釣果②

 

 大きな曇天の雲を突き抜けると、再びカラリとした空が広がっていた。

 船が雲の上を走るこの場は、乱反射する光が激しく、肉眼だったならば目も開けていられなかっただろう。地上の人々は、この景色を見て、誰もが天国のような場所と思うかもしれない。それ程、神々しい光に満ちていた。

 だが私の感動は少し薄まっていた。少し前の私ならば諸手で感動して天国のようにしか見えなかったこの広大な世界は、–––これは勘か。それとも霊感なのだと思うが。–––そうした天上に遠く及ばない場所に思えてきた。

 霊の体がそう思わせるのか、何か味気ないのだ。私の魂が行くべき所は漠然としてだが、ここでない感がある。


「もしもーし、オヂ。ここすごいね。わたし、天国に連れて来られちゃった感じ?」


 クルーザーは航行する経路を定めぬまま、大空を彷徨っている。

 私は雲の中にいる間、しばらく眠っていたのかもしれない。何かとても意味のある懐かしい夢を見ていた。そこで幼い娘に会っていたような気もする。

 

「このクルーザー、おっきいね。オヂのなの? ふーん」


 いや、私は先程の雲の中で、新しい釣果を得たのだった。激しい格闘の末、隣に座る小娘を釣り上げた。私の記憶は、そうだったはずだ。––––‥‥ん?

 

「オヂ、なにやってた人? 大企業の社長とかだったりする?」


 違うな。やはり夢を見ていただけのような気がする。幸せな思い出の世界で、少しの時間だけ久しぶりに、妻と娘と暮らしていた気がするのだ。

 ‥‥‥どうも記憶が曖昧だな。

 夢を見ていたのか。釣りをしていたのか。なんだかよくわからない。

 いったいどうしたのだ。私は?


「私さ、子供の頃、ネグレクトでさ。なんかオヂを見てると、寂しくなっちゃう。パパって呼んでいい?」


 お前にパパなどと言われる筋合いはない。

 なんだこの小娘は? 唐突に馴れ馴れしい。

 私は小娘を無視して、竿を投げる。


「んー、効かないか」


 そう言うと小娘は唇を尖らす。何か意図があった発言だったようだ。

 それにしても随分と霊体が黒いな。先ほどの男も黒かったが、この女もだ。見た目は可愛らしい年頃の女性のように見えるが、おかげで印象がだいぶ悪い。


「じゃあ、どうしよっかなー」

 

 うん‥‥? 

 そう言えば私はどうなのだ?

 他人を黒いと言ってるが、自分の霊体がどういう姿なのか気にかかった。

 そこで片方の手を太陽に翳してみると、私の霊体は白く透き通っているようだった。


「オヂ、私ね。いま、すっごく頑張ってるんだ。事業とか独立しようと思って。だから応援してほしいの。オヂに助けてほしい。相談とかも色々したいし。オヂのことパパって呼んでいい? ダメ?」


 などと甘えるように言ってくる。

 私はお前にパパなどと言われる筋合いはない。言いたい事があるなら年寄りにも分かるようにハッキリ言え。訳の分からんやつめ。

 小娘を無視してリールを回す。そろそろ飽きて来たので仕掛けでも変えるかと、道具入れを漁ることにした。

  

「んー、これも効かない?」


 さっきから何なのだ? この小娘は?

 世代間に距離があり過ぎて考え方がさっぱり分からん。

 私はそのように思いながら道具箱から年季の入ったウキなどを選び出し、新しいパーツの組み立てを頭で描くと、糸を引き上げて、仕掛けを作り直す。


「オヂ、私さ。寂しくて、困ってるの。応援して欲しいの。すごく心細いの」


 こちら(小娘)の方も何かを仕掛けて来ているようだが意図がよく分からない。

 私は相変わらず口を開くことはなく、手慣れた作業を続ける。


「‥‥‥ねぇ、なにしてるのそれ? そんな事やるより私に言うべきことあるんじゃない?」


 意味が分からん。私はこの不躾で横柄に見える小娘を無視して手作業を続ける。何かさっきから同情を誘うような事を言っているが、まったく共感できるものがない。むしろ警戒してしまう。だって、お前の霊体、見るからにドス黒いんだもん。


「じゃあ、ぶっちゃけるね。お・か・ね、ほしいの。くれたらパパにしてあげる」


 そう言うことか。思わずため息をつく。

 私は生前、家庭を守るのに必死で、そういう場には付き合いでも寄りつくことはなかったが、もしや水商売の女か? いや、少し違う気もするな。ただ稼ぐのにまっとうな考えを持っていない女だと分かった。

