第5話

8月に入り最初の日曜日。世間は夏休み真っ只中でどこか浮足立っているというのに、怜奈、蒼汰、小林兄弟と初枝は、おんぼろビルの一室に集合し複雑な顔を浮かべA4の一枚の紙に集中していた。


依頼『新宿歌舞伎町の治安の悪化を改善するようなプロジェクトを考案してほしい。』


たった一文だった。今までのプロジェクトは、場所はもちろんその内容も向こうから指定されていた。タバコのポイ捨てを注意する、などの内容と、それに基づいた台本が送られていた。それが今回は、台本どころかその設定すらも用意されていない。劇団で作成した台本は、メールで事前に送るように書かれていた。はじめての状況にみなが、困惑を隠せないでいた。

「とうとう見放されちゃったのかな俺たち」

「プロジェクトの統計はもう十分とれたのかもな」

小林兄弟がひそひそと話し合っている。

 最初に劇団うまずらにプロジェクトの依頼が来たのは、世間が新しい日々を迎えようとして、ふわふわしたような特有の雰囲気が漂う、とある初春の日だった。一日に数人ほどのアクセスしかない、劇団の公式サイトに記載しているメールアドレス宛に、一通のメールが届いた。件名は「新プロジェクトの依頼につきまして(国立研究所 運用公正提案本部)」とあった。どうポジティブに考えても、詐欺メールにしか見えなかったが、当時、劇団としての収入がほとんどない状態で、存続すら危うかったので、藁にも縋る思いでメールを開いてしまった。

メールには「とある研究のために、依頼する内容の演劇をしてほしい。ただし、演劇のことについては他言無用で、守秘義務が生じる」というようなことが書かれていた。統計を取るために演劇をするというのは、少し変わっているような気もするが、特段こちらに不利な条件はなかった。ただ、「知名度のある役者の参加は不可」だと特記されていた。役者は知名度があってなんぼなのに、変な特記だと思ったが、悲しいことに、この劇団にそんな心配は無用である。たまに行う小さなライブハウスで行われる劇でさえ、空席が目立ってしまう。常連客は数人いて、毎回センスがよくて美味しいパティスリーを差し入れしてくれるOL風の若い女性、震える手でウォッカを片手に鑑賞するアル中の長髪おじさんと、自称「脚本家の卵」であるハーフリムの眼鏡をかけた癖の強そうな男子大学生(鑑賞しながら常にメモを取っていて、閉演後に役者にアドバイスをしてくれる)などが応援してくれている。

 記載されていた報酬の額は、当時の劇団にとっては破格の数字だった。もしこの依頼が本物であれば快諾したかったが、件名に記載されている「国立研究所 運用公正提案本部」という組織は、インターネットや図書館など、どこを探しても見つからなかった。依頼を受けるためには、メールに書かれている電話番号に連絡する必要があり、かなり迷ったが、劇団の窓口である玲奈が連絡してみることにした。電話に出た男性の声は、徳永英明のような声で、全く感情が読み取れず、少し怖かった。流れるように話が進み、霞ヶ関の某ビルでの面談が指定された。

霞ヶ関にあるそのビルは、ニュースでもよく取り上げられる有名なビルだった。ここで働く人達とは一生関わることもないだろうと思っていたけど、生きていると分かんないもんだな。一人、面談に訪れた玲奈はそう思った。それにしても怪しい組織じゃなくてよかった。そう思ったのもつかの間、受付の女性に事情を話すと、何やらいぶかしそうな顔でこちらを見てくる。何が何だか困惑している横から、中年の男性がこちらに走ってきて、案内してくれることになった。その無機質な話し方には聞き覚えがあった。案内されるがままに歩いていくが、男性は何やら厳重な扉にカードをかざし、薄暗い階段を何段降りただろうか、そこには鬱蒼とした森のような薄暗い部屋があった。広さは劇団の事務所と同じくらいだ。

 中には誰もいないので、徳永英明(仮称)がいなかったら、本当に遭難してしまったと錯覚しそうなほどだ。怪しむ空気が伝わったのか、英明はひっそりと声を発した。

「今日はみなさん公休日なんですよ。普段はもっと騒がしいですから」

彼の発言からは、とても騒がしい様子が想像できないが、とりあえず今はその言葉を受け入れる。

「単刀直入に言いますと、我々の依頼した演劇を遂行していただきたく存じます。内容自体は至ってシンプルなものがほとんどです」

英明は仕事内容については、そのくらいの説明しかしなかった。そこから玲奈は、質問された通りに劇団の経歴や劇団員たちの説明をした。玲奈が説明している間も、英明の様子は変わらず、一定のトーンを保ち続けていた。

