釣果①

 

 海はいい。海は疲れを癒し、心の汚れを洗い去ってくれる。

 私が釣りを趣味としていたのは、大海原(大空)にあるこの静寂を愛していたからだ。寛大な自然はいつでも、会社や家庭という荒波で揉まれに揉まれた私のすべてを静かに受け止めてくれた。


 ––––視界の端に雲がゆるりと流れてゆく。

   船は風でたゆたい流れて進む。

   私は一面に広がる透き通った青の世界に、ひとすじの糸を垂らす。

   これが至高でなければ、何が人生で最高のものになるのだろうか。


 男が生涯の趣味を持つことは良いことだ。生涯の趣味というものは、どこにも行き場のなくなった孤独な自分というものの、最後の避難所となってくれるものなのだから。

 


「お父さん、お父さん」



 だから娘にグチグチ言われてもあえて・・・釣りをやり続けたのは、道楽だけが理由ではない。そのようなやむに止まれない理由があったのだ。

 


「チース。お父さんお父さんお父さん」



 あ〜〜、海はいい。

 本当にいいなー。

 

 現代社会においては、どうしても体の方は仕事などに拘束されてしまう。繰り返すようだが、だから心の避けどころが必要だったのだよ。私のように孤独で疲れた男にはね。まあ分かる人には分かると思うが、男はそういうものを必要とする生き物なのさ。

 私は自由満開な心持ちで釣りを満喫して、一つ大きな欠伸した。



「チース、お父さんお父さんお父さんお父さん」

「チッ〜ス!チースチースチースチースチースチース!」



 ええい、うっさい。

 さっきから何だ。



          ⚪︎



「ねぇ、お父さん、もう釣れた?」


 見りゃ分かるだろう。

 釣れとりゃせんわ。


「釣ってくれるなら女の子がいいんだけど。お父さん、頑張ってよ」


 若造め。年配者に軽薄な物言いをしよってからに。

 こやつの見た目は30ぐらいだろうか。いかにも定職に就いていない風体だ。それでいて身に纏う雰囲気に誠実さも感じられない。どうにも胡散臭い。

 こんなやつは当然、無視だ。

 私は男に無視を決め込み固く口を閉ざした。

 

「俺、あんまり釣りってやったことないんだけど。これルアーでしょ。これとこれ、何に使う道具なの? あ、俺も釣りたいな。釣竿貸してよ。お父さん」


 貴様にお父さんなどと言われる筋合いはない。

 おい、勝手にルアーに触るな。

 おおい、それにも触れるな。

 貴様なんぞに私の竿(命)を貸す訳がなかろう。


「あー、やっぱいいや。釣りって暇だから」


 ふん。そっこうで飽きたか。

 釣りの良さを分からんとは、見た目通りのチンピラめ。

 ん、こいつ、大きなホクロ‥、ではないな。オデコに私がさっき飛ばした鼻くそをつけておる。


「おー、マジ、スッゲ。お父さんさ、この船動かしていい? アレ、鍵はどこかな? お父さん」


 ヤレヤレ、忙しない奴め。今度は船か。

 あえて鼻くそのことは言わない事にした。


「あー‥、やっぱ、いーや。俺、車を運転してて死んじゃったんだった。恐かったなー。急にあの女、運転中に騒ぎ出すんだもんよ。‥‥アレ? アイツ、あの女。‥‥誰だったけ?」


 このうるさい若造は先ほど釣り上げた初釣果だ。

 私は黒服の二人組と別れた後、颯爽とクルーザーに乗り込み、快速を飛ばしてかなりの距離を移動した。そして、しばらくすると大物が釣れそうなポイントを見つけたのだった。

 そこは都市の中心部の上で、有名な街並みが見下ろせた。眼下には何か大きな黒い気配がわんさか蠢いており、大漁の獲物がいることを予感させた。

 私はさっそくワクワクしながら糸を垂らしたのだった。


「まあいいや。でさ、ビックリしたよ。死んでから街をプラプラさまよっていたら、いきなり引っ張りあげられるんだもんさ」

 

 私の愛用するうみねこブラックファイヤー28号は手動リールだ。電動も良いのだが(年を取ってから完全に電動に切り替えたが)、私のように年季の入った釣り師は仕掛けを準備し、糸を垂らし、釣り上げるまでのすべての過程を愛している。手巻きでしか味わえない格闘感というのだろうか。筋肉に伝わってくる重さ、糸の張りを通してのまだ海面から見えぬ獲物との無言の会話が好きなのだ。


「ねぇ、ところでお父さん、娘いるでしょ? 俺ね、そういうのわっかるんだ〜〜」


 最初、根掛かりなのかと思いきや、急に暴れ出した。竿を制御しようとしても覚束ない。散々に抵抗して暴れ回るから私も血が騒ぎ楽しくなってしまった。コイツはきっと私と語れる・・・獲物だと期待した。


