BARリリス①


 酒を飲みたいと思い、私は夜の街へ繰り出すことにした。酒など嗜む程度にしか楽しんでこなかったものだし、依存症の気などなかったはずだが、喉が無性に渇き落ち着かない。彷徨うように酒を求めて歩き出した。

 私が長年通っている‥‥。(何だったかな?) そう、懇意にしている飲み屋で、雰囲気のいい昭和レトロな佇まいの店があった。今からあそこへ行こう。

 場所は、市の繁華街の‥‥。あー、えっと、(何処だったかな?) ‥‥そうだ。メインの通りから一つ二つ外れた人通りの少ない裏路地に『BARリリス』はある。目的地はそこだ。行くならあそこにしかない。

 ‥‥‥待て、私は酒など自宅か定食屋ぐらいでしか飲まなかったはず。『BARリリス』とは何処のことだ?


 (ああダメだ。目が回る。目が回る。ずっと眩暈がしている。

 ‥‥おかしい、さっきまで何をしていたのか思い出せない。

 ここはどこだ。ここは何時だ。分からない)


 ‥‥‥眩暈が酷くなってゆくと、なぜだか酒がますます飲みたくなり、私は迷宮のように入り組む道を、夢うつつの状態で彷徨い歩き続けて、ようやく求める店に辿り着いた。

 カランコロンカラーンと扉の鐘の音を鳴らして私が入店すると、馴染みのママがこちらへ向いて声をかけてくる。(‥‥馴染みのママ?)



          ⚪︎



「あーら、ウミさん、いらっしゃい」


 相変わらずいい女だ。(‥‥いい女?)

 私はママを一瞥し、黙ったままいつも座っている奥の席に着いて、カウンターに薔薇の花を一輪置く、それが私の彼女への挨拶だった。(‥‥だった?)


「ウフフ。いつもありがとう。でも今日は向日葵の花がよかったな」


 向日葵の花? このBARの雰囲気に似つかわしくない明るい花だ。どちらかと言えばこの店には暗い色の花が似合う気がする。紫や、赤‥‥。そうだな、もっと赤い、血のような黒色だな。


「ずいぶんご無沙汰だったじゃない。またあなたの事だから、釣りに行ってたんでしょうね」


 (釣り?)(釣りとは何だ?)(思い出せない)

 (釣り釣り釣り‥‥‥?)

 (‥‥思い出した。私は根っからの釣り人で、釣りをこよなく愛していたのだった)


 ああ、そうだね。私は釣りばかりの男だった。

 自分で言うのも何だけど、しょうがない奴さ。趣味に生きて、趣味に死ぬ。自分の人生で釣りさえあれば幸せだと思っていたよ。ずっとそういう人間だったはずだ。‥‥それなのに。

 私はママの顔を見るなり、苦渋の表情を浮かべ、心の中で愚痴を呟く。


「そうね。あなたはそう。私よりもいつも釣りなのだもの。ウフフ、焼けちゃうわ」


 私は釣りが好きだった。

 生涯の友として愛していたよ。

 本当に好きだったんだ。


 でも–––––––。


 私は寂しげに笑う。


「どうしたのかしら?」


 –––––––釣り竿をなくしてしまったんだ。

 どこを探しても見つからない。あんなに大切にしていたのに。見つからないんだ。‥‥だからもう釣りはできないんだ。

 私は酷く落胆して、そう呟く。このような弱々しい態度は、普段ならば滅多に人には見せないが、ママには少しだけ弱い心を預けてしまえた。


「‥そう。あんなにもご執心だったのに。残念ね」


 ママはカウンターで私の酒を作りながら、穏やかな口調で心の悩みを聞いてくれる。

 この女には、傷ついた男を慰める包容力がある。だから私はいつもこの店に来て、この女に弱音を吐き出し慰めを得ていた。(‥‥そうだったか?)


「じゃあ、釣りはもうやめちゃうの? そんなことはないわよね。あんなにも好きだったのだもの」


 ‥‥いや、釣りはもうやめたよ。

 だって、見つからないんだ。私の体の一部だったあの宝物たちが。

 酷い話じゃないか。こんなふうに大切だったものが失われてしまうなんて。

 そう心の中で諦めたように呟くと、彼女は少し目を光らせた。


「ねぇ、それならばやっぱり、今度は向日葵の花を持ってきてくださる?」


 ママは甘えるようにねだってくる。

 どうして向日葵の花なのだろうか?

 まあ、でも、そう言うならば、次に来る時は‥‥。と心の中で言いかけて、唐突に強い抵抗感が心の奥底から這い上がってくる。

 

 ––––あの花だけは渡せない。

   私はけして他の女性にあの花を渡してはいけない。


 ‥‥いったいどうしたのだろう? ただの花の話でこれほどまでに強い抵抗感が出てくるとは。


「知ってるわ。奥様の花でしたっけ?」


 妻? ‥‥‥そうだ。向日葵は妻の花だった。そんなことも思い出せないとは今日の私はどうかしている。さっきから酷く眩暈がするのだ。

 思考が上手く定まらないが、あの花は妻への愛の誓いのようなものだったはずだ。

 ならばその事を知っていて、この女はねだったのか? 私からあの大切な花を。

 その意味は‥‥‥。


「ウフフ。知っているくせに」


 心を見透かすようにママは笑う。とても蠱惑的な笑みだ。

 私は思わず目を逸らしてしまう。


 –––いい女だ。とてもいい女だ。


 この女を見つめるだけで、邪な思いが心の奥底から這い出てきてしまうようで、えも言われぬ罪悪感を覚えてしまう。私は俯いて、彼女から完全に目を逸らす。

 

