ナルシスの変貌(1937)

 天も地もない真っ白な空間に、一本のベルトコンベアに乗せられて、人々は一列になって運ばれていく。彼らは体こそ据え付けられたように横たえているが、口うるさくおしゃべりが止まらない。

 年の頃は五十代くらいだろうか、短髪を明るい紫色に染めたご婦人は、隣で目を瞑っている女性をしげしげと眺め、ついには堰を切ったように喋りはじめた。

「私、あなた知ってるわ! しょっちゅうテレビに出てたでしょう!」

「ええ、まあ。」

 女性はぼそりと言った。その声はどこか名誉に染まったことのある人間の響きをしていた。三十代後半といったところのその女性、Aは後ろで一本の三つ編みにした髪を前に持ってきて、抱くようにして腕を組み、じっとしている。体つきは痩せてもおらず、太ってもいない。

 彼らはみな、少しずつ進むベルトコンベアの上、審判者の前に出る機会が近づいてくるのをじっと待っているのだった。


「でも、あなた。転生するつもりなの? あんなことをしでかしておいて。本当なの? あなた、コーチと不倫してたっていうじゃない! 私はそんなこと、したことないわ! 私の一番の悪事といえば、押しピンで賃貸の壁に穴を開けたことくらいよ」

「余計なお世話だわ」

 Aは向こうにプイと顔をそむけた。

「本当なのね? 許されないわよ。まあ、あなたの『千里馬走る』はなかなか良かったけどね。それでも、もっと大事なことがあるというものよ。どうしてわからないのかしら」

 ここでも断罪されるのか、とAはうんざりした気持ちでいた。


 Aはある高名な一家に生まれ、幼少からその才能を発揮してきた。過大なプレッシャーをかけられ、一番になっても決して満足しない親を持ち、それでもそんな教えを信じた。

 コーチが既婚だったのは本当だ。しかし、第一線で活躍した彼の誘いを断るなどどいう選択肢を、彼女は持ち合わせていなかった。

 やがてただれた関係は世間の目にさらされ、Aはコーチも人気も失った。簡単な女だと思われて誘いも後を立たなかったが、腹立ちまぎれにどんな男を相手にしても、あの拍手喝采を受けたあの喜びの前では霞んでしまう。


(あたしはまた、あの喝采を受けてみせる。今度は間違えないわ)


 やがてAは転生し、A’となった。前世の記憶は全て失っても、歌への情熱は消えなかった。

 二〇二四年五月十日の日本で、中学生になったばかりのA’は動画投稿サイトで、Aの歌唱を目にした。稲妻が走るという表現はまさにこのことだ。A’が投稿し始めたきっかけはここにある。


「千里馬の気性を世界中に轟かそう。

さあ行こう、早く行こう、千里馬に乗って」


おしまい!

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