180°

出逢い

 僕が絵に描いたような陰キャだとしたら、彼は絵に描いたような陽キャだ。クラスの中心メンバーの一人で、常に誰かと笑い声のなかにいる。彼が行動の指針を提案すれば、それは大方すんなり通った。片や僕はといえば教室の片隅でひとり、前髪に隠れながらブックカバーをかけた本を読み、目立たないようにひっそりとその場に留まっている。彼の決めた指針に、否を唱えることも許されない、そんな存在だった。まるで光と影のような一八〇度違う二人だった。だからきっと、彼と話をするなんてビッグイベントはおとずれないだろうな、と思っていたのに。

 学校の屋上、昼休み、フェンス越し、目を丸くするクラスメートと、ふたりきり。

 ぼたり、紙パックのジュースが落ちる音で我に返る。

 どうして彼がこんなところにいるのか。ここは立ち入り禁止のはずなのに、どうして。否、そんなことはどうでもいい。言えたことではない。

「なにしてんの」

 かけられた声に、ちらりと足元で行儀よく並ぶ上靴を一瞥して肩を竦める。

「見ればわかるでしょ」

 存外、普通の声が出た。クラスヒエラルキー上位に位置する彼相手には、自動敬語不随機能が働くかと思ったがそれもないということは、自分で思っていたよりも彼と僕とは対等な立場だと、そんな当然といえば当然のことを、無意識に理解していたのかもしれない。もしくは、この場で相対してしまったことに緊張しているからか。否、単に発音数が少ないほうを選んだだけかもしれない。

「きみは?」

 問いを返す。返せた。

 僕の内心など知らない彼は、先ほどの僕を真似るように肩を竦めて、

「べつに」

 そんなことを、言った。意を決して挑んだ陽キャとの交流が失敗し、心が折れそうだ。

 沈黙。端的かつ愛想のない返事に、対話への意識が奪われる。再挑戦などできようはずもない。どうかひとりにしてほしい。コミュニケーションが圧倒的に下手なタイプの陰キャは、打たれ弱いのだ。

 とはいえ自分からなにかを言う勇気もなくて、目玉を左右に泳がせていると、彼がおもむろに口を開いた。

「はなしを、しよう」

 溜息を呑み込む。このまま何事もなかったかのようにとってかえしてくれたらよかったのに。

「いいよ」

 頷きたくなどなかった。でも、これが本当のさいごなら。さいごの会話になるのなら、

「最後くらいは楽しくいこう」

 笑えない冗談だ。

 コミュニケーション下手が、発声速度と声量に表れている。びゅおんびゅおんと風がうるさいなか、彼に届いたかわからない。再度告げる度胸もないので、うなずく、という簡単な行動に同意を託した。

 どこからか、笑い声がする。

 彼の重心が右から左へと動いた。

「お前はいつも、ひとりだったけど」

 どこからか、嗤い声がする。

「――楽しそうだった」

「えっ」

 胃の腑が縮んだ気がした。

「うそでしょ」

 嘘だと言ってほしい。笑えない冗談に、笑えない冗談で返しただけだと言ってほしい。縋るように彼を見るけれど、いたって真面目な表情で迎えられ、耐えきれず目を逸らした。

「ほんとう。この状況でうそつく?」

「できればそうであってほしかった」

 なんでと首を傾げる彼には、ソレが楽しそうなものに見えたのか。たったひとり、本に向かって口角を上げているソレ。は、たぶん間違いなく、

「ニヤニヤしてたってことだろう」

 人前で晒したくない顔だったに違いない。楽しそう、などと陽キャな彼は明るく変換してくれたけれど、僕は自覚している。その笑みの形を。

 あまりの羞恥に思わず叫ぶ。

「知りたくなかった。知りたくなかったよそんなこと!」

「ご、ごめん」

 謝らせてしまった。彼は本当のことをとても優しく告げてくれただけなのに。

 取り繕うように「きみは」、声が上ずって恥ずかしいけれど、つい数秒前に明かされた事実に比べればなんてことはない。

「いつも楽しそうだった。みんなに囲まれて。僕と違ってみんなと楽しそうに、ニコニコしてた。きみは、ニコニコ、してた」

「ごめんって」

 音を立てんばかりの勢いで合わせられた手に、少し怯んだ。足が後退しかけたところで、「ビビらせた、悪い」と彼ががしゃりとフェンスを掴む。いい奴なのだろう、とてもいい奴なのだろう。そんなに僕のことを気遣ってくれるのならば、教室に帰ってくれたならいいのに。そしてそのまま僕のことを忘れてしまえ。そんな僕の祈りなど知りもしない彼は、困ったように眉尻を下げた。

「でもさ、俺、今笑ってないだろ」

「現状が現状だからね、笑っているほうがおかしい」

 さすがの僕もこの状況で、「僕と顔を合わせているから笑えないんだ、楽しくないんだ」などとは思わない。とはいえ、実際どこで会ってもお互い楽しいわけがないだろうけれど。

「俺だって、いつでも楽しいわけじゃないよ」

 悩みがなさそう、と思ったことはある。疲れそう、と思ったこともある。人気者ということは、人と関わることが多くなって、愛想笑いをすることも必然的に多くなって、それは疲れないのかな、と。そう思いながら彼を見ていたこともある。それでも彼は笑い声の中心にいて笑っていたから、楽な生き方をしてきたのだな、と面白くない気持ちにもなっていた。

