第9話

「腹が減った……」


 遭難してから三週間が経過した。

 本格的な雪山となる前に、山岳地帯を越えた。地図が無い中で、二週間かけて山脈を踏破した体も、重い疲労感以外に異常は無い。


 ほのかに雪化粧している山並みを振り返って雷人は、一先ず心の底から安堵した。

 しかし、まだ前半が終わったに過ぎない事を空腹が告げている。


「ここからが後半戦の始まりだ……」


 雷人は改めて気を引き締める。

 山岳地帯は野生動物の宝庫だった。

 狩りの素人である雷人でも、鹿と猪を一頭ずつ仕留める事が出来た。


 山では大規模な戦闘が起きにくい。だから野生動物たちは、平野に人間がいないにも関わらず、山から降りようとしないのだろう。

 雷人はそう推測していた。


 だが、ここから先は、地球外生命体が跋扈ばっこする平野となる。

 雷人の推測通りならこの先は、野生動物と遭遇する事が難しいはず。

 行軍の後半はそれだけで、前半よりも難易度が跳ね上がる。

 なので少しくらいの空腹で、背嚢に詰め込んだ燻製肉と、持てる分だけ解体した赤雷竜の肉に手はつけられない。


 食料が豊富な山に籠もるにしても、これから本格的な冬を迎える。弾にも限りがある上に、雪崩に低温など。碌な装備や知識が無い状態での、山での越冬は自殺行為そのもの。

 前に進むしか選択肢は無かった。


 水の分だけ荷物を軽くするのと、少しでも身を隠しながら移動する。川魚も捕る事が出来るかもしれない。

三つの意味で雷人は、多少遠回りしてでも川沿いに進む事を選んだ。


 平地に降りてからというもの。地球外生命体たちの亡骸を目にしない日は、一日も無かった。


 動かなくなった金属の塊。

 人の物ではない色と骨格をした、黒骨死体は魔族の物だ。

 そして、いつ死んだかも分からない竜の死骸は、やはり生前の姿を留めていた。今にも目を開けて、飛び立ちそうなくらいに生々しい。


 竜の肉は腐らない。

 その理由は未だに不明だ。

 海鐘島の科学局には、死後に切り取られて四十年経過した竜の肉が、当時の見た目や重さのまま現存している。冷凍保存や防腐の薬品に漬けられる事なく。

 それこそが、竜の肉を最後の食料としている理由だった。


 幾ら危険な毒や細菌類が検出されないからといって、何の処理も施されずに何十年も腐敗しない。

 金属で例えれば、鉄と金ほどの違いがある。人間の胃酸で消化が可能と聞いているが、その様な肉をおいそれと口に出来るはずも無い。

 少しばかり眺めた後で雷人は、竜の死骸から離れ、しばらく歩いた時だった。


「雨か……」


 ほとんど風が吹かない中、左頬に小さな雨粒が当たったのを雷人は感じ取る。

 一週間ぶりの雨だった。

 西の空に目を向けると、鉛色の雲が立ち込めていた。その真下は霞んで見える。


「これは一雨来るな……この時期で川が濁流になるほど降る事は無いと思うが……」


 気象情報を得られない今、慎重であるに越したことはない。河原に降りた雷人は、水筒の三分の一ほどの水を補充した後、手で掬って水分を補給した。

 そこでまたしても鼻につく匂いがした。


「臭うな。やっぱり……体を洗いたいところだが……」


水面に映ったのは、髭が伸び放題の自分の顔だった。

 雷人は川の水面を見下ろすも、浮かんだ思考を即座に否定する。

 孤立無援の状態で風邪は御免だ。

 ただでさえ栄養が足りていない。免疫力も下がっているはずだ。そんな中で、体温を著しく低下させる水浴びなどもっての外である。


「まだ髪が短くて良かったな……せめて顔だけでも洗っておこう」


 雷人は顔に水を掛けた。雨の勢いが少しずつ増し始める。

 秋も終盤とあって、日没の時間は早い。感染症に罹る危険性を高めてまで、雨の中を強行する訳にもいかない。


「今日はここまでにしておきたいところだが……」


 雨宿り出来る場所は無いか。

 河原から上がり、地面に伏せながら双眼鏡を構えた雷人は、少し先に装軌型の金属生命体の残骸らしき物を発見する。

 距離は五百メートルほどだろうか。

 周囲に敵影は認められない。


 丘陵地の真っ只中に雷人はいた。

 山岳地帯ほどではないが、大軍同士が衝突するような地形でも無い。せいぜい散発的で、小規模の戦闘が発生するくらいか。


「……今日はあそこしか無いな」


 あの金属生命体は、まだ生きている可能性がある。

 そう思った雷人は、慎重に歩を進めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る