第3話

きれいに舗装されていて、くっきりと白線が道路に浮かび上がっている。何者の介入も許さないような、教育者にとって理想的な道。僕の大嫌いな道でもある。その道の先には、僕の通う中学校がある。この辺りで暮らしているなら知らない人はいないほど、有名な進学校だ。僕は、いつもあえて遠回りをして、鳩のフンや酔っぱらいの吐瀉物などで汚れた鉄道の高架下を歩く。そこだけ空気が濁っていて、異界のような雰囲気さえある。だけど、あのきれいな白線の道より断然こっちの方がましだった。ここは僕が選ぶ道だ。あいつらが決めた道じゃない。

 生まれてきてまだ10年ちょっとなのに、僕の人生は既に決まっていた。周囲の人間は好き勝手に言うが、そんなに羨ましがるんだったら今すぐ僕と人生を変わってほしい。僕は毎日、いつ世界が終わってくれるのか、そんなことばかり考えている。家族には誰も僕なんか見えていない。それぞれに自分のことや会社のことで精一杯で、それ以外に入る余地なんかない。生まれてからずっとそんなんだったので、家のことなんかもはやどうでもよかった。だけど、あの場所がなくなったら、僕の居場所は本当になくなってしまう。校舎の北側の棟にある薄暗い階段は、僕にとって最後の砦だった。屋上への階段だが、扉には鍵がかかっている。僕はその扉が開いたところを見たことがなく、日も当たらず、かび臭いけどもそこでぼーっとしている時間が、唯一安らげる時間だ。

 神様は残酷で、そんなささやかな僕の休息でさえ奪おうとしてくる。毎週木曜日にあるクラス議論の時間で、鼻につく優等生タイプの女子生徒が、あの階段で悪さをする生徒がいるから、物を置いて塞ぐべきだとか言い出した。彼女は自分が正すべきものを正しているのだ、という快楽を得るために生きている節がある。先週も彼女の独壇場だった。何が楽しくて、あんなにあの階段を悪者扱いするのか。確かに一度、あそこに煙草の吸殻が落ちているのを見たことがある。だけど、悪いのはあそこで煙草を吸った奴で、あの階段ではない。そういう奴は、あそこがなくなっても、またどこか穴場を見つけて吸うに決まってる。先生も先生で、「このことは職員の皆さんとも話し合うべきだわ」とか言って、大事にしてしまった。話し合うべきなのは悪さをする生徒に向き合うことだ。それが先生の仕事だろ?怒りが沸いたが、それを口にすることはなかった。誰もこの議論に本気で関心を持ってる生徒なんていなかったし、僕はなにか目立ったことをするようなタイプではないから。そうやってひっそりと今まで暮らしてきたのだから。

 議論が始まった1カ月前から、僕はまともに寝ることが出来なくなった。もともと眠りの深い方ではなかったが、あの階段が奪われる恐怖を思うと、どうしても心を穏やかにすることなどできなかった。親が飲用している睡眠の質をあげるというサプリなども飲んでみたが、寝覚めがひどくなったので止めた。もうどうにでもなれと思う日と、どうしようもなく怖さを感じる日が交互にやってくる。今日は後者だ。風邪にも似た酷い悪寒を感じながら、家を出て、学校へと歩く。

 暗く湿った空間は、あの階段とよく似ていた。だから僕はこの鉄道の高架下が好きなのかもしれない。寒さをしのげるからなのか、寒さで鼻が凍りそうな今の時期でも、ホームレスが何人か段ボールの住処を作っている。彼らを直接見ることはなく、何もないかのようにそこを通り過ぎる習慣がついていた。なんとなく、ホームレスをじっくり見つめるのは、失礼なような気がしていた。だけど考えてみると、見ないようにするというのも、自分という人間が醜いことを証明しているようだった。

 「あんちゃんひどい顔してるね。これあげるから、もちょっとマシな顔しな」

黒いダウンにニット帽のおじいさんが手に黒い何かを握って話しかけてきた。よく見ると、カイロだった。おじいさんはそれを僕に渡してくる。毛玉だらけのそれを受け取ると、かすかに温もりが残っているのを感じた。その人は、ちょっとだけ笑顔になってそのまま高架下を抜けて、歩いて行った。片足が悪いようで、杖をついて少し不自然な歩き方をしていた。昔からここにいるホームレスの一人なのだろうか、何度かすれ違ったことがあるのだろうか。僕は当然それを知らない。だけどそのカイロの温もりは、どこか懐かしさがあるものだった。きっと数分後には冷たくなって、ただの鉄の塊になっている。だけどあのおじいさんにとってこのカイロは、凍てつく寒さを凌ぐための、とても大切なカイロだったはずだ。

 そんなことがあった次の週、同じ曜日におじいさんをまた見かけた。おじいさんはまた同じ言葉を呟いて、僕にカイロをくれた。そしてちょっとだけ笑って、高架下を歩いていく。そのまた次の週も同じだった。おじいさんの家はブルーシートで覆われていた。入口の辺りには青い蟹のようなものが描かれた紙コップが置いてある。中にはなにか黒いものが入っていた。

 おじいさんは僕のことを覚えていないのかもしれない。そう思うほどに、いつもおじいさんが僕にする行動は同じだった。そして毛玉だらけのカイロが3つ貯まった時、僕は初めてクラス議論に参加した。

「階段をなくせば、悪いことをする生徒は救われるのでしょうか。僕は違うと思います。問題は、生徒がなぜそのようなことをするのかを考えることにあるのではないでしょうか」

クラス内でもめったに発言しない僕が意見を言ったことで、ざわついているのが感じられた。優等生タイプのあの女子は、不満げな顔を隠そうとしない。それでも僕は、そこまで不安な気持ちはなかった。ポケットに入れているあのカイロを握っていると、不思議とまだ温もりが残っているような気がした。

 結局、階段の存続は投票で決めることになり、クラスの大多数が優等生側についたことで、階段が閉鎖されることが決まった。僕の居場所はなくなったが、想定していたよりダメージは少なかった。言葉で言い表すのが難しいけど、数週間前までの僕と今の僕は、少し違っていた。それに、僕の意見に賛同してくれたらしい二人の男子が話しかけてきた。以来、休み時間に話したり、休日に遊びに出かけたりしている。初めてのことでよく分からないが、友人と呼べる存在は、こういうことなのだろう。

 僕は自分に起きたことを、あのおじいさんに報告したくて、次の週の木曜日にまたあの高架下を訪れた。けれども見つけることはできなかった。その次の週、そのまた次の週も同じだった。たまらず、近くにいたホームレスのおじさんに、杖をついた黒い服のおじいさんを知らないかと聞いた。

「そんな奴もいたかな、話したことあるかもしらんけど」

「そうですか。どこか行き先とか聞いてないですか」

「行き先?いやいや俺たちはみんな、他の奴らに深入りはしないよ。お互いのヤサは知ってても、過去や今後のことを聞くなんてありえねえよ。ここはそういうとこだ。坊ちゃんにはわかんないだろうけどね」

僕の制服を見て、呆れたように手を振ってからそのおじさんは集めてきた空き缶の分別作業を始めた。中学を卒業するまで僕はあの高架下に通い続けたが、結局カイロをくれたおじいさんに再び会うことはなかった。思い返すと、あの時カイロをもらった時に、僕は一度死んで生まれ変わったのだと思う。物理的にはありえないけど、あの人はそういう問題とはかけ離れた存在に思える。あの人はもしかしたら、僕の神様だったんじゃないだろうか。




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