第17話
「お前達に聞きたいのは、一つだ。人身売買を小人数で長らく続けられている理由…支援者、もしくは協力者がいるな」
始まった尋問の時間。最初の質問はこれだった。
誰がしたのか、固唾を飲み込む音が聞こえた。
静かにしていた男が、クロさんの問いにボソッと「オレは知らない」と答えた。
「…お前は、雇われか」
「そうだ。人身売買を主にしていたのはうるさいそいつと、話を聞いてりゃお前が殺した三人の内の二人だ。人身売買の現場に行く事は数多くあったが、こいつらは詳しい事は教えてくれねぇんだよ」
その言葉を吐いた瞬間、クロさんは男の鳩尾を右手拳で殴る。殴られた男は、大量の吐瀉物を吐き出して、涙を滲ませた。
酸っぱいにおいを漂わせ、短く何度も、ハッハッと息をする。男の目に溜まった涙はぽたりと落ちて、床の砂埃に染みて消えた。
「人身売買の現場に行く事は数多く、か。金はどれほど受け取った」
「う…えっ…!す、少ない…!少なかった…!」
クロさんは今度は顔面を殴りつける。血飛沫が隣の男にまでかかる。隣の叫んでいた男はその惨状を見て、声を上げることをいつの間にかやめてしまっていた。
「少ない金で、売られる人間を見ていただけか」
「違う!嘘だぁ!げぇあっ、文句無い量をもらってた!」
口から血と胃液が混じったものを垂れ流しながら、必死に叫んでいた。文句の無い量というのが咄嗟についた嘘かどうかはわからない。わからないけれど、そんなことはクロさんにとってはどうでもいいことのようだった。
クロさんの望む答えなんてもう、きっとないんだろう。
クロさんはまた男の鳩尾を殴り、次いで顔面を殴る。
「文句の無い、人の値段か。面白い」
クロさんが拳を振り上げるたび、血潮が飛び散る。私はその様子を呆然と見ていた。隣に座るヒーロさんも同様だった。
私は、クロさんの事を何も知らなかったんだ。
少し話しただけで、その人のことがわかるはずなんてない。優しさの奥に隠された怖さが、ここまで冷酷なようで激しいものだと、知らなかった。
もう声も出せなくなった男が、縋る視線をクロさんに向ける。クロさんはその視線を受けて、不思議そうに首を傾げた。
「お前は、どう答えた?」
男は、諦めるように項垂れた。
項垂れた首を、クロさんは上から殴り、へし折った。普通の人生で聞くことのない、最悪の音が部屋に響いた。
返り血が滴る指で、隣の男を差す。男は震えて、先程までの大きな叫び声とは別に、もう掠れた息しか出ていなかった。
恐怖が、男の精神を蝕んでいく。
「さぁ、お前の番だ」
クロさんが隣の男の椅子の前に移動する。
「…先程の金的は、痛かったか?」
男はコクコクと何度も頷いた。何かを喋ろうとしても、震えて上手く喋れないようだった。
「ある娘を、おれは少し前に標的の家で助けた。その後すぐに、その娘を狙って刺客が来た。最初は、娘を助けられたことによって大きな人身売買組織が面倒事を避ける為に軽く連れ戻しにきただけかと考えていたが、調べてみれば、たった三人+αの小さなグループだ。さらに、そのグループが扱うのは、かなり若い少年少女ばかりだった。だからおれは、もっと深く、細かい理由があるのかと考えた。例えば、ある孤児院と協力関係を組み、連れ去りやすいように段取りを組み、普段からお前達が比較的安全に高値で取引をしている、とかな。娘から取引先が発覚する事を恐れ、お前達は娘を、出来れば取り返し、どこまでバレたか調べたかった。最悪でも、殺すくらいはしたかった」
クロさんはそこまで喋ると、どうだ?と聞くように男の顔を覗き込んだ。
少しの間、返答を待っていたが、男は震えて喋り出さない。
「声が出ないか?」
クロさんはそう言うと、男の股間部分を握った。先程、クロさんは金的とか言っていたから、多分…
