第18話

 目が覚めると、私はドクターのアパートのベッドで寝ていた。

 いつの間にか意識を失っていたらしい。

「起きたね」

 ベッドの横にはドクターが座っていて、いつものようにコーヒーを飲んでいる。

 薬品に混じるコーヒーの香りに、私はどこか安堵する。

「クロさんや、ヒーロさんは…?」

「ヒーローは知らないけれど、まっくろくろすけなら出て行ってもらってるよ。色々整理したい情報があるって言ってたから、不戦の酒場にでもいるんじゃない?それより、シロちゃんは今日の出来事覚えてる?」

 そうか、クロさんは一人でバーに向かったんだ。これからのことを話すために言ってくれたのかな。

 心配そうに私の様子を窺うドクターに、私は微笑む。つもりだったけれど、なんだか頬が上手く動いてくれない。

 笑顔を作ろうとするけれど、頬が痙攣して動かしにくい。心が拒否しているかのように、思い通りに笑うことが出来なかった。

「大丈夫、ですよ」

「なんて顔させちゃってんのかしらね…」

 ドクターは、私の頬をむにっと掴んでマッサージした。

 痛気持ち良い。

 ドクターの手はあたたかくて、安らぐ。

「一応、彼からどういう状況だったかは聞いてるよ。怖い思いと、嫌な思いをしたかな。彼とヒーローが言い合いをしたのは覚えてる?」

「はい。それで、クロさんとヒーロさんが戦ったのも覚えています」

 私の返答に、ドクターは少し苦笑した。

 詳しく聞こうかどうかを迷い、探りを入れている感じだ。

「あー、そっちじゃなくて…。そうだな、彼が『お仕事』し始めたのは、どう?」

「…覚えています。大丈夫ですよ、ドクター。クロさんとヒーロさんが、その後言い合いした事も覚えてます。クロさんのあんな声、初めて聞きました。でも、その辺りから記憶は朧げになってきて、クロさんの背中に乗っかったのは覚えているんですけれど…。帰る途中で、寝ちゃったみたいですね」

「…そっか。多分、シロちゃんの心に相当な負荷がかかってしまったから、脳が意識を遮断し始めたんだと思う。シロちゃんの身体はちゃんと健康なんだよ」

「そうですか、良かったです」

 私は笑ってみせたはずなんだけど、ドクターはとても悲しそうな表情をしていた。

「身体はね。本来なら、シロちゃんの事を考えたら絶対あり得ないの。『お仕事』を見せるなんてね。それは、シロちゃんが壊れた原因なんだから。だけど、そうだな…。私の推測でよければ、ちょっと聞いて欲しい。今回のシロちゃんが見せられた事は、彼のわがままでしかないんだけれど、彼なりの賭けと…願いだったんだと思うの」

 優しく見つめてくるドクターに、私は姿勢を正す。先を促すように。

 ドクターも、その様子を見て話を続けた。


 シロちゃんはさ、普通に生活していて、突然に地獄に落とされた。実は、彼もそうなの。勿論、状況も理由も全然違うけれどね。

 彼はね、裕福なある名家に生まれた。

 幸せな家庭で成長していったけれど、小さい頃に母親を病気で亡くしてしまったらしいの。その後は、父親が大切に育ててくれたらしいよ。

 悲しみに暮れることもあったけれど、息子のことを思えばそうも言ってはいられない。すごいよね。再婚もせずに働いて、家事もやって、仕事が終わったらすぐに帰ってきて…朝から晩まで、息子のため。全ての愛情を彼に注いで、大切に育てられた。

 そして彼は、ついに成人になった。

 それでも父親は優しくて、恩返しがままならなかったみたい。色々と返そうにも、それ以上の親愛で返される。本当に仲の良い父子だったみたいね。

 ある日、父親のために食事を奢ってあげたそうなの。定期的とも言えるくらいにやっていたそうね。父親はいつも、奢られる時は泣いて喜んでお酒を飲むらしいよ。他愛のない話なのに馬鹿みたいに笑って、何気ないことなのに涙を見せる。母親の事もあったからか、お互いに、ほんの少しの日常的な幸せをいつも大事にしていた。

 帰り道、突然の雨が降って、傘が無いなんて二人で笑いながら帰っていたら、ナイフを持った一人の男がお金を要求してきた。馬鹿な事はよせと言っていると、相手はだんだん気違いみたいに暴れ出した。叫び声を上げながら、目を血走らせ、距離はどんどん近くなる。

 父親は、息子を守るように相手から引き離そうとしたり必死に抵抗したそうよ。でも結局、ナイフで身体を何度も刺され、最終的に逃走。

 その時、彼は何も動けなかったんだって。

 ただ涙を流す息子を安心させる為に、父親は血を流しながら、最期の最後まで優しかったんだって。

 最も彼を愛してくれて、彼も愛していた唯一の家族を失った。

 何も悪い事はしていなかったのに、突然の理不尽で彼は大切な人を失った。

 名家の当主が殺され、幼き頃に母を失っている悲運の一人息子。ネタとしては十分。彼は世間に注目された。優しい言葉も面白がる言葉も聞かされる中、何と犯人が捕まった。

 犯人は、彼の父親だけではなく他に何人かにも手を出していたそう。粗暴な犯行を繰り返していたから、足がついたみたいね。

 判決は、無期懲役。

 相手は、泣きながら反省していると言っていた。

 裁判の時、相手に向かって彼はある質問をした。

『あなたが傷付けた人の名前を、覚えていますか』

 相手が名前を答えたら、遺された者として殴ってやろうと思っていたそうよ。裁判所で、絶対殴れるわけないけどね。

 だけど、相手は数人は答えられたけど、数人は答えられなかった。答えられなかった中に、彼の父親はいた。

 反省をしているなんて、嘘もいいところだった。本当に謝らなければならない相手が誰かもわからない、忘れてしまっているくらいだというのに、何に反省して何に対して謝り、何に対して償うというの?

