ハト③
–––––この人なのかもしれない。
私は思わずドキドキしてしまう。
唐突に、それこそ天使に心の臓を射抜かれたように、今まで私の知らなかった感情が心の中に芽生えてしまう。心療内科へ行くべきかもと思ったが、この症状には思い当たる節があった。もしやこれが噂の恋慕の感情というものなのだろうか。私はこの未知の感情が何なのか確認するために、もう一度彼女の顔をじっくりと見ようとした。どきどきどき‥。
–––––なんだと。馬鹿な!
そこで衝撃的な光景を目撃してしまう。
彼女の背後に注目したい。店舗の奥にはテレビが備え付けてあって、実を言うと飯を食いながら興味津々にずっと見ていたのだが、私が長年応援していた野球チームであるスターズがここに来て大逆転をされていたのである。
正確に言えばまだ2点の余裕があるのだが、いつもの展開ならばあっさりとやられてしまうだろう。2点差などないに等しいのだ。弱いから。
「でね。–––––––なの。それでね–––––––––––––。」
まずい。非常にまずい。
私の心臓は飛び上がるように高鳴る。
9回裏に一気に5点を奪われて、尚もノーアウト満塁。胃が痛くなるような戦況だ。私は実況以外、耳に入らなくなり、間を嫌ってなかなか投げようとしない投手をドキドキとしながら見守ってしまう。
「アハハハ。–––––––。もー、面白い。–––––––私、思わず吹き出して鼻からラーメンが出っちゃって、–––––––アハハハ」
アッ。
打球は放物線を描いてスタンドへ吸い込まれてゆく。あっという間の逆転劇だった。
「もー、笑えちゃう。–––––––。そのお笑い芸人のネタが最高で––––––」
ホーム球場でありながら、外野を埋め尽くす大半の敵チームのファン。球場はホームチームとは違う色で歓喜に包まれている。スターズのチームカラーのメガホンが外野に投げ込まれているようだった。
『嗚呼、我らがスターズ。なぜ弱いのか。負け続けるのか。私は哲学的にならざるえません』
連敗が続いて、ついに壊れた地元実況のコメントを聞きながらしばらく悄然としていたのだが、気づけば目の前の席から彼女がいなくなっていた。
どこへ行ったのかと思ったら、厨房の方へ行って定食屋の女房と話し込んでいる。
アハハハ‥
アハハハハ‥‥
二人で和気藹々とお喋りしながら笑い合っている。実に楽しそうだ。私が気を逸らしている数分で、もう友達になってしまったのだろうか。
テレビ実況から流れるスターズの絶望的な敗戦コメントを聞きながら、私は椅子の背もたれに寄りかかった。
––––それにしてもよく笑うものだな。彼女は。
私はその様子を目を細めて見ていた。
⚪︎
定食屋の女房と楽しげに話している彼女を見つめながら、私がタバコに火をつけると、店の店主がやって来て、私のタバコを一本ひったくった。
「弱えーよな」
スターズのことを言っているのだろう。
こいつは幼馴染で高校を卒業してから、親が営業していたこの店でずっと働き、今では親から引き継いだこの店を切り盛りしている。私と同じく、もういい中年だ。私とは気心を知れた仲で親友だった。
タバコに火をつけて一度、煙を吐いてから、タバコを口の端で咥えて言った。
「いいんじゃねーの。お前にきっと合うよ」
彼女のことを言っているのだろう。この幼馴染は私と同じく口数が少なく、余計な事を言わないが、必要なことは喋る。
相手があることだし早計だとは思うのだが、私もなんとなくだが、この縁談の話はこのまま纏まると思っていた。
「ウミ、来週のウチの定休日に船の予約を取っておいたから」
煙を吐き出して、一言だけそう言う。
私もタバコを吸いながら黙って頷く。
来週か。会社だけど、有給取るか。
厨房の方では楽しげな声が聞こえるが、男二人は黙ってタバコをふかしているのだった。
「あと、おめでとうだな。ウミ」
幼馴染はそう言うと灰皿でタバコの火を消し、ビール瓶を私の前に置いた。奢りということだろう。
そうして奴はニカっとヤニで黄色くなった歯を見せて、人好きのする笑顔になった。
とても懐かしい顔だった。
–––––こいつも(逝くのが)早かったな。
そう思った瞬間、グラっと視界が歪む。
急激に目が回り始めた。
–––––早かった? 私は何を言っているんだ?
厨房の方では相変わらず楽しげな笑い声が聞こえてくる。幼馴染は今日は団体客を捌いて疲れたのだろう。肩を回しながら厨房へ戻ってゆく。
その後ろ姿を見送るように見つめていると、胸に強い悲しみがやってくる。
–––––あいつは確か。癌だったかな。本当に早かった。‥‥‥ああ、お前ともっと、釣りに行きたかったよ。
何かがおかしい。記憶が過去と未来を行き来して定まらない。
眩暈がする。眩暈がする。眩暈がする。
視界が渦を巻いて回り続けている。今にも倒れてしまいそうだった。
何か早急に体を支えるものが必要だ。私はこの手に握れる何か頼りになるものを探した。
そして、グルグルと回り続けている視界の中で唯一、渦に巻き込まれず、鮮明に存在しているビール瓶が目についた。
–––––ああ、そうか。私はずっと酒を飲みたかったのだ。
私は酷い目眩に頭を抱えながらテーブルに置かれているビールをグラスに注ぐと、一気にそれを飲み干した。
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