「これ霊感っていうの? あ、おれ死んでたわ。で、娘さん、可愛いでしょ? 年齢も若いでしょ? 俺と同じぐらいな感じ? そういうのわっかるんだ〜〜」


 で、コイツだ。

 ぜんぜん、語れん。

 とんだ雑魚を釣り上げてしまった。



          ⚪︎


 

 この男はどうにも胡散臭い。同性の勘というやつだ。私は生前、トラックのドライバーをやっており、同僚はやんちゃ系統の者ばかりだったが、見た目は厳つく態度も粗暴であってもなんとも愛嬌のある男というのは多く見てきた。口は悪くとも基本的にみな人は良いのだ。だがこの男からは見た目通りの何か危険なものを感じる。

 その証拠にコイツも霊体なのだが、ほれ、なんか黒い。


「紹介してよ、お父さんさ。俺こう見えて一途で女を大切にする男だからさ」


 ふん。それを親に言うのか?

 娘は既婚者だ。残念だったな。


「もしかして結婚してたりする? 大丈夫、俺ってそういうの気にしないから」

 

 誰が貴様なんぞを娘に近づかさせるか。バカモンが。

 それに、おい、お前のその薬指についているのは指輪ではないのか。


「なに見てるの? あ、コレ。ちょっと記憶喪失みたいでさ。なんで付けているのか覚えてないのよ。ま、いいじゃん。死んでるし、いま実質フリーみたいなものでしょ。ヘーキヘーキ。だからさ、紹介してよ」


 さっきからコヤツのせいで釣りがまったく楽しくない。隣で不快な事を喋りまくられ釣りに集中できなくもなっている。

 あー、この感覚はあれだ。生前、仕事でトラックの横(助手席)に、よく人を乗せていたのだが、気さくで話好きの同僚を乗せている時はいい。そういう時、私はいつも同僚の言葉を黙って聞いているだけだったが、実に運転が楽しかった。

 だがこれはいけ好かない奴を乗せている時の気分だった。そういう時は運転中、ずっと憂鬱だった。どうもコイツは好きになれん。見た目や印象だけで人の好悪を簡単に割り振っていいとは思わんが、良いところを見ようとしてもこの男には気にいるところがない。なんか黒いしな。


「取れないんだよね、この指輪。何でかな?」


 私は獲物がかからぬ釣竿を適当に横に振って、心の中で大きなため息を吐いた。

 それでふと思った。

 ジロー君の事だ。

 あの日、娘がこんな碌でもない男を連れて来なくて本当に良かった。

 今さらながら、改めて天が娘の夫にジロー君を与えてくれた事に感謝した。 


「あ、待って、なんか連絡入ったわ。チース、誰?」


 こんなところまで来て携帯か。先ほどの黒服の二人組も使っていたな。霊の世界の常識はどうなっているのだろうか?

 私も会社に散々持つように言われたが、ついぞアレは持たなかったな。

 あらゆる圧力を跳ね除けて、会社の人間に諦めろと睨みつけていたら。

「まあウミさんだからしょうがないね」

 とまで言わせるようになったから私の勝ちだ。



「お金貸して」



 何の脈絡もない一言だった。

 男は真顔で不躾にそう無心してくる。

 貸すわけがなかろう、と私は無言で答える。

 

「あそ」


 男はすぐに諦める。またスマホに耳をそばだてている。私は横目で男をその様子を見て、これは言い慣れている者の態度だな、と思った。

 

「‥‥‥あー、少し思い出したわ。さっき街をプラプラしてたって言ってたけどさ。ずっと恐い何かに追われているんだった。‥‥‥でも、なんだっけ、おれ、何に追われているんだっけ? ヤッバ、すげー、恐ぇぇ」


 スマホからどんな声があり、それがどういう内容だったのか具体的なものは察しがつかないが、男は急に感情を取り戻したかのようにはしゃぎながらも、真剣に焦っているようにも見えた。


「お父さんさ、すっごく名残惜しいと思うけど、逃げるね」


 男はそう言うと船から空に飛び込んだ。周囲はいつの間にか薄い雲に覆われており、男はその雲に沈み込んでいなくなった。そのまま何処かへ行ったかと思ったが、男は再び雲から頭をひょっこり出して、忘れ物をしたかのようにこう言う。


「あ、娘さんの連絡先だけ教えてくれない?」


 こういう手合いの男に会うと私はいつも思うのだ。

 娘が心配だと。



          ⚪︎



(‥スズメ。あいつは今頃どうしているかな)


 私が答えないのを見ると、男は鼻くそを付けたまま雲に潜ってどこかへ行ってしまった。

 辺りは暗くなり、知らぬ間に船は薄暗い雲に囲まれていた。

 

(まったく嫌なものだな。心配事をし出すと際限がなくなる)


 娘のことが気がかりになって気が回っておらず、船の進路はそのままになり、私は船ごと深い雲の中に入って行ってしまった。






 







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