっとそうだったのではないだろうか。確かに、都市伝説よりも怪しいこの話を真面目に信じて働くのは、請負人になって数年が経った今でも難しいことだ。

 だが、志村は異なっていた。異動して1年目なのに誰より熱心にこの仕事に取り組んでいる。もともと精神衛生の研究をしていた志村だが、どこからかこの部署の実際の仕事内容を聞きつけて、以前より異動を強く希望していたらしい。当時は研究者としても活躍しており、「訳の分からない部署への異動などやめておけ」と周囲に強く引き止められたのだが、しつこく食い下がり、勤続4年目にして、晴れて念願の部署異動が叶ったのだという。俺からしてみれば、そんな変わり者がこの世に存在するのかと思うほどだが、彼にもなにか秘密があるのだろう。もしくはただの変わり者か。一つ言えるのは、俺たちはまだそれを聞けるほど親しい仲ではないということだ。

 話をプロジェクトに戻すと、ひと月ほど前に実行された「若者が年配者に手を差し伸べる偶然」のプロジェクトも、毎年同じセリフ、同じ動きで引き継がれていた。しかし志村は「悪意が近くに存在する方が、より善意が引き立つ偶然を創れるのではないか」と言い出し、ヒールの演者を追加することを主張した。

「社会には光と影が存在するのに、光の部分にしかフォーカスを当てずに偶然を創っても、リアリティがないと思います」

「この仕事にリアリティってそんなに必要か?形式的なものだろ」

俺は怪訝な顔を隠さずに志村に問うた。

「僕はこれを形式的なものだとは思ってません。一説によると、紀元前からこのプロジェクトは続いていると言われています。きっと偶然には重要な役割があるはずです」

 仕事に対する胡散臭い気持ちがなくなった訳ではないが、志村の真剣な表情を見ていると、これ以上反論するのも面倒だったので、放っておくことにした。志村はほとんど一人でプロジェクト計画を練り上げていき、実行までこぎつけた。無事にプロジェクトは進み、ウンコッティ長老たちの「お任せ」主義もあって、それ以降のプロジェクトも志村に引き継がれることになった。そして俺は今、猫を触りながら志村の話に耳を傾けている。先ほどからキジ三毛のにゃんこがゴロゴロと喉を鳴らしている。どうしたんだい、腹が減ったのかい。

「お腹いっぱいでしょうよ。堂上さんがさっき、たんまりと餌あげてたじゃないですか」

「あ、心の声、出ちゃってた?」

「全然出てます。なんなら猫カフェに通いまくって奥さんにバレそうになってるってところから出ちゃってますよ。ってか堂上さんって良い声してますよね」

「そうか?学生の頃に演劇部やってたおかげかな。人間役だったことはほぼないけど」

「なんとなくわかる気がします。堂上さんってどこか人間離れしてますもんね」

「志村にだけは言われたくないけどな。こんなプロジェクトを真剣にやってるのはお前くらいだぞ」

「だから、さっきからそのプロジェクトの話をしているんですよ。劇団うまづらなんですけど、キャストをやってからもう1年が経ってるんですよね?彼らはそろそろ次のフェーズに移行してもいいんじゃないでしょうか」

「お前さあ、”フェーズ”なんて簡単に言ってるけどさあ、それ、政治業界では不吉なワードだからな。非常事態の時はよく聞いたよ」

「そうなんですか?才木課長がよく使ってるから、僕も移っちゃいました」

「才木課長は医療業界の人だったからなあ。"フェーズ"は薬の承認の段階を指す、ポジティブな意味合いなんだよ。同じ言葉でも、人によって違う意味を持つ」

「…あの、こんなんじゃ一向に話が進みませんよ」


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偶然パラドクス @satomi_jo

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