第22話

 クロさんと大男の死闘を目の当たりにして、私は絶句していた。もはや最後、電気が消えた辺りからは何があったかわからない。わからないけれど、クロさんが勝利していた。

 クロさんが勝利したけれども、ホッとはしなかった。

 だって、人が戦車のように見えたのも初めてだし、脆くなった木製とはいえ、人が椅子を爆ぜながら吹っ飛んでいく様も初めて見たし、本当にボロボロになりながら戦うところを間近で見るのも初めてだった。

 勝った後の姿だって、輝かしいものでは無くて、どちらかと言うとドロドロでボロボロで恐怖を煽るものだった。

 まさに死闘。

 大男は見るも無惨な状態になっていて、一瞬見てからすぐ目を逸らしてしまった程だ。血の量が尋常じゃない。人間の中にはこんなにも血が詰まっていたのかと思った。

 その状況を見た院長は、酷く取り乱しながら叫び始めた。もうあの下劣な笑みは完全に消え去っていた。頼みの綱であった大男があの惨状となれば当然か。

「バカな!一撃で人を肉塊に変えるような怪物だぞ!負けるはずがない!」

「だが、おれが勝った。…これが現実だ」

 クロさんは、足を殆ど上げず、引き摺るようにして院長のところへ歩き出した。身体も左右に大きく揺れて、無理矢理歩いているようだった。ズズッと音を鳴らしながらゆっくりと進んで行く。気配が希薄なのは、いつものように消しているからではなく、その生命が危ぶまれているからだろう。しかし、どこか、やはりクロさんが倒されるような未来は想像出来ない。何度殺しても蘇ってくるような恐怖がそこにはあった。

 院長が怯えるのも無理はない。私だって全身が震え、身体が冷たいのに汗が噴き出る。

「嘘だ…。暗くなってから何があった!どんな卑怯な手を使った!」

「殺し合いに卑怯など無い。…おれは覆面をしているから、わからなかっただろうが…この講堂に入る前、お前に電気をつけられる前に、おれは片目を閉じていた。既に暗闇に慣れている眼を残しておいた。暗闇の中、おれだけが自由に動けるように、一応取っておいた手札だ」

 クロさんからの種明かしに、私も院長も合点がいった。

 暗闇の中、時間が経てば目は慣れて切り替えられ、ある程度見えるようになってくる。私とクロさんはともに暗い孤児院の廊下を歩き続けていた。暗闇に慣れた目を私達は持っていた。その状態を、クロさんは片目を瞑って維持していたのだ。一つの手札として。

 確かに、クロさんは電灯が点けられる前に院長達の気配に気付いているような素振りだった。私は気付けずに、考えることもなく院長が点けた明かりに両目を慣らしてしまったが、クロさんは違ったのだ。

 あれだけの攻防、一瞬でも気を抜いて目を開けてしまえば無駄になる一手。さらに、遠近感もある程度失われ、リスクの方が大きいかもしれないのに、いつかのリターンを考えてクロさんは片目を自ら封じた。

 もしかしたら使えるかもしれない、だから、やれることは全てやっておく。

 傷だらけになりながらも、クロさんは環境の全てを利用して勝利を掴んだ。

「くそっ…!こんなの、予定に…」

 慌てふためく院長にふらふらと近付いていくクロさん。院長は、まだ抵抗の意思を示すため、懐から拳銃を取り出した。

「近付くな!撃つぞ!今のお前なら避けようと動くことも出来まい!防ごうと何かすることも出来まい!味気ない終わりだが仕方ない!撃つぞ!撃つぞ!」

 院長は青ざめた顔で叫ぶ。手は震え、ズボンが小刻みに震えているのが見える。

 重い足取りのまま近付くクロさんと、絶叫する院長。

 今、間違いなく無傷な院長の方が有利なはずなのに、私にはボロボロのクロさんの方が優勢に見えた。

 それ程までに、クロさんは真っ直ぐ進むし、院長はしっかりと立つ事すら出来ていない。

「…馬鹿め。やるなら、警告無しだ」

 クロさんはそう言うと、横に何かを放り投げた。それはただの木の破片。

 何であんなのを投げたの?

 私も、多分院長もそう思った。

 そう、私と院長は木の破片に目を向けた。そして意味を考えた。

 私と院長は、戦闘の素人だ。

 動く物には、必ず目を向けてしまう。動物の習性。それは人間も同じだ。

 目線が外れた瞬間に、クロさんは一気に院長との距離を詰めた。すぐさま院長は照準をクロさんに定め直そうとしたけれど、無理だった。

 戦闘を人任せにしてきた者は、チープな罠にだって引っ掛かるし、間合いを詰められたら対処出来る訳も無し。

足の甲を踏み抜かれ、ぎゃっと叫んでいるうち、腹部に拳がめり込んだ。

 呻き、膝から崩れ落ちる。改めて銃を構え直す余裕なんて欠片も無い。吐きそうで吐けないというような、苦しそうな嗚咽を院長は繰り返していた。

 背中をさする気には全くなれないけれども。

「…どうした、もう笑わないのか?」

 クロさんは腹を抑えて四つん這いになる院長の背中を踏み付け、呆気なく動きを封じた。


 そこからは、クロさんのいつもの手順だった。

 殴りつけて子ども達の事を聞き出した。

 子ども達は、ある場所に送ったと言う。

 売り付ける奴らを選定し、子ども達を売って、お金を手に入れてから一旦どこかに雲隠れしようと考えていたらしい。

 自分のビジネスを邪魔したクロさんに、痛い目に合わせてやろうなどと考えていなければ、私達は一歩間に合わず、完全に出し抜かれていたことだろう。

 罵詈雑言を吐きながら、院長は後悔しているようだった。

 そのままクロさんは、院長の口が動かなくなるまで拳を振るい続けた。時折、倒れそうになりながらではあったが、激情が勝ったのだと思う。

 施設員の人達は全く関係の無いようで、この悪行に携わっていたのは院長と大男のみだった。院長の口振りでは、この業に関する収益は全て独り占めにしたかったという感じがあった。

 今まで地獄に向かわせた子ども達に特に感慨も無いのだろう。

 性根は腐り切っていた。

 院長以外の良い思い出、孤児院で過ごした全てが虚構ではなかったのは、私にとって少しの救いだった。

 院長がこの世から去るその前、残した遺言はこうだ。


 捻じ曲がった正義とも呼べないもので何が成せる。

 救える者など殆どいない。悪がほんの少し減ろうと世界は変わらない。

 その無意味な生き様に絶望して、いつか悲壮な死を迎えるがいい。

 お前に労いは無い。敬意も賞賛も与えられない。積もるのは呪いだけだ。

 暗い暗い底で待っている。


 負け犬の遠吠えとはこの事かと言いたくなるような捨て台詞だった。死ぬ間際、ただただ自分の命を奪う者に対して吐き出した悪口だ。最後のいたちっぺ。

 だけどクロさんは、その言葉に何の反論もしなかった。



 孤児院を後にしてから、クロさんは回り道などせずに真っ直ぐドクターのアパートに向かった。向かう途中、クロさんが何度も転けそうになるところを私が支えた。クロさんもかなり限界が近かったのか、私に支えられることを受け入れていた。

 アパートについて、ズカズカと部屋に入って行ったかと思うと、クロさんはドクターに何も言わずに電話を使い始めた。どこかに電話をかけて短く何かを話していたかと思うと、すぐにベッドに倒れてクロさんは意識を失った。

 急な来訪にも関わらず、ドクターはその様子をコーヒーを飲みながら眺めていた。

 何ならドクターは「黒い時なのに足音出すわ、ベッドに倒れ込むわ、意識無くすし寝息も立ててる。相当だったんだね。あっはっは」と爆笑していた。

 私としては全然笑えなくてハラハラしっぱなしだった。でも、ドクターの、彼が死ぬと思う?という質問には迷う事なく首を振れた。

 ドクターはクロさんの服を脱がして治療を始めた。治療をするドクターに、傷の箇所や状態を診察しやすいよう孤児院での出来事を説明すると、流石にドクターは苦笑いしていた。

「うわぁ。左腕はわかりやすく折れてるし、これ身体の内側相当痛めてるんじゃない?胸と背中が酷いの何の。ここまで歩いてきたどころか、戦って尋問したなんてアホの極みだね。脳内麻薬出てましたって言っても限度があるよ。ちょっとの間、まともな生活は無理だね」

 ドクターの言葉に、私は卒倒しかけた。クロさんは死なないと信じていても、そんな状態だと聞くとそれは心配。

 内側を痛めてるって、絶対大丈夫なわけがない。ドクターの話だと、普通に息をするのもしんどいし、痛みと不快さが一致団結大群となって押し寄せ、単純な痛みのみならず吐き気や頭痛が意識を飛ばすレベルで感じていたはずとのこと。それを激情が凌駕していたなんて信じられない。というか恐らくだが、ドクター曰く戦闘が終わってからは脳内麻薬も切れ始め、よろめいていたのは力が入らなかったのではなくて一瞬であれど毎回失神していたのではないかとのこと。しかし、失神した瞬間にまた気合いで覚醒して踏ん張るという人間離れの所業で保たせていたのだからもう、あり得ないとしか言い様が無い。