 抑えられない怒りが湧いて、無期懲役だろうが死刑だろうが受け入れられなかった。存分に痛みを与えて自分が殺してやると一歩踏み出したところで、逆に自分が取り押さえられたらしいよ。

 自分が取り押さえられて、床に突っ伏す中、相手は守られるように離されたらしい。

 その時、彼の心は完全に壊れて、真っ黒に染まっていった。湧き上がる怒りをどこにぶつければいいのかわからない。

 やりたいことをやって、他人の人生を奪い、人生を壊し、誰かを傷付けたことを反省もせずにのうのうと生きていく。

 周りの人は可哀想なんて言いながら、結局は他人事だから、一時の話のネタにすればもうおしまい。

 世界は変わらず廻る。

 彼は愛情を奪い取られ、与えられた憎しみだけが残った。

 そこから、悪を許せずに、堕ちて、堕ちて、裏の世界にまで堕ちた。

 普通の世界で平和に生きてきた青年が、長い年月を経て、憎悪のみで血の滲む強さを得た。

 何も変わらないと知りながら、湧き出る怒りをぶつける捌け口を探した。世界への、社会への、ほんの少しの抵抗を始めた。

 彼は、自ら地獄を歩む事に決めたんだ。


「シロちゃんとは随分違うけどね。彼は、直視して欲しかったんだと思う。突然認められない地獄に堕とされて、そこから黒い方に進むとどうなるか。その姿を見た上で、シロちゃんの未来を選んで欲しかったんだと思う。シロちゃんのいた孤児院が発端だった事はもう聞いたよね。あの事を知った瞬間、彼はきっと、自分の進んだ道を教えておくべきだと考えたんだと思う。世界を恨む事を、彼はきっと止めない。神様を憎み続ける事を、彼はきっとわかってくれる。だけど、その道はどこまで進んでも幸せを掴むことはない。…彼がそうだから」

 私は、話を聞いていて、口にしょっぱさを感じた。頬が濡れていた。視界もぼやけていた。

 胸の奥が、苦しかった。

「シロちゃんはまだ、もしかしたら幸せに出会えるかもしれない。その可能性がある道は、まず間違いなく憎悪の道じゃないから」

 ドクターは話を終えたというように、もう湯気の立っていないコーヒーに口を付けた。

 しばらくの間、私もドクターも口を開かなかった。

 嗚咽混じりに、私は一つ、ドクターに質問した。

「それでも、ドクターはクロさんと私が一緒にいた方が良いと、勘が告げたんですよね。それは、どうしてですか?」

 ドクターは、コーヒーを机に置いて、優しく微笑んだ。

「ごめんね。私は、君も好きだけど、彼も嫌いじゃないんだよ。付き合いの長さで言ったら、遥かに彼の方が、ね。『もしかしたら』彼が憎悪以外の道を歩み始めるきっかけになるかもしれない、そう思ったんだ。彼が、君の未来を想って動いた。絶望から生還して、シロちゃんはそこから立ち上がれるかもしれない可能性を見せてくれた。普通なら壊れる心でありながら、シロちゃんは他人の優しさを感じ取って、前を向いた。その姿は、それは、一つのきっかけになると思った。彼が憎悪以外の感情を思い出して、消えないように抱くきっかけ」

 そのドクターの微笑みは、今まで見た中で一番美しいと思った。大切な誰かを想う、最上の微笑みだ。

 私は、色々考えて、涙を拭いた。

「ドクター、私、大丈夫です。クロさんのことも任せてください。私は、私には、優しい人達がたくさんいることを知ってますから」

 私は事ある毎に、ドクターの言葉を借りて、クロさんの弟子にしてくれないかと言っていた。

 あまりにも軽率な発言だったと反省する。

 クロさんの過去と、血の滲むとまとめられた詳細を考えれば、クロさんが私を弟子になんて、二つ返事に出来るわけなかったんだ。

 私が孤児院の真実を知って裏に生き、私が弟子になるという事はどういう事なのか、折角の機会だからそれを目の前で見せる事にした。私の心が壊れないことに賭けて。

 やっぱりクロさんは、私の中では優しい人だ。

 今度は、私がクロさんの力になりたい。

 ドクターの勘に乗っかるのは、悪くない賭けなんじゃないかと思っている。

 私に出来る事は未だに定かではないけれど、私を救ってくれた人達に恩を返さないまま生きることは、間違っている気がする。

「ドクターの願いのためにも、クロさんのこれからのためにも、私に出来る事があるかもしれないなら頑張りたいです。迷惑をかけるとは思いますけれど…私のやりたいことが、見えてきた気がします」

 私の言葉に、ドクターは少しだけ微笑んでいた。

 大袈裟な身振りなんてなくても、本当に嬉しそうにしているのが見てわかった。

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