 私は仕掛けを作り直し終えて、再び竿を投げた。


「また無視? カッコつけてる系オヂ?」


 また訳の分からん言葉を使いおって。

 残念だったな。娘ならもういるぞ。それも飛び切りに手のかかる奴がな。

 フン。育てる苦労を知っていれば娘など一人で十分だよ。ヤレヤレ。


「どうしよ。ん〜〜〜‥。あ、オヂ、フェロモンすごい。デブ好きかも。ハゲも可愛いよ。援助してくれたらもっと好きかも」

 

 ‥‥金か。

 娘とそう変わらない年齢の若い女が、道理の道から逸れて、どうしてこういった悪い道に至った理由は分からない。そもそもの話、さっきの男もだが、なんでもう死んでいるのに金にそこまで拘る?

 仮に金銭を無心するにしてもだ。最近のこういう若い女は、なんの情緒もない物言いで駆け引きするものなのだろうか。昔憧れた映画の女優などは色っぽく遠回しに距離を詰めてくる感じだったがな。

 ‥‥‥ムッ、いま竿がチョンと動いたな。


「あ、説教系オヂかな? つまんな。一番メンドなヤツじゃん。男なんてみんなエロやろ。アホくさ」


 何を言っている。男がみんなそんなだと思うな。

 それに、ちょっと今、話しかけるな。チョンと食いつきそうなんだ。


「おいジジイ。何で無視するん? なんかムカつく感じがするんだけど。あ、説教系だから同情とかしてるの? でもどうせエロでしょ? 高校の時の担任もそうだったよ。いちいち説教してからエロとか笑えるー」


 だから男がみんなそんなだと思うな。

 なに高校の教師だと? まさか爛れた関係をもったとかではあるまいな。最近では教師とは名ばかりで、勉強の技術しか教えられない者が教壇に立っていると聞く。実に嘆かわしい事だ。

 昔はそうではなかったはずだがな。教師は教師だった。時代は移り変わり、そうか、人の道を説ける者はもういないのか‥‥。

 私は世を嘆きながら獲物に食いつかせるために竿を微妙に揺らす。


「オヂなんてみんな偽善者でバカばっか。言っとくけど、私は誰よりも世の中を正しく生きているんだから、馬鹿にすんなし」


 ‥だいたい分かった。この小娘の哀れなところは今までに敬意を持てる大人に出会わなかった事だろう。そうした悪い大人は、このような小娘に人生を悟ったような顔をさせて、誰もがそれでいいと言って相槌を打って、その実は見捨ててしまったのだろう。この小娘を欲望の目で見ず、物のように扱わず、誰か一人でも親のような愛情の目で見つめて、まともな言葉をかけてやったらと思うと悲しくなった。


「説教してきたオヂはみんなクセーんだ。オメーらの古臭い常識なんて建前のくせに偉そうにすんな」


 知らんな。私は自分の知っている常識で判断する。今の世の流行り廃りに合わせた考えなど持ち合わせておらん。


「黙ってんな! 偉そうにすんな! ジジイ、知ったかぶりすんな! オヂはどうせみんなエロのくせに知ったかぶりすんな!」


 などと小娘は怒りだす。放っておいたら勝手にこうなった。

 変な媚を浮かべた顔ではなく、ようやく本心で話すのだと思ったのだが、


「‥‥あ、ヤバ。間違えた。やーん、冷たい態度取らないで。オヂ、いじめちゃヤダ。ね?」


 すぐに表情を切り替える。また振り出しに戻った媚びた顔だ。

 その荒技は感心するところだったが、ちょっと気づく事があった。


 –––ん? この娘、泣いてないか?


 一瞬の表情に、この女の本性が見えてしまったような気がした。


「んふふふ。私にはね。応援してくれるオヂがたくさんいるの。だから寂しくないよ。だからオヂもパパになってよ」


 どちらにせよ、世も末だ。年頃の若い娘が、こんな爺に歪んだ媚を売ってくる。それも欲しがっているのは貪欲に金だけだ。人格に誇りも品性もない。

 悲しいのは、この若い娘が今でもずっと、そこらの中年とこうして交渉して生きてきたという事実だ。その手段として色気を使う事を覚えたようだが、自分などさぞや、それしか価値のないものに思っていることだろう。

