第19話

 美鈴の頭の左側に立った雷人は、瞼を閉じている恋人の顔を覗き込んだ。

 入院患者が着る様な、上下が一体化している、薄い灰色の服を着せられている。


「美鈴……」


 恵の言葉通り、つややかだった黒髪は銀髪になっていた。


 金属感のある肌と、微かに呼吸している以外に動きはない。美鈴を精巧に模した人形が、布団の上で寝かされているだけなのではと雷人は思ってしまう。


「美鈴。俺の、俺の声が聞こえるか?美鈴っ」


 大声で語り掛けるのは憚られるため、感情的になりつつも、雷人は声量を落として呼び掛けた。

 だが、美鈴に反応は無かった。

 諦めずに何度も繰り返したが、結果は変わらない。


「……手を握るのは駄目なのですか?」


 呼び掛けが駄目なら、次は手を握ってやる。声掛けを諦めた雷人は、言葉と目線で恵に訴えた。


「手を握るのは問題無いわ」


 感情を押し殺しながら恵は答える。

 雷人も事前に聞かされていたからこそ、絶望に飲み込まれる手前で何とか踏み止まれていた。

 美鈴の右手のひらに、雷人は右手で触れる。

 金属質な肌をしている事から、冷たい印象を抱いていた美鈴の手からは、意外にも温もりが伝わってくる。


 金属的な肌の質感は、照明の当たり具合か何かでそう見えるだけであって、本当は人間のままではないのか?

 現実逃避に近い考えが浮かぶ。


 肌の金属的な光沢から、想像が難しい体温を感じた雷人は、美鈴が人間である事への一縷いちるの望みを抱いた。

 しかし、右手を握ろうと思ったところでその異常な重みに気がついた。

 美鈴の右手首から先が持ち上がらない。


 石が満載のバケツを持ち上げる。それくらいの力を加えたところで、美鈴の右手がわずかに持ち上がった。

 人間のものとは思えない重量を前に、雷人の願望は簡単に押し潰された。


「そんな……」

「布団に寝かされているのは、病院の組立式の寝台では、今の美鈴を支えられないからよ」


 雷人の行動を見ていた恵が説明する。


「今の美鈴の体重は、一トンと六十三キロもあるの……」

「……」


 竜の肉を食べた事で、体重が百四十キロになった雷人の七倍以上も美鈴は重い。

 言うまでもなく、人間の体重の数字では無い。

 美鈴もまた、今までの生活に戻れなくなってしまった。

 その事実に雷人の心も重く沈んでいく。


「魔法で融合したのなら、分離するのも出来ないのですか?」

「……無理よ」


 雷人の問いに恵は、頭を左右に振りながら答える。


「残念だけど、完全に融合魔法で融合させてしまった物を、元の二つに完璧に分離させる事は出来ない……今後は可能になるかもしれないけど」


 恵の最後の言葉は、気休めにしか思えなかった。


 水と油みたいに、液体同士ならまだ手の打ちようはあるだろう。

 だが、固体同士が完全に融合したのを完璧に仕分け、寸分の狂いなく元通りに再構築させる。

 混ぜ合わせた絵の具を、それぞれ元の色に戻す事すら不可能なのだ。とても人間の手で成せるとは思えない。


(ここまで来たらもう、受け入れるしかないという事か……)


 雷人は左手で、美鈴の右頬に優しく触れる。せめて恵との約束は果たそう。そう思った雷人は口を開く。


「良く頑張ったな、美鈴……話は恵さんから聞いたぞ。生きてくれているだけで俺は嬉しい」


 心が美鈴であるのを前提に雷人は、再び美鈴に語り掛ける。

 こみ上げる感情は様々あるけれど、雷人は一つを残して全てを飲み込んだ。


 雷人は美鈴に、一ヶ月以上もお預けをくらっていた口づけをする。

 その直後、翔一郎が研究者と思しき白衣を着た男女二人と部屋に入って来たが、今更慌てて顔を離す気は無かった。

 ゆっくりと雷人は顔を上げる。


 研究者の男女は気まずさで一杯の顔をしているが、雷人と美鈴の関係と今までの事情を知っている翔一郎と恵は、沈痛な表情を浮かべている。

 今この時だけは、雷人のやりたい様にさせてやろう。そんな親心に似た思いが、それぞれの表情から垣間見えた。


「少尉。一つ頼み事があるのですが」

「……取り敢えず言ってみて」


 恵は腕組みをし、努めて無表情を保とうとしてはいるものの、申し訳無さを隠し切れない口調で言った。


「俺にも、この部屋の扉を解錠出来る様にしてほしいのですが。もちろん無理なら諦めます」

「……諦めるんだ。人目を憚らずに、美鈴に口づけまでする雷人が、美鈴に会いに来るのを諦める?出来るの?」


 美鈴を大事にしたい心に蓋をするな。

 徴発するような恵の台詞は、明らかに意図的だった。


「あー……すいません。無理です。出来ません」

「そうそう。出来ない事は素直に出来ないって言わないと。痛い目を見るわよ」

「肝に命じます」


「取り敢えず上に掛け合ってみるわ。もし駄目だったとしても、会いたくなったらいつでも私に言いなさい。予定が空いていれば、いつでも連れて行くから」

「ありがとうございます……それと」


 恵に謝意を告げてから雷人は、未だ面食らったままの二人の研究者に向き直る。


「美鈴の事、宜しくお願いします」


 帽子を被っていない雷人は、二人にお辞儀している様な、十度の敬礼をする。


「え、ええ。もちろん出来る限りの事はします……こんな事しか言えなくて申し訳ありませんが」


 雷人と美鈴の関係性に気がついたと思しき、男の研究者が雷人に言った。


「お願いします……また来るからな美鈴。昔みたいに、どうでもいい話をしによ」

「……もう良いのか?」


 美鈴に声掛けした雷人に、横から翔一郎が訊ねる。


「はい。次もある事が分かりましたから。今はこれで充分です」


 内心は未練たらたらだが、ここに住むわけにもいかない。

 恋人を寂しげな笑顔で見つめた雷人が、出入り口に向かって歩き出した時だった。


「行か、ないで……雷人」

「!?」


 誰よりも素早く雷人は、待ち望んだ声が聞こえた方へ振り返る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る