「クロさんがここまで傷付くのは、やっぱりなかなか無いことですか…?」

 服や覆面を外されて寝ているクロさんを眺めながら、私は呟いた。だって、いつも戦いが終わった後は毅然と立って、大きな背中を見せてくれていた。今日は見た事も無いくらいボロボロで、私が横から支えないとアパートまで辿り着けなかったと思う。

 今なんか白目剥いて寝てる。何なら口の端からよだれが垂れてる。顔の色んな部分がピクピク痙攣してるし。一見すると生きてるのかわからないくらい。でもドクターがたまに左腕とか触ったりすると身体がビクンと跳ねるので生きてるのがわかる。目覚まさないけど。

 正直めちゃくちゃ怖い。

 死ぬかもしれないとかいう不安的な意味ではなく、絵面が普通に怖い。ホラー映画に出てきそうな顔してる。いつものかっこいいクロさんとの差が激しすぎてやばい。

 心配そうに眺める私を、ドクターはまた一笑に伏した。

「まぁ、普通に重傷だよね。でもね、前に話したけど、彼は普通の生活から一転、こういう死線に飛び込んだ。重傷とか死にかけることなんていくらでもあったよ。昔っから私は診てあげてたしね〜。何なら一旦死んだこともあったよ。心臓止まったからAEDで叩き戻したね。あの時ばかりは私も焦ったよ。その割には本人、意識戻った後はたった一言、そうか、って言っただけだったけど。まぁ、強くなる前も、今みたいに強くなった後でも、無茶してるからね。私としては、ボロボロの方が良く見るよ」

 だっていうのに、いつも澄ましてかっこつけようとしてるの笑えるよね、とドクターは微笑んだ。

「全然、超人なんかじゃないんだ。必死に考えて、戦って、這ってでも前に進んでる。ただの人間が、悪を滅するなんて滑稽でしかないよね。この世から悪を消すなんて出来るわけないと本人も私もわかってる。何なら私達はそれを利用してご飯を食べているようなもんなんだし。でも、私はどうしても嫌いになれなくて、また戦えるように支援してしまう。私も、滑稽なお仲間だ」

 叶わないと知りながらも追いかける理想。

 たった一人が足掻いてもどうしようもない現実。

 歳でもとればここから色々学んで、色々考えて、深い思想に辿り着くのかもしれない。

 …でもまぁ、どうやら私も、滑稽なお仲間の一員みたいだ。



 クロさんは、三日間程意識を戻さなかった。三日経った昼頃、急にひょいと身体を起こした。

 最初に喋った言葉は「頭も腰も痛い」だった。

 寝過ぎたという意味だったらしい。

 頭や腰どころじゃない身体の損傷具合だった筈なのに、この一言には私も苦笑するしかなかった。ドクターは普通に笑っていた。

 笑う私達を見て、ふぅと息を吐いていた。クロさんなりの配慮があったのかもしれない。

 流石に立ち上がる事は無く、状態を少し起こした後には、やはり身体が動かないのかまたすぐ寝転がっていた。

 しかし聞きたい事があるらしく、寝転がったままで私は質問された。なので私もいくつか質問した。寝かしてあげるのが優しさだろうけれど、私もクロさんと話したかった。久しぶりにクロさんと会えた気がして、私は嬉しかった。

 また声を聞けることが嬉しかった。

「おれに来訪者はいたか」

「いいえ、いませんでした。連絡とかも無かったです。オーナーさんからの秘密の連絡に関してはわからないですけど…。このアパートに着いた時に電話した相手ですか?…バーに連絡した、とか?」

「いや、電話の相手はオーナーとは違う。…そうか、オーナーからも何の音沙汰も無しか。どうせ調べもついているだろう。それならそれで良い」

「そうですか。じゃあ、電話の相手は誰だったんですか?」

「ヒーローだ。以前縛った時に携帯の電話番号を見て、覚えておいた。電話で、孤児院の子ども達の場所だけ伝えておいた。詳細は伝えていないからどうなったかは知らないが、何かしら行動はしているだろうな」

「そうだったんですね…。てっきり、クロさんが目覚めたら行くのかと思ってました」

「動けなくなる事はわかっていた。何日も待たせられん。大体、おれが連れ出したとしてその後の生活はどうする。誰かを助け、寄り添えるのは『ヒーロー』だけだ。おれには、無理だ」

