徹夜をする藤棚扇
紫鳥コウ
徹夜をする藤棚扇
だから大声で「ヒロー! 大好きだよー!」と、階段を降りようとしていた夫へと叫んだ。すぐに、「ぼくも大好きだよー!」という声が返ってきた。もう何年も連れ添っているのに、その言葉を言われるとドキッとしてしまう。
来年度から、
締切りはもう近い。教えることは決まっているけれど、年間を通してどういう授業をするのかということを、詳細に、学生のために提示しなければならない。学生たちは、このシラバスを読んで
大学へ車で通うことのできる距離にある、夫の実家に移住することになった。自分の部屋の窓を開けると、
玄関を出ると、正面に小さな横道があり、そこを突っ切ると、緩やかな坂道へと抜ける。さらにその坂道は、橋の方へと続いていく。橋の近くには公民館があり、この地区で行事ごとが行なわれるときは、人々がそこへ一斉に集まる。春になれば、
義父母の寝室は一階の仏間の隣にあり、扇の部屋とは対角線上にある。夫が寝起きしているのは、階段の横の一室で、夫婦別々の部屋になっている。そのことを提案したのは、扇だった。生活習慣が微妙にズレているからというのは表向きの理由で、本音としては、こういう気持ちでいたのだ。
(夫婦は別々の部屋の方が、セックスレスにならないって、テレビで言ってた!)
たくましい夫に、自分の身体を求められているときの幸せ……を思うと、キーボードを打鍵する指が止まる。感情が
背もたれに
そして、前に所属していた大学のことに想いを
「わたしの指導している院生が、×国の移行期正義のことを研究しているのだけど、その国の歴史の中では、教会と宗教が大きな役割を担っていてね。もし差し支えがなかったら、機会があったときに、その子の相談に乗ってあげてほしい」
新任の教員は、直接、大学院生を指導しない決まりになっている。だから、授業を開くことはできないけれど、たまに相談に乗るくらいなら構わない。アポイントメントを取ってくれれば、時間を空けるなんて、おやすい御用だ。湖畔が言うには、琥珀紋学院の人文学研究科には、大学院生がふたりしかいないらしい。
今年度までいた大学の研究科には、五十人近くの院生がいたものだから、こちらの大学院の様子は想像できない。それでも、湖畔から聞いた限りだと、とても真面目で、熱心に研究に取り組む子たちらしい。扇は、ふたりと会うのを楽しみにしているようだ。ひとりきりの部屋で、思わず微笑を浮かべているのだから。
選択科目を4つ引き受けることになっている。「西洋哲学史」は春学期だけ担当する。だから、秋からは3つの授業を受け持つことになる。シラバスの制作は尻上がりにスピードアップしていく。どうにか、期日には間に合いそうだ。もう一度、椅子に
くるりと椅子を回転させて、電気ストーブに足を向ける。明日は休日だ、と思ったけれど、時計を見ると、明日のことは、今日のことになっていた。苦笑してしまう。夜明けまで、冷えはどんどん強まっていくことだろう。椅子の背にかけておいたブラウンのフリースを羽織る。クリーム色の毛布を足にかける。
「西洋哲学史」の授業。中世哲学は取っ掛かりにくい。そう言われることがあるけれど、少しでも興味を持ってもらえるような講義にするのが、自分の腕の見せ所だ。扇はノートに書き留めておいた授業の構成を、シラバスのフォーマットに当てはめていく。
いままで「西洋哲学史」を受け持っていた先生は、フランス現代思想を中心に研究していたらしく、古代中世の哲学を教えるのに苦労したという。反対に自分は、カント以後の哲学については、「教えられなくもない」というくらいだ。だから秋学期からは、別の先生に受け持ってもらうことにした。
どんどん寒くなってきた。カーテンを開けてみると、雪が降っているのが
「扇、まだがんばるの?」
「ううん。もう寝ようと思っていたところ。親子丼は明日食べるね。ありがとう」
しんしんと降っていた雪は、いつしか、吹雪に様変わりし、この家を揺らすほどの猛威をふるいはじめた。心細くなってくる。
「ヒロくんは眠れないの?」
「うん……寒くてね」
寝るときはエアコンを消すというのが、この家の決まりごとになっている。電気代のことを考えてというのはもちろん、布団にくるまっていれば、自然と眠ってしまうものだと、義父母が言っていたから。だけど、いつまでも眠ることができないと、寒さに
しかし扇は、夫の言葉の裏にある本音に気付いていた。
「じゃあ、一緒に寝る? こっちはまだ温かいから」
「でも……」
この煮えきれない態度が愛おしくて、夫をからかってみた。
「一緒に寝たいから来たんでしょ? ヒロくん?」
パソコンの電源を切り、電気ストーブを消して、布団の上半分を折り畳んで、消灯し、枕元の電気スタンドだけを
すると、そっと
〈了〉
徹夜をする藤棚扇 紫鳥コウ @Smilitary
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