釣果⑤
釣り人というものは釣りに対してまず礼節を持っている。道具にも、魚にも、海にもだ。
礼儀とは何か。例を上げれば、自分が使う道具を大切にすることは言うまでもないだろう。釣った魚に心から感謝して綺麗に平らげるのもそうだし、海に返す場合もそうだ。釣り場をきちんと後片付けをして帰ることや、ゴミなどを捨てて海を汚さないように心掛ける事もそうなる。
だから釣りをやって散らかすだけ散らかして片付けもしない者を釣り人とは言わない。これは他のどの趣味にも、又は仕事などにも言える考えだろう。プロは自分の仕事に敬意を持っているものだ。
私は長い間、それこそ生まれてからの人生とほぼ同じぐらいの時間を釣りと共に生きてきた。その年月の中で、とても心を痛めることなのだが、釣りに対して無礼を働く多くの者を見てきた。私は黙ってそうした者たちが散らかした後を片付けるなどしてきたが、気分は良いものではない。だが、まさに今、もっとも最悪な気分になっている。私の敬愛する趣味が、こんなにも侮辱され踏み躙られた光景をこれまで見た覚えがないからだ。
「わりぃ、お父さんさ、さっき借りた竿、折っちまった。わりぃわりぃ。じゃ捨てとくね」
「ジジオヂ、この中で売れるものを言え。さもなくばSNSで晒す」
男は船に収納されていた人の竿を勝手に持ち出し、折れたら空へポイ捨てしてしまった。女も盗人のように私の釣り道具を物色している。漁っては投げて、漁って投げてという有様だ。
二人が船を荒らし始めた為に、船上は釣り道具(私の大切な思い出の詰まった)で散らかり放題になっている。
「船の鍵、どこ? やっぱこの船、貰っとくわ。爺さんには贅沢は無駄だからいらないでしょ」
「これ全部売ったらどんなになる?」
「家、建つんじゃね?」
「マジ? ヤッタ」
先ほど悪縁で結ばれた二人は、会話を交わしていくとますます意気投合して、それに比例してますます黒くなっていった。そしてある地点で急激に存在が危うくなり、状態が悪化したように思えた。
どうしてそうなったのかは分からない。私の背後でたわいもないことのように悪事を企みあって、イチャコラ話していたような気がした。が、急に二人は霊として致命的な一歩を踏み出してしまったようだった。結ばれて力を増すと言うのだから、二人は本当に相思相愛の間柄だったのかもしれない。
それから周囲には彼らから発する黒い靄が出ている。その靄を発する当人らは、もはや人相も分からなくなる程、真っ黒く染まっていた。
まるで悪霊だ。
私は恐ろしくなり彼らが話しかけてきても一切何も答えず、無視を続けていたのだが、その現状がこれである。
「船の鍵、どこだよ。出せや、ジジイ」
「ジジ、命が欲しかったらさっさっとよこせ」
ついに脅しに来るか。馬鹿にするでない。
二人は再び両サイドから私を挟み(霊体同士は互いの霊体に干渉できないようだが)、暴言で私を揺り動かそうとする。
「出せ、ジジイ」
「こっち向け。ジジ」
ぬぐぐ。引かぬ媚びぬ省みぬ。
動かぬぞ。このうみねこ、チンピラ共の脅しなんぞに決して屈しん。
すっかり魔物のように変わってしまった二人を私は無視し、頑なに釣りをやり続ける。
「あー、もういいや。ジジイ、金出せよ」
「釣りとかデブの趣味。全部売って金吐き出せ」
「出さねーなら、これ全部ぶっ壊すわ」
「オヂ、やっちゃえ」
要求に従わないからといって脅して暴れ出す。まるで地上げ屋のようなやり口だ。
二人が暴れ出すと、船はますます酷い惨状に変わり果てた。私の人生で大切にして来たものが次々に踏み躙じられてそこかしこに転がっている。
ある竿は折れ、長年使い込んだリールなどは粉々にされた。しかし狙いは船のようで船だけには手を出さない。
私は無惨に砕け散った釣り道具の残骸を横目で見る。愛着のあったものばかりだった。
–––あれらは私の身体だ。私の人生の記憶だったものだ。もはや死んでも(死んでるけどね)お前たちに答える口はない!
私は無視をするのが戦う意思を示すことだとばかりに、さらに頑なに釣りを続ける。
「金、金だ。よこせ、ジジイ。殺すぞ!」
「よこせ。ジジ、もっかい、死なすぞ」
結託した二人は詐欺師から地上屋へ、さらには強盗に様変わりしてしまったようだ。そして、年老いた私に二人して金を脅し取ろうとして来る。
死後の世界に金など何の意味も持たないものだ。なのに人を殺さんばかりの物凄い執着心で、よこせよこせと迫って来る。
金、金金金、カネーーー!