 生命力に溢れ、魅力的で、未来の為に開拓できる可能性が無限にあるような小娘がだぞ。自分を安く売るにも程がある。

 この状況をなんと言ったらよいのだろうか。実に嘆かわしい。


「オヂ、何かムカつくこと考えてない? 私ね、別に自分の生き方に‥––––あっ、待って! ウソー、鳴ってる。マジー♪」


 女は急に騒ぎ出した。何事かと思ったら、ヤレヤレ、またあの機械(携帯)か。

 現代人はみんなアレと一心同体のようだな。


「ウソー、なんで? ヤバ、久しぶりすぎるんだけど。ちょちょちょ、嬉しひひ」


 おかしなテンションになってまで女はただの着信に小躍りしている。

 そんなにもアレ(携帯)はよいものなのだろうか。


「ねぇ私だよ! どのオヂなの? 待ってて、すぐに会ってあげる! 寂しかった。ずっと寂しかったよ!」


 ‥ふむ、なんとなくだが分かった。

 憶測なのだが、携帯という物は現代人の魂に結びついているのではないだろうか? 肉体ではなく霊体と一体となって結びついているのかもしれん。そう、ちょうど私とこの釣竿のようにだ。

 

「–––––––えっ‥‥‥‥。ア、アア、やだ! コレ、マジやっばいヤツじゃん!」


 ちょっと前まで嬉々としてしていた女が、スマホから声を聞いた途端に恐怖で引き攣る顔になった。


「–––––すぐに行かなきゃ、アレが来るよ! –––––ヤバい、ずっと追われてた! 忘れてた! なんで?なんで?」


 声は悲鳴にまで変わって行った。

 女は挨拶もせずに船から空に飛び込んで、急いで逃げるように消えて行った。



          ⚪︎



 やっと去ったか。女はあのまま何処かへ消えてしまい、しばらく経っても戻っては来なかった。

 静かに釣りを楽しみたいだけなのにどうにも雑音が入り込んでくる。

 女が去ってから釣果は得られず時だけが流れた。当たりの気配は何回かあったのだが、それもすっかりなくなっていた。竿はもう微動だにしない。


 ––––ボウズか。

 

 時刻は恐らく正午を過ぎて、三時ぐらいだろうか。太陽の位置が傾きかけている。

 普段ならばこの辺で撤収し始めるところなのだが、釣りをやめても帰る家がない。ならばもう少し粘ってみるのもいいかもしれないと、釣り竿を垂らして腰を落ち着かせた。

 さらに時間は過ぎ、風は凪いで徐々に日が暮れてゆく。いつも孤独を癒してくれたはずの釣りが、何故だかとても寂しいものに感じられた。


 ––––この趣味は、帰る家があったからこそ面白かったのかもしれんな。

 

 などと寂しさを覚えた時にふと思い出した。

 で、結局、先程のあの女はなんだったのだろう? 世代が離れている為か言っていることが、ついぞ何も理解できなかった。

 見るからにあまり良い人生を送れたとは思えない霊魂だった(黒いし)。失礼かもしれないが、ろくでもない生き方をして、ろくでない死に方をしたに違いない。なんとくなくだが、生前は愛情ある関係性に恵まれず、人に利用され、人を利用するだけの関係を築いて来たのだろう。


 ––––哀れだな。誰かがあの小娘を本気で助けてやれなかったものかな。誰かがこのような所で死を彷徨う前に、まっとうな人の道に戻してやれなかったものか。


 そう心で呟きつつ、私自身も大概だと思った。

 女を哀れだと心配するような事を心には思ってはいるが、やはり所詮は他人事で、だからと言ってどうしようとも思わない。娘と年齢が近いように見えたから、あの女の不幸だったろう人生と、その結果である今の哀れな姿を通して、実を言うと自分の娘を心配しただけなのだ。


 ––––私は、あの女を食い物にした男たちとは違う。ささやかな同情もしている。だがあの女にとって私は積極的に自分を利用しなかっただけの、他とそう変わらない大人なのかもしれない。


 船は再び雲に包まれてゆく。大きな雲に近づいているが、私は少し疲れてしまい舵を切る気力もなく、船を進むに任せた。


 ––––そうだな‥‥。薄情かもしれないが、あの女の人生は他人事なのだ。やはり私が守るのは、私の娘、ただ一人だけなのだ。


 すっかり船は深い雲に覆われてゆく。

 私はその雲の中で、ひたすら娘のことを考えていた。


 ––––私はただ死んで、このまま消えてゆき。娘を、愛しいあの子をあのような酷い世界に残してゆかねばならないのか。


 自分の人生は全うしたつもりでいたが、やり残してきたことは多くあった。

 先程の若い女と出会った事により、それを改めて気付かされる。

 そうして、その後悔だけが大きくなる。

 私は深い雲の中で思っていた。


 ––––まだ何ができたろう。あの子に。

   何をまだ教えられたろう。あの子に。


 私はただただ、スズメのことだけが心配だった。










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