 私のことは助けてくれたけれど…。とはいえ、私の場合は予定外の救出だったし、負傷程度もかなりの衰弱状態だったから面倒見ざるを得なかった感じだろうか。

 私にとっては、とんでもない幸運だったと思えるけれど。

「ヒーロさん、助けに行ってくれたでしょうか」

「行くだろう。例え知らない番号からかかってきて、場所と、子ども達がいるという情報しか与えなかったとしても。ああいう類いは、人を助ける時とピンチの時には異常な勘が働く。そういうものだ」

「流石は『ヒーロー』ですね」

「ああ」

 クロさんは、自分は『ヒーロー』では無いとずっと言い続けている。私がそれを否定するつもりは無い。クロさん自身も、そう語りながら、どこか表情も声音も穏やかだった。

 自分はヒーローには成り得ないが、『ヒーロー』はこの世にいてくれる。

 そういう存在がいる事が、嬉しいようだった。

 ヒーロさんと激しく言い合いをした時、クロさんは何か感じるものがあったのだと思う。彼女はクロさんに自分の意見をぶつけ、その後、クロさんの叫びを聞いた時、頭ごなしに否定をせず、一度自分の中でしっかりと噛み締めていた。真っ直ぐに向き合って。

 自分の意見を持ちながら、他者の意見も大切にする。何者かを救うために必要なことだとわかっているから。

 そういう事が出来る人は、貴重だ。

 彼女には力もある。単純な力は勿論、周りを巻き込んで導いていく明るい力。

 様々な要因を鑑みて、クロさんはヒーロさんのことを認めたのだと思う。

 あるいは、対峙して会話して、単に感じるものがあっただけかもしれない。深い理由なんてなくて、そう、とっても大事な『何となく』ってやつだ。

「ヒーロさん、その異常な勘でここに来なかったのは…どうでしょう、幸いですか?」

「気付いていながら、来ていないという可能性が高い。おれは意識が朦朧としていたからな。非通知でかけるのを忘れていた。ここにいることを突き止めることは出来なくは無かっただろうに」

 クロさんの言葉に、ドクターがコーヒーを吹き出した。ドクターは「バカ!?迷惑かけないでよ!?捜査機関でも何でも来てたら面倒だったじゃない!」と怒鳴り出した。

 ドクター、警察さんと知り合いだったから、刑事さん?とかがヒーロさんを連れて来たんじゃなかったっけ…?

 クロさんも特に追及したりしない。クロさんは事情を知っているというところかな。

 …警察も、一枚岩では無いのかな?

 まあ、警察から追われているクロさんを匿っている時点で面倒事になるのは見えているからというのもあるかな。

 ちなみにクロさんはドクターのブチギレ具合を都合よく目を瞑って寝たフリをしていた。数秒間だけ。絶対誤魔化すの無理だと思う、それは。

 謎のフェイクの後、ぷんすか怒りながら床を拭き始めたドクターを無視してクロさんは話を続ける。

「人身売買と逃亡、それを阻止した。子ども達を保護して、あの孤児院に向かえば、どうせ全貌が見え始める。尋問の様子を録音したレコーダーを院長の死体に仕込んでおいた。世間に明かされるかどうかは別としてな。院長と大男の殺害に関してはどうせ許せないだの息巻いているだろうが、多くの子どもを救ったのは事実。勝手に借りだと解釈して、おれのことを今回は見逃してやろうやれやれとでも考えているのだろう。想像が付く。そういう展開が『ヒーロー』とやらは好きだからな」

「…どう思いますか?」

「馬鹿だな。叩ける時に全力で叩くべきだ。奇襲に初手で必殺技、これに限る」

 私はそれを聞いて笑ってしまった。

 自分がやられる話なのに、容赦の無いアドバイスをしている。ああ、クロさんがちゃんと帰ってきてくれたと実感出来た。

 机と床に口からばら撒いたコーヒーを拭き終わったドクターが凛としてこちらを見つめていた。

 白衣に点々と黒い染みが付いていた。でも美人だから一応はかっこいい。

「なんか、すごい馴染んだね。シロちゃん」

 ドクターはウィンクをしながら私に微笑んだ。

「ねぇ、シロちゃん。帰る場所が無くなっちゃったわけだけど、これからどうするの?」

 ドクターは妖しく笑いながら聞いてくる。

 その意図に、私は気付いた。だから私はクロさんに頭を下げて、懇請した。

「…クロさん。どうか私を、宜しくお願いします」

 その時のクロさんの眉間の皺の寄り具合と言ったら、ペンすら挟めそうな程だった。

 今回は、無理だ、駄目だと言わなかった。

 その代わり、少しの間私を見つめた後、またも目を瞑ってだんまりを決め込んだ。

 クロさん、その誤魔化し方は改めた方が良いと思う。一時的にでも逃げられないと思うなぁ。

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