第23話
まだ動けない彼の横に座って、私はいつものようにコーヒーを飲む。シロちゃんはもう寝静まったみたいだ。久しぶりに彼の起きた姿を見て、安心と、そして意識していなかった疲れ目がドッとぶり返してきたのだろう。
数日ぶりにすごく深い眠りについているようだ。
私もちょっと、安心したしね。
「…何だ」
「おや、起きてたんだ」
目を瞑ったまま彼は無愛想に言った。今は黒くないし、起きてもいたのにこれほどまでに気配が希薄なのは、生命力が著しく減少している証。
あの子にはあまり心配させないために大丈夫だと言っていたが、かなり危ない状態だったのは確かだ。勿論、これまでにもっと危篤状態だったことがあるのも本当なのだが…。今回の怪我でも、死んでしまう可能性は大いにあった。
そりゃそうだ。どれだけ鍛え上げていたとしても、背中や胸を強打してなお休まず戦い続けるなんてのは馬鹿のやることだ。ましてや内臓に強い衝撃が響いてるのになんて状態であれば、命の危険性は計り知れない。
「君は全く、無茶をしすぎだね」
「…そうか」
謝りもしないし、反省もしていない。私にかける心配はもう仕方ないものとして、これからも続けていくつもり。だから、そうか、の一言だけ。
「あの子にね、君のこと話したよ」
「…全てか?」
「ある程度を、簡潔に。あの子には知る権利が出来たでしょ?」
「…ああ。裏の世界の、おれのやり方を、おれの生き方を、おれから見せたからか」
ヒーローと三人で出て行き、そこで彼は尋問の様子を見せた。彼が強く言っていれば、シロちゃんを外に出させることは可能だっただろうに。
「シロちゃんが君に依存していく速度が割合早かった。だから君は、この世界で生きていくのは厳しいのだと、説得するのではなく考えさせようとしたんだよね。そうなると、先達の過去はどういったもので、どんな考えがあって生き抜く決意を固めていったのかを知る権利はあるでしょう?」
「別に、隠すほどの過去でもないから構わん。かつての、足が震えるだけだった弱い男の話だ。大切な人のために動くことすら出来なかった男の話だ。そして、怒りの吐きどころを誤ることになった、最低な男の話だからな」
彼は何でもないかのように言う。本当はめちゃくちゃ根に持って、気にしまくってるくせに。
それに、私はそんな風に思ったことはないけどな。考え方は人それぞれだと言うし、面倒だから否定もしないけれども、最後の結論部分に関してはひねくれすぎ。
「その話を聞いて、シロちゃんは泣いてたよ。感受性豊かだよね。何者かが如何にして狂ったか、その時の心情を深く読み取ったんだね。優しい子だ」
「…ああ。光のようにな」
おっと、これはめずらしい。こんなに他人を素直に褒めるとは。大体は、褒めるにしても皮肉混じりにしかしないのに。
最初こそ、気まぐれと仕方ないから始まったのかもしれない関係は、いつの間にか随分と気にかけるようになって、今では素直に褒めるまでに至った。
あの子限定ではあるかもしれないけれど、変わったなぁ。良い方向に。
「…君と会ってからもう長いね。懐かしいや」
「…そうだな」
かつての彼を思い出す。在り方は今とそう変わらない。だけどもっと、人間を信じていなかった。
「私はまだ見習い。君も素人。君がいっつも瀕死の状態で転がり込んでくるから、お父さん達いっつも慌ててたよ」
「…そうだったな。あの人達は、元気にしてるか?」
「まぁね。連絡はあまり無いけど、今も国を飛び回ってるよ。もう引っ張りだこだね」
「あの人達は、生かすも殺すも自在だからな…。規格外だ」
そう、私の両親は、私よりも医師としての腕が段違い。何故なら私の師匠でもあるからだ。それから、戦闘も普通に出来る。治し方を知っている事と、壊し方を知っている事はほぼ同義ということだ。
