第2話
数メートル先にいる人間の顔が見えるか見えないかくらいの薄暗い会議室に、中年の男性たちが十数名集まっていた。日本じゅうのエリートたちが集まる霞ヶ関に立地するこの巨大ビルは、表向きは地上8階、地下1階建てとされているが、この会議室があるのは地下2階で、ここに勤める者たちのなかでもごく一部の、限られた人間のみが訪れる場所だ。地下2階の会議室については、まるで都市伝説のように語り継がれ、「優秀な研究功績を収めた選ばれし者たちが行ける会議室」だと噂する人がいれば、「仕事ができない問題児たちが集められる収容所」だと馬鹿にする人もいた。訪れた人間はそこで初めて自分の所属する部署名と仕事内容について聞かされる。運用公正提案本部、通称「ウンコッティ本部」と仲間内では呼ばれている。幅広い業務を担う国立研究所のなかでも、最もあやふやな名前の組織である。世間に公表されていない組織で、国際的に秘密裏に行われている、とあるプロジェクトのために作られた部署である。
当本部所属となって3年が経つ堂上拓巳は、組織の中では中堅となった。ここで勤務する者たちは約7年で異動があるというが、赴任先は地方の研究所であることがほとんどだと去年異動してしまった元本部の先輩が言っていた。
堂上は元々、国政分野の研究に携わっており、首相官邸とも関わりがあるような立場だった。連日のように政治家たちと議論を交わし、日本を良くしていくために尽力した自負があった。時に政治家たちを罵倒するほど熱くなっても、自分は必要とされているのだと信じ切っていた。結論から言うと、それは間違いだった。政治家たちにとって自分は、体のいい形だけの権威に過ぎなかった。彼らが必要としていたのは国を思う者ではなく、自分たち政治家を思う者だったのだ。もうすぐ30代ともおさらばだというのに、気付けば地下生活を強いられ、第一線からは遠のいてしまった。「ただの置物が出過ぎた真似をしてしまった」。周囲からはそういった視線を投げかけられ、もはや堂上は仕事への情熱を忘れてしまっていた。それに、この部署での仕事内容について初めて聞かされた時には、まるでおとぎ話を聞いているような、国立研究所で行う仕事とは到底考えられなかった。訳の分からない仕事をさせて、早くお払い箱の職員たちを追い出したいのではないかと疑っている。
「えぇーと、じゃあ今回の議題は毎年恒例のサマーサムシングの内容についてだけど」
会議の司会進行を務める牧敏郎は、いつものように寝起きそのままに来たかのようなぼさぼさ頭を搔きながら、片手で書類を持って、けだるそうに読み上げる。その姿は先週大島動物園で見たフタユビナマケモノにそっくりだ。堂上は例の先輩が動物好きだったので、付き合いで猫カフェや動物園に連れこまれていたのだが、いつしか堂上のほうが動物好きになるほどにのめり込んでしまった。最近では人を動物に例えるのが癖になるまでになってしまった。先輩は自身のことを「シベリアンハスキー」と評していた。見た目はもっさりしていて、堂上には「チャウチャウ」のように映っていたが、声は「ハスキー」だったので、よしとした。
ウンコッティに所属する職員の様相は大きく二つに分かれる。「左遷されることを確信して、最低限の仕事をする者」と「昇格という最後の望みにかけて必死に働く者」だ。63歳で当本部所属6年目となる牧は、典型的な前者のタイプである。ここに来る前は、情報通信関係の研究所にいたが、部下が個人情報を企業に売っていたことが明るみになり、ウンコッティに飛ばされたという噂がある。
「まあ去年の資料もありますし、例年通りのプロジェクトでいいんじゃないですかね」
同じく前者で牧より2つ年下の才木由幸は早く会議を終わらせたいらしく、早々に締めようとする。小顔で首が長く神経質な性格から、キリンを彷彿させる。才木は医薬品の安全性を検査する研究所にいたのだが、神経質な性格が同僚に煙たがられ、牧の1年後にウンコッティに配属されたと聞いている。
「そうだね、それでいいよね」と同調しあう牧と才木を、内心呆れながら堂上は見ていた。彼らのようにわかりやすく仕事の手を抜くことはできず、かと言って真剣に仕事と向き合っているわけではない。堂上はまさに、混沌の中にいた。
「ちょっと待ってください! 自分、提案があるんですが」
ハツラツとした声で、ウンコッティの若手である所属1年目の志村純也が呼びかける。去年も一昨年も、ずっと前年のプロジェクトをそのまま引用している実情を知らない志村は、目をキラキラさせて矢継ぎ早に提案を出している。特に面構えがいいわけでも不細工なわけでもなく、日本人の平均的な男性の顔つきをしている。黒髪七三ヘアの、ザ・公務員といった風貌である。身長155㎝で、本人はあと20㎝伸ばしたいらしく、牛乳を毎日1ℓは飲むようにしているようだ。デスクに小さめの植木鉢を置いていて、毎日水やりに勤しんだり、育ってきた何かの葉に話しかけたりと、マイペースなのか、よく掴めないところがある。声質はとても滑らかで、聞いている人を癒しに誘う特質がある。一度志村の声を録音して目覚ましにしていた時期があったが、格段と目覚めがよくなりベッドでうつらうつらすることがなくなった。
彼の第一印象はウグイスだったが、性格がかなり挑戦的で、現実主義者が蔓延るここ日本に、彗星のごとく現れた革新派、といったところで、堂上フィルター上はキタキツネに上書きされた。北海道生まれで、他者と群れずに闊歩している姿からキタキツネの方がそのイメージにふさわしい。大卒4年目の異動で当本部に来ており、歴代配属者の平均年齢が55.3歳のウンコッティでは異例の人事だという。この職場の現実を知っている牧と才木は、お互いアイコンタクトをしながら、小馬鹿にしたような笑みを浮かべていた。
「若いって言うのはやっぱりいいねえ。志村君、まだ20代だったっけ?その年でここに所属ってことは、随分将来性があるってことだよ。…よし、決めた!今回のプロジェクトについては、君に全て一任しよう。そうだ、堂上君は補佐役ということで、頼んだよ」
満面の笑みでこちらを見てくる牧に、面倒なことを押し付けられたと堂上は一瞬で理解した。志村への称賛は嫌味に決まっている。面倒なことは全て部下に押し付けて、自分は来る日の定年に備えて冬眠にでも入るつもりか。
「堂上さんっ、迷惑お掛けすると思いますが、どうぞよろしくお願いします」
何も知らない志村は、直角90度ばりの鋭角なお辞儀をして、今にもプレゼンを始めそうな勢いだ。こうなったらもはや流れを止めることはできない。堂上は覚悟を決めた。
「志村ってさ、好きな動物園ってある?なるべく近場で、ナマケモノやキリンがいないところ」
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