金金、きゃきゃきゃ、カネーーー!
カネ、ネニャ、カネカネー!
キャキャキャ、ヨゴゼェーーー!
これではまるで亡者ではないか。
さらに二人の存在は様変わりした。金を求めて吠える姿は黒々として恐ろしい
人間とういうものは現実に脅威にさらされるまで、自分がどういった行動を取るタイプの者だと理解していない場合が多い。(敵が襲って来たら一目散に逃げる行動を取る者いれば、吠えかかって逆に襲いかかるタイプの者もいるだろう。)どうやら私は、こういったピンチの時、体を硬直させて、身構えるタイプのだったようだ。
カネェーーーー
カニャーー
ろーんしてでも ほけんにはいってでも もってこい
ヨコセヨコセ オマエノ イノチヲウッテ カネニシロ
私はこのような道理を弁えぬチンピラ共に対抗する手段を何も持っていない。しかし脅しには屈しないと言う強い意思だけはあった。私は一歩も引くものかと、竿を両手でしっかりと握って、釣りをし続けたのである。
プルルルウルル。プルルルリ‥‥
ジジジジジジジジジ‥‥
すると奇妙な音の着信が同時に鳴った。二人は言葉にもならない言葉で嬉々としてその着信に反応をした。二人の持っている例のスマホから発信された音だったらしい。
「「%*、、@##」」
二人は同時に受信を押した。飛びつくようにだ。
すると、彼らのスマホから一気に闇が噴出してきた。それは生き物のように動いて彼らを包んだ。
「「¥¥**;@/¥!!!」
彼らは言葉にもならない悲鳴を発して、瞬時に闇に呑み込まれた。
⚪︎
その闇には意思が感じられた。生き物のように私の背後に回り、漂っているようだった。そうして私を見てニタニタと笑っているようだった。
私は今度ばかりは本当に恐怖した。何かおぞましい冷酷な存在が背後にある気がした。
頼る術が何もなく、両手で握っていた竿に、さらに私は縋った。
背後で蠢く闇は、私という人間を舐めるように観察しているようだった。
さすがにこれは逃げた方がよいだろうと私は周囲を探った。
気づかなかったが、太陽はすでに沈んでおり、眼下には煌びやかな世界あった。
闇は急に大きく膨らみ、あっという間に広がった。そうして私のクルーザーを一瞬で飲み込んだ。楽しみにしていた夜景もあっさりと呑み込んでしまい、周囲のすべてを闇に変えしまった。
私は足下も覚束ない暗闇の中で、釣りの姿勢のまま佇んでいる。
しばらくなす術もなくそのままでいると、お守りのように両手で強く握っていた釣竿も消えて、闇に取り上げられてしまった。
そうして暗闇に中に、私は身一つで取り残されてしまう。
周囲には闇だけがあり、孤立した状況が作られる。ただこの闇は生きており、孤独とは言えなかった。闇は笑いながら、周囲で私の動向を窺っているようだった。
⚪︎
私はトボトボと歩き出す。
たいへん気分は落ち込み、死んでから釣りによって立て直せていた気持ちが、ダダ下がりに盛り下がってしまっていた。
––––こんな事になってしまうなんてガッカリだ。
そうして私は暗闇の中で、前後の文脈が判然としないぼんやりとした気持ちに支配された。理由もはっきりしないぼんやりとした気持ちのまま、とても落ち込んでしまう。
–––ああ、そうだ。ガッカリだよ。多分これが最後の釣りだったのに。
私は少しだけ思考が戻り、そう思った。
周囲の闇は最初の内は生き物のように感じられたが、だんだんとその感覚が弱まってくる。闇がただの闇になり、私というものは闇の中にポツンと取り残されたような存在に感じられた。とても孤独だった。
闇は深く、世界に際限なく広がってゆく。光などこの世に最初からなかったもののように私の記憶から忘れさられてゆく。広がってゆく闇は、やがて私の心にも侵食してきて、こう呟いたような気がした。
––––私の人生は失敗だった。
––––守ったつもりの家庭もダメだった。釣りもダメになった。
––––いっそ、酒でも飲みたいな。
私の心は、入り込んできた闇によって呑まれかかる。だが私の微かに残された理性はその言葉に抵抗した。この暗闇の世界で唯一の明かりであるかのようなその理性は闇に反論してこう呟いたのだ。
––––釣りがもう一度したい。
暗闇の中で、私は縋るようにそう思った。私は暗闇の中で光を求めたのだ。
しかし釣竿がどこかに落ちていないか探ったが、やはり完全に見失ってしまったようだ。
––––違う。‥‥娘。いや、私は妻に会いたいのだ。妻にたった一言でいい。褒めてもらえたら、どんなに救われるか。妻の声が聞きたい。
私はこの手に握れる確かなものを、暗闇の中で探していた。
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