喧嘩すらまともにやったことがないのに裏の世界に初めて踏み入ってから、手当たり次第に倒していこうと考えていた彼だったが…喧嘩を吹っ掛ける前に襲われて殴られまくって即ボロボロ。命からがら逃げまくり。そんな時にたまたま私が通りがかった。何故か私までついでに標的にされたところで私の両親が追い返してくれた。舐められまくって武器を使われたりしなかったのが幸いだったから良かったものの…。私と出会っていなかったら、十年前に彼は殴殺されていただろう。
一応の治療を受けさせてもらった後は、私の父親に叩き出されていたが。
あれは少し笑った。
あんまりにもボッコボコの顔だったので見るに見かねた母が治療してやっていた。しかしお金も無ければ娘を危険に追いやったことに父が激昂してドアから外へ蹴り出した。全てが濁流のような異常な速度で場面が切り替わり、彼は終始混乱しっぱなしだった。
それから我流で生き延びる術を学ぼうと努力しながらまたボロボロになり、その度に私の両親の元へ訪れるようになった。理由を聞いてみたら、この世界に踏み入ろうとして初めて、そして彼の父親が死んでしまってから久しぶりに受けた無償の優しさだったから、とのことらしい。とか何とかそれっぽいこと言ってるけれど、まぁ、母は美人だからね。ほだされよってこやつめ。
あんまりにもしつこくくるし、来る度に足らないながらも何とか毎度の治療費を払おうとする姿に、ツケだぞと言って父も診てやっていた。
私が独り立ちするとなってからは、両親は国から国へ飛びまくりになってしまったが、両親がいなくなってからも彼は傷を負ったら必ずやってきた。
長い付き合いだ。
「別に父さん達程強くあれとは言わないし、私はもう見慣れちゃってるけれども、シロちゃんの前ではちゃんとかっこよくいなよー?」
「…そうだな」
「君、この三日間やばい顔してたからね。千年の恋も冷めるくらいの、それはもう衝撃的な顔してたよ。私は見慣れてるけどさ」
相変わらず目を閉じたままの彼を見つめて、私はぬるくなったコーヒーを飲み干した。
「…これからも、頼む」
「…はいはい。見ていてあげるよ。長生きしてね」
返事は無かった。
すーすー、と寝息が聞こえてくる。これは本当に寝てしまったな。勝手に意識を失ったのか、もう話はおしまいという事で自分から寝たのか、どちらだろう。
「悪い男に引っ掛かっちゃったなぁ…」
苦笑いしながら、私は彼の隣を立った。
○
以前とは違うボロアパート、その一室で、甚平を着た傷だらけの男とダボダボのTシャツだけを着た女の子。親子には見えず、兄妹にも見えない。
その二人が食べているのは、鯖缶と焼き鳥缶。
何とも異様な二人組。
「クロさん、まだそこまで動けませんよね。今日は何をするんですか?」
「何もしない。怪我が治るまではまだかかる」
無愛想に答える男の返答に、女の子はさして気にする様子は無さそうだ。慣れているのだろう。
沈黙も多く食事を続ける二人だが、取り巻く空気は非常に穏やかだった。賑やかにしているわけでもないのに、仲の深さを感じる。お互いに、居心地が良さそうに見えた。
「ヒーローは、何か言っていたか?」
「子ども達は、無事に救助されたようです。旅行の名目で院長の別荘に送られていたみたいですね。施設員の方がちゃんと子ども達の世話をしていてくれて、健康面精神面ともに問題はなかったと。子ども達は、各々、色んな施設に分かれて生活していくことになるそうです。ヒーロさんにはちゃんとお礼を言わせてもらいました。それにしても、良かったんですか?私が話して終わりで」
「ああ。ヒーローはおれのことが嫌いだろう。お前の方が冷静に話せる」
「そうでしょうか。孤児院の内状を知って、荒れた講堂を見て…私がその事について説明したら、随分と心配されてましたよ。まぁ確かに、また殺してたな!って怒ってもいましたけど」