 だけれど、「なにが楽しいわけじゃないの?」とは聞かなかった。だからではなく、興味がないからというわけでもない。理解できそうにないからだ。一八〇度も違う人間のことなど何を言われても解るはずがない。生死についての選択すら、異なるのに。

 だからたぶん、彼にも僕は解らない。

「きみは、ばい菌扱いされたことはあるか?」

 硬い声が出た。心臓が「やめろ」と悲鳴を上げるけれど、無視をして続ける。聴くべきだからだ。陽キャである彼には理解はできずともいい。それでも知るべきだからだ。これがさいごになるのなら、絶対に。

「綺麗な制服を着て、朝風呂に入って、汗もかかずに登校して、それなのに肩がぶつかっただけで『キモイ』と言われたことはあるか?」

 話したこともない人間に、

「ぶつかった場所を、汚いものが触れたみたいに手で払われたことはあるか?」

 そんな理不尽を、当然のように行う人間はだいたい彼のそばにいた。笑っている彼と、笑っていた。

「きみはそれを知っていた?」

 彼は黙っている。

 心臓はうるさい。

「君のごく近くで、起こっていたことだよ」

 唇が震えている。手汗もひどい。

 血管が耳を殴っている。

 彼は黙っている。

 知っていたか、知っていただろう、少なくとも「あいつキモイよね」くらいの言葉はかけられていたはずだ。僕はキモイので、その場面の片隅でひっそりと盗み見ていたから。そして、しっかりと記憶に刻み込んだ。忘れないように、絶対に、忘れられないように。

 唇の震えが、止まる。

「きみも、僕をキモイと思っていた?」

「そんなこと!」

 フェンスが音を立てて揺れた。

 喉の奥に溜め込んでいた空気の塊が、勢いよく転げ出た。嘲笑、だったかもしれない。知っていたくせに、と。ずるい男だ。

「なら、きみは僕に話しかけるべきだった」

 彼に指を突き付けながら、傲慢で強欲な願いを吐く。

「楽しくないなら、それなら僕のそばにいたってよかったじゃないか。僕の存在証明のために――『キモくない人間』だって、証明するために! きみはそれができる奴だった!」

 それなのに、愛想笑いひとつで終わらせて、あげく「いつも楽しいわけじゃなかった」。よりにもよって、そんなことを僕に言う。

「僕はきみを恨まなかった。恨めなかったからココにいる」

 ろくな罵倒ひとつ出てこない。記憶に刻んだ彼の笑顔が邪魔するからだ。

「恨んでいいよ」

 囁きに、拳を握る。目頭はとっくに熱い。

「俺のことを恨んでいい。酷いことを言って笑った奴に、情なんてかけなくていい。思う存分、恨んでくれ」

「無理だ!」

 きっと彼を裂くだろう。はき違えた優しさをもつ彼なら、きっと。

「傷ついた心は、恨んだって、治らないんだよ」

 涙の替わりに笑った。彼を真似るように作った笑顔がうまくないのは百も承知だ。

「一生引きずる。一生消えない。たったひとつの傷が僕の人生を変えるんだ」

 今日は誰かを汚さないだろうか、不快にさせないだろうか、それがあたまから離れない毎日になる。

 だから彼も傷つけばいい。傷ついて、傷ついて、人生が変わればいい。彼の人生設計がめちゃくちゃに壊れたなら、僕はとても満足する。笑って、笑って、そして消えない傷に、一生刃を突き立てる。許さない、許さない。

「つみをつぐなえ」

 これまで生きてきて出したことのないほどの低い声が出た。陽キャの肩が跳ねる。報復ものの漫画のようだ。

「僕の人生を変えた責任をとれ。一生だ、一生負い目にして生きろ」

「なら……」

 震えた声が鼓膜を揺らす。気がつけばフェンス越しに、互いの息がかかるほどに近い。

「なら、誤解を解くよ」

「それで僕の人生が」

「変わるとは思ってない」

 嘘だ。

「今日、教室で、解く」

 宥めすかすような言い方が癪に障る。そんなものを望んでいるわけではない。

「今日だけで変わるって? 悪化でもしたらどうする」

「やってみなくちゃわからない」

「やらなくたって、やらなくたってわかるだろう! どうにもならないんだよ!」

「なる」

「ならない」

「なる」

「終わらせない。オマエの中を軽くなんてしてやらない」

 ふ、と彼が笑った。今まで一度も見たことのない笑みで。

「俺にはできるよ。俺はクラスの中心だから、言葉ひとつでみんなの心を変えられる」

 あまりにも穏やかに、嬉しそうに言うから息を呑んだ。悪手だったかもしれない。奥歯を噛んで、彼から距離をとった。

「明日も来る」

 言えたのはそれだけだ。がしゃりがしゃりとフェンスが荒い音で笑う。

 彼は、靴を履きながら聞き分けのない子どもでも見るかのような顔をして、

「そっか」

 と、肩を落とした。

 僕はといえば、明日を想って泣きかけたけれど、まずこれから訪れる嵐に心の防波堤をはらねばと涙腺を引き締めた。自分が起因したこととはいえ、傷つくものは傷つくのだ。一八〇度違う人間には、理解できないだろうけれど。

 あのフェンスを飛び越えたら、彼は解ってくれるだろうか。

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180° @gyousaki

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