「い、いだいいたいぃ!やめてくれ!潰れてるかもしんないんだぞ!?」
相当、痛いと思う。
「出るじゃないか」
そう言うと、クロさんは手を離した。
男は堰を切ったように喋り出した。その形相は痛々しく、普通ならば手を緩める程だ。
「そ、そうだ!おれ達は基本的に、ある孤児院からガキ共を貰ってくる!貰い方は様々だ!養子として迎えるように貰い受ければ、孤児院を出ようとしたところを段取り付けて誘拐する事もある!その後は色んなやつに売りつける!今回は、お得意先に売った矢先にお前に邪魔されて、腹立ったのと孤児院側がいちゃもんつけてきたのと他の売り付け先も渋る可能性が出てきそうだったから連れ戻すか殺すか考えてた!オマケに上手くお前を出し抜ければおれたちの名が上がる!」
男は、ハァハァと荒い息を吐きながら、全てを絞り出すように声を上げた。
「…そうか。その、孤児院の名は?」
「救護の地(くごのち)孤児院だ!」
男の言葉に、私は頭が真っ白になった。
私の人生の中、これまで何度聞いたかわからない、大切な場所の名前が、聞こえた気がする。
「そうか」
グチャッ。
劈く悲鳴と肉が叩かれる音。液体が混じっててより不快に聞こえる。
何が起きてるかはもう見なくてもわかる。不快な音は幾度と続いた。液体の音が次第に割合を増していく。やがて、男の声は段々と小さくなり、最後はとても静かになった。
最初は感じていた埃臭さは、いつの間にか鉄のような、多分これが血生臭いってやつなんだろう、その臭いに変わっていって、今はもう、わからない。
私は膝を抱えて丸まった。動かすつもりは無いけれど、勝手に身体がゆらゆら揺れる。
何だかとても、嫌になった。
○
もう動かなくなった二つの塊から離れ、真っ黒な男は二人の少女の前に立った。
「…帰るぞ」
真っ黒な男は、膝を抱えて丸まっている狐面の少女に声を掛けたが、返事は無かった。
「当たり前だ」
その隣、結束バンドで手を縛られている少女が喋り出す。その視線は汚物を見るようなもの。その声は冷淡に罵るためのもの。出会った頃の温かさは完全に消え去っていた。
「こんな惨状を見せられて、まともでいられるはずがない。あんたがやったのは、正義でも何でも無い。人を痛ぶりたいだけの、最低な行為だ」
手を縛られて、まともに抵抗する事など出来そうもないのに、それでも少女は怖けずに毅然な態度を貫いた。
その言葉に、真っ黒な男は静かに息を吐く。その息は、少しだけ震え始めていた。
「…そうだ。おれの行為は、正義なんて眩しいものではない。おれに、振りかざせる正義など無い」
「そうだろうな!あんたは極悪人なんてもんじゃない、異常者だ!怒りに任せて殴り殺すなんて、どうかしてる!」
真っ黒な男の手から、ギチっと音が鳴った。革手袋から、染み込んでいた赤黒い液体がポタポタと落ちる。
「では、正しい方法とは何だ?」
真っ黒な男の声は震えていた。それは、問い詰められて震えているのではない。低い低い声音には、怒りが混じり始めていた。抑えきれない怒りが少しずつ溢れ出す。
真っ黒な男の問い掛けに、彼女は真っ直ぐな目線を添えて答えた。それが正しいものであると底から信じているから。それは信じられるべきものであると感じているのだ。
「それは、法の裁きだ、相応の。凶悪な犯罪を行う者に、反省を促す為に何年も牢獄にいれる。賠償を求める。もしくは、死刑による断罪。ボク達が、犯罪者と同様に暴力で訴えるなんて間違いだ」
真っ黒な男は、その言葉を聞いて、深く、深く、息を吐いた。
彼女の主張と意見は、この社会で当然の、ルールとして定められているものだった。
だけど、だからこそ、この男は壊れてしまったんだ。
「想像しろ」
「えっ?」