その話を聞いて、男は顎に手をつき、面倒くさそうにため息をした。ヒーロさんの様子を想像出来たのだろう。
実際すごい怒ってた。ヒーローとしても怒っていたし、後クロさんとヒーロさんの戦いがどうしても納得いかず、リベンジしたい様子だったし。
「ちゃんと感謝もしていましたよ。子ども達が守られて良かった、と。あぁ、でも…今回ばかりは、孤児院の闇も暴いたし、傷だらけみたいだから見逃すけど、次もし会う事があったら捕まえるって言ってました」
「まさか本当にそんな甘い事を言うとはな。わかりやすいやつだ」
男の返答に、女の子は少し笑った。
男はその笑顔を見て、少しだけ切なげな眼を向ける。
…暖かな日差しが窓から差し込んで来ていた。
「…今ならまだ、表に戻れるぞ」
男の言葉に、女の子はすぐ返した。
「嫌です。クロさんについていきます」
女の子の強い口調に、男はもう何度目かの短いため息を吐くのみだ。だが、先程の会話のように面倒くさそうではないのは気のせいだろうか。
男は、話を続ける。
「おれについていくということが、どういう生活になるかわかっているのか」
男の口調に、語気に、様々な思いが詰められていることはもうわかっていた。
だけど女の子は、真っ直ぐに男を見つめ、優しく言う。
「はい。死なないように、強くなります」
かつてのようにオドオドとした態度でもなく、決意を込めた眼差しとともに贈られた回答。男は、もう否定するつもりも無くなっていた。突き放すことも出来るはずがない。
全てを分かった上で少女がそう決めたのならば、止めはしない。
「…何故、そこまで頑なになった。何が原因だ」
男は缶詰を食べ終えると、立ち上がり、シンクの中にガシャと置いた。
少女がそうすると決めた以上、かつて男が見せた『お仕事』は、結果的にけしかけたようなものに意味が変わってしまった。
連れ回し、仕事を見せ、過去を知ってもそう決めたのなら、拾って来た手前、最後まで責任を持たねばなるまい。
だからまぁ、せめて女の子が今後どういう人間になりたいかくらいかは知っておきたい。
「帰る場所は無くなって、やりたいことは…ありませんというよりか、私を助けてくれた人達に恩返しを。そして、憧れを持ちました」
女の子も缶詰を食べ終わり、男に続いてシンクの中に静かに置く。
そして女の子は男を上目遣いで見つめた。
捨てないでください…。
そんな想いを込められている気がして、男は嘆息する。傷だらけの勝利を掴み取って以来、ため息の量が非常に多くなった気がする。もはやため息で充満された部屋だ。
ただ、それがもはやポーズなだけであるのを男も女の子も理解していた。
かつての、否定する時に発していた刺々しさはもう無い。
「憧れるところが、どこにある。子ども達を救ったのはおれではない。あの日、お前を助け出した後も、数日間に及んで危険な場所に引き摺り回したようなものだ」
女の子はそんな返答を、耳に通して、そのまま反対側の耳へ通り抜けさせる。
「救われましたよ。少なくとも一人、私は救われました。…一度は恐ろしい人と思いもしました。でも、クロさんはいつだって、誰かの想いがあって初めて動くじゃないですか。例えその根本は、過去から続く怒りであっても。自分本位の、自分を満たす為であっても」
女の子は、そう語ってふわりとTシャツを翻す。
「私はあなたに救われた。世間では極悪人ですが、私にとってはちゃんとヒーローです。あなたの助けになりたいと願うには、あなたに憧れるには、十分すぎる理由なんです。私には」
誰かにだって聞いて欲しいというように謳う彼女。
男は、少しだけ困った顔をして。
「…何だそれは」
その後、少しだけ笑った。
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