「それでは最後に重要な注意事項をお伝えします。事前にお伝えした通り、こちらから依頼するプロジェクト内容に関しては、全て他言無用でお願いいたします。万が一、規則違反が発覚した場合、重大な処罰が下されますので、こちらの契約書をご確認よろしくお願いします」

玲奈はたまらず、そこでゴクリと喉を鳴らした。契約書の隅まで目を通し、サインをする。少し手が震え文字が歪んでしまった。

「もう一つ、当プロジェクトでは、知名度のある役者様の参加はお断りしております。現時点では、御社に該当者なしとこちらで判断しておりますが、プロジェクト進行段階で該当者が発生した場合、その方にはプロジェクトを外れていただくことになります」

ここまで来たら、後戻りはできない。玲奈は覚悟を決めて、ゆっくりと首を縦に振った。

 それから1週間後、劇団うまずらがプロジェクトの依頼を受けることが決まり、数日後には、一回目の依頼についての書面が郵送されてきた。国立研究所がそんなにゆるゆるの審査でいいのだろうか、とこちらが心配してしまうほどだ。

 その依頼内容についても驚かされた。演劇というのだから、当然劇場でやるものだと思っていたが、東京都台東区の浅草花やしきの道端が舞台で、しかも行列に割り込む客と、それを注意する客の役をしてほしいらしい。しっかり予定日時と場所指定もしている。ここまで来たら本当に訳が分からなかったが「国立研究所」というネームバリューは、そんな怪しさすらも払拭した。演劇は無事遂行され、数日後には口座に報酬が振り込まれていた。

そんなことから始まったプロジェクトだったが、あれからもう1年以上経過したことになる。いつも書面での依頼に限られていて、依頼者と顔を合わせたのはあの面談日以来一度もない。奇妙な関係性だと思うが、報酬さえ無事に振り込んでもらえたらそれでいいと、今のところ玲奈は思っている。具体的な目的だったり、どのような統計を取るかは、劇団員たちには知らされていなかった。

 「あの人たちが考えてることなんて、最初っから分かんなかったし、今はやれるだけのことをしよ」

歌舞伎町プロジェクトの紙面を見つめながら、劇団長兼何でも屋の玲奈が、一致団結するように喝を入れる。

「場所が歌舞伎町っていうのが重要だな。東京の観光地として有名だけど、まあ何かと騒がしい街だよな」

「信二は行きつけのキャバクラがあるんだっけ」

蒼汰がいつものように突っかかる。

「ああ?俺はキャバクラよりメイド喫茶派なんだよ。知ったような口を聞くな」

信二はガンを飛ばして蒼汰を威嚇する。

「あそこは昔から野村組が占拠しているからねえ。薬物、転売、闇カジノ、犯罪のレパートリーが豊富なところだよ」

初枝は意外にも、歌舞伎町の犯罪事情に妙に詳しい。

「それだ。ヤクザが題材の台本にすればいいんじゃない?うちには適任がいることだし」

そういって玲奈はニヤッと信二に視線を向けた。

「ほんと勘弁してよ。ここ最近ずっと汚れ役ばっかりじゃねーか」

信二は心底うんざりといった表情である。最近、意識している俳優がイメチェンをして、それに触発されて美容室に行き、アップバングショートというヘアスタイルにしてもらったらしく、髪をよくいじっては鏡を見ている。その動作が少し鼻につくが、ベージュアッシュのヘアカラーがよく似合っていると玲奈は思っていた。

「いいじゃんそれ。俺をもっと輝かせてくれよ」

光悦な笑みを浮かべて、すでに蒼汰は役作りに入ってしまっている。その姿を小林武は、気味が悪そうに無言で見つめていた。

「あっ。そういえば今回から新人さんが2人入るから。先輩らしく、みんなカバーしてあげてよ」

「私にとっては初めての後輩だね。たっぷり指導してあげないと」

初枝がいたずらっ子のような顔で玲奈を見た。

今回は今までの中で一番いい台本ができそう。嫌がる信二と乗り気なメンバーたちを背に、玲奈はそんな予感を抱き、瞼を閉じてゆっくり頷いた。

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