「想像しろ!本来体を巡る筈だった熱い血が出ていく!雨が遠くへと流していく!傷口は焼けるように痛むのに、体は冷たくなる!横で涙を流す者は願うのだ!逝かないで、と!だから去る者は微笑むのだ!心配するな、と!こいつらクズ共が奪っていくのは一人の命だけじゃない!その一人に関わる者の人生、その先の未来もだ!」
真っ黒な男の突然の、叫びにも近いその大声に、それまで一方的に喋っていた少女は唖然とした。
ほんの少ししか一緒にはいなかった。それでも、常に冷静沈着なイメージを持っていた。荒れた感情が中にあろうとも、こんな風に、本当に思いのまま、感情のままに叫ぶとは思わなかった。
そして、真っ黒な男の想いは止まらない。
溢れ出した、心の中にずっと溜まり続けていた想いを少年のように吐き出した。
「自分の下らない感情で他人の人生を奪い、そこに対した考えなど無い!金が欲しい、人の苦しむ姿が見たい、クソみたいな奴らのクソみたいな考えの押し付けで人生を終わらされ、その人生に深く関わる人間は、死ぬまで自問を続けるのだ!何か出来なかったのか、何故こうなってしまったのか、あの人にはまだ未来があった、あの人のこれまでは何だったのか、自答すら出来ない問いが頭から離れない!残された者はそのようにして生き続けるのに、反省を促す為に牢獄に入って臭い飯でも食って働いておけだと!?普通に生きていた人が唐突に襲われ、襲われている間、死ぬその時まで身を裂かれる痛みを永遠に感じる程に存分に味合わされておきながら、クズが一生を終える時は首が締まって終わりだと!?首が折れたら、意識が早々に途切れたら、奴らはただ死を即座に享受するのみだ!認められるか!?」
真っ黒な男の主張に、少女は反論出来ない。
反論出来ないのは、反論出来る理由が無いからではない。そんなものは、もう幾度となく議論され続けている。私怨と私刑による断罪を認めてしまえば、社会というのは成り立たない。だから、獣のように、怒りのままに、殴り殺すことは認められない。
痛みと恐怖を極限まで与えて死に向かわせるのが正しいなんて事はない。そこまでやる法治で保たれる平和はきっと、歪だ。
だけど、彼の主張はあまりにも、歪んでいたが、真っ直ぐだった。
真っ黒な男は、興奮を抑えるように手で顔を覆い、何度か深く息をする。そうして、彼の本当の姿は、鳴りを潜めた。目立たないように、出てこないように、また心の奥底に戻っていってもらった。
彼を突き動かしているものは、間違いなくアレだった。
だけどアレに全てを任せてしまっては、きっと自分は今以上に、終わる。
だから、隠し続けて、こぼれ落ちたものだけで動いてきた。
…こぼれ落ちたものだけでも、彼はここまで狂ってしまったが。
「…少し経てば警察がここに来るよう手配してやる。足は縛ってないのだから、追ってくるなら勝手にしろ」
そう言うと、真っ黒な男は狐面の少女を強引に立たせ、背負った。狐面の少女は、随分前から何かうわ言のようにぶつぶつ呟いている。狐面の端から、少しだけ水滴が煌めいた。
真っ黒な男と狐面の少女はそのまま、外に消えた。
結束バンドに縛られた少女は、俯いたまま、足を投げ出してじっとしていた。
認められることではないが、少し考えてみると、彼の言ったことには…同情出来る。
少女にはまだないことだった。親密な人を亡くすという不幸は、まだ訪れてはいなかった。理不尽に取り上げられることは、まだなかった。
もし自分が彼と同じ目に遭っていたのなら、自分はどうだろうか。
血のにおいに慣れた鼻、そこに新しく雨のにおいが届く。天気が崩れ始めたのだろう。
「くそっ…」
声が、虚しく響いた。
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