「心配だわ。私だったらすぐにあなたを元気づけてあげれるのに」

 

 ママは私の前に酒の入ったグラスを置いて言う。


「でもまだ他にあるのでしょう? あなたを悩ませているのは、また娘さん? ねぇ、それとも奥様かしら?」


 そうして彼女は自分の両手をテーブルに置かれている私の手に添えて言う。

 その冷たくひんやりとした手が、私の情欲を掻き立てた。

 私はママを見ることができずに目の前に置かれているグラスを見つめる。とても美味そうな液体が氷に冷やされている。飲めば、さぞかし喉を潤すものとなろう。しかし私はそのグラスにまだ手をつけない。手をつけてしまえば、きっと理性のタガが外れてしまうと恐れたからだ。


「私だったら、こんないい男、一夜だって放っておかないのに」


 私はその言葉を聞くと、思わず顔を上げてママの顔を見つめる。

 その顔は薄いフィルターがかけられており、⬛︎⬛︎⬛︎というように正しく形を認識できず、到底とうてい、人の顔として判別できないものだった。

 だが、私は思った。



 –––いい女だ。とてもいい女だ。



          ⚪︎



 いい女‥‥? いい女なのか?

 いや、いい女に決まっているだろう。

 見てみろ。⬛︎⬛︎⬛︎じゃないか。こんな魅力的な女性はそういない。

 しかも⬛︎⬛︎⬛︎で⬛︎⬛︎⬛︎、こんないい女は‥‥。


「どうしたの? ウミさん、やっぱり顔色が悪いわよ」


 ‥‥‥‥待て、誰だ? この女は?

 そもそも女なのか?

 さっきから目につく⬛︎⬛︎⬛︎、て何だ?

 

「ウフフ。ダメよ」


 その声を聞くと、途端に意識が朦朧とした。

 再び視界が蕩けるように歪んでゆく。


「それに私を初めて見る女みたいな顔をして、私とあなたの仲でしょう? 今さらそんな顔は失礼だわ」


 ‥‥‥ああ、いい女だ。それにとても色っぽい声だ。

 どことなく昔見た映画女優に似ている。

 そうだ。もはやあの女じゃないのか。私の目の前にいるのは憧れのあの人だ。


 ⬛︎⬛︎⬛︎

 ⬛︎⬛︎⬛︎


 ‥‥‥本当にいい女だ。

 ムシャブリツキタクナル。



          ⚪︎



「ねぇ、今夜はあなたを帰したくないの。いいでしょう?」



 そうしてママは、私の前に置いてあったグラスを、スッとさらに私の方へ押し出してくる。

 先程から急に意識が判然とせず揺れている。なんとなく飲むべきではないとは思っているのだが、差し出されたその酒には抗い難い誘惑があった。そうしてこれを飲んでしまえば、無意識に引き返せない所へ行ってしまうことも分かっていた。



 –––いい女だ。とてもいい女だ。



 女の顔のフィルターが一部外れて、口元だけは露わになる。

 そこに見えたのは、–––蠱惑的で、–––人を誘惑する歪んだ笑みだ。



 –––いい女だ。とてもいい女だ。



 私はずっと酒を飲みたいと思っていた。

 だからいいじゃないか。酒の一杯ぐらいは誘惑に乗っても。

 ‥‥‥でも、果たして本当にそうだったのだろうか?



 –––いい女だ。とてもいい女だ。‥‥‥だが、違う。これは私の求める女ではない。私が愛したのは、生涯でたった一人の‥‥‥。



 私はふと、この場に場違いな黄色い花のことを思い出す。

 大切にしていた釣竿を失ってしまった。それなのにあの花まで失ってしまったら‥‥‥。しかし、その思いを守ろうとしても、(‥‥‥いい女だ)(いい女だ)(いい女だ)(いい女だ。とてもいい女だ)(いい女だ)(いい女だ)(いい女だ。とてもいい女だ)(いい女だ)(いい女だ‥‥‥)などと同じ言葉が侵食するように、私の魂に迫ってくる。

 そうしてその言葉に身を委ねようと、酒の入ったグラスを手に取って口に運ぼうとする。もはや酒に、どうにもならない程の抗い難い誘惑を感じたその時だった。



 –––妻に会いたい。

 –––妻に褒めてもらいたい。



 突如、黄色い花への思いが鮮明になった。

 繰り返して侵食してくる言葉に抵抗するように、思い出の花が、私の魂の中で力強く花を開かせようとしている。そうして花が徐々に咲いてくると、それと共に朧げだった意識が少しだけ明瞭になってくる。

 


 ––––ああ、そうだ。私が頼りにしようと探していたのは‥‥‥。

 ––––たった一輪の花だった。満開の笑顔で咲く、あの日の向日葵だった。



 まどろむ意識の中で、私は向日葵の花が咲く姿を思い出そうとしていた。



















 

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