ああはなりたくない
軒下風淋
講演会〜人生を成功させるためには〜
今回だけは勇気を振り絞り、断言します。私は昔から人一倍恐怖心の強い男でした。今日いらっしゃっている方の多くは恐らく私を人生の成功者とお考えになって、成功の秘訣を聞くためにお集まりになったのでしょう。私は私のことを人生に成功したとは少しも思っていませんが、今スライドにあるように、私の履歴が謙遜するには立派すぎることは客観的に理解しています。だから、講演のお話を持ちかけられた日の夜からずっと、一体何が自分の人生を成功に導いたのか考え続けてきました。そして、また勇気を出して告白するのですが、それは、恐怖心に違いありません。
私は人を見るときに欠点が目につきやすい子供でした。それを指摘することは一度もありませんでしたが、笑顔でお茶を濁した心の中はいつも「ああはなりたくない」という思いでいっぱいだったのです。だから、小中高大を通して精一杯学問に励みました。これを向上心や克己心と言えば聞こえはいいですが、その実はクラスで碌に勉強もせずに遊び呆けている人間を見て「ああなってしまって、果たして社会で無事に生きていけるのだろうか」という恐怖心に支配されていただけに過ぎません。
私の人生は「ああはなりたくない」に繋がる道を全て避けて通った結果そのものです。だから、私は自分の人生を誇ったことがありません。むしろ、ひどく後悔しています。どれだけ他人に羨ましがられても、巨万の富をなし、美しい妻と結婚して可愛い双子の男女を授かったという事実があっても、この評価は変わりません。なぜならば、私の人生には「ああなりたい」と自分から憧れ選んだものが、一つたりとも存在しないからです。今、皆さんには輝いて見えているスライドの文字は正道を外れることで、かつて私がそうしたように、誰かに「ああはなりたくない」と評価されるのが怖くてたまらなかった私が、恐怖に任せて逃げに逃げた結果そのものなのです。社会的には素晴らしいものでしょう。ただ、私の人生に、私のオリジナルが反映されている部分は何一つ、ありません。空虚、です。
もしタイムマシンがあれば、という妄想に耽ることがあります。小学生に戻れたら、雨の日に赤い旗の立つ運動場に出て怒られたり、授業中に教科書に隠して漫画を読んだり手紙を回したり、放課後に校区外のショッピングモールで友達と遊んだり、宿題を忘れて「やったのに」なんてブー垂れながら教室に残ったりしてみたい。中学生に戻れたら、昼休みに学校を抜け出してコンビニに行ったり、テストで欠点を取って補習を受けてみたり、バカみたいな金の使い方をしたり、先生の目を盗んでこっそり携帯を触ってみたり、近所の公園で月が見えるまで座りこんだりしてみたい。高校生に戻れたら、大学生に戻れたら、ああ、見苦しい。後悔先に立たずとは昔の人はよく言ったものですね。
繰り返しますが、成功の秘訣はただ恐れることです。特に社会を恐れれば、自分の商品価値を下げるような行為は自然とできなくなるものです。酒も煙草もギャンブルも嘘も暴飲暴食も、自分という資本と信頼を損なう行為です。一般に良いとされる学問にも時勢に沿った有用と無用とがあります。それと、もちろん当然のことですが、商品に自我は不要です。
私は、なりたくないものには一切なりませんでしたが、なりたいものには一切なれませんでした。それなのに人生の成功者だと言われ、こんな壇上に立たされている私をみて、あなたはどう思いましたか。
ああはなりたくない 軒下風淋 @NokisitanoHurin
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます