2
まずは自分の肩から斜め掛けにしていた愛用のカバンを下ろして玄関の端に置く。自分も靴を脱いで横たわる目雲の傍に立ち、そこから中を伺うと、リビングのドアは開け放たれていて、消し忘れたのか部屋の電気はあちこち点いたままになっていた。
明かりが点いていたおかげでリビングのドアの向こうにソファーを確認できたので、ゆきは目雲の傍にしゃがみ声を掛ける。
「肩貸しますから、中に行きましょう? 風邪引いちゃいますよ」
いやいやと首を振るだけの目雲だったが、そのあと何度も優しく語りかけ続ける。
その間にもさらに少しだけ回復したのか、ようやく納得してよぼよぼと立ってゆきの肩と壁と頼りに足を滑らすように動かし始めた。
もうほぼ引きずるようにして部屋の中まで行くと、汚くはないが荒れた部屋が目に入る。ゆきはそれを気にする間もなく、扉の対面奥に鎮座する大きなソファーの前に行き、なんとか座れそうなスペースに目雲を下ろし、その左右に置いてある荷物や服をどかして、目雲を横にさせた。
目雲は目を閉じていたが安全な場所に帰ってきたと分かったのか、大きく息を吐くと、顔を歪めて苦しそうに首元に手を掛ける仕草を何度もするが、上手く指が掛けられないでいる。
「ネクタイ苦しいですか? 手伝いますか?」
ゆきが声を掛け、ネクタイを緩めると、目雲の手は次はワイシャツの上のボタンを外そうとする。ゆきが襟元も寛げるとようやく落ち着いたのか、手から力が抜けばたりと落ちる。
意識を失ってしまうのが怖くて、ゆきは敢えて話しかけてみる。
「気持ち悪くはないですか?」
目雲はゆっくりと首を横に振った。
「お水飲みますか?」
目雲はゆきの問いにコクリと頷く。
ゆきが住む隣と同じく、廊下への扉をちょうど真ん中にリビングの隣がダイニングになっていた。さらにそのダイニングの奥がリビングに向かう形のカウンターキッチンになっている。そのシンクの蛇口に向かったが、ふと心配になった。
キッチンと垂直に置かれているソファーなので、ダイニングを挟むと少し距離はあるが横になる目雲の顔をちょうど正面から見ることができた。
「目雲さん、ここのお水でもいいですか?」
浄水器付きの蛇口なのだが、水道水をそのまま飲むことにゆき自身はそれほど気にしないのだが愛美が飲もうとしない経験から念のため確認した。
そして目雲もその一人だったらしく、少し目を開け、キッチンの中にいるゆきを見ると首を振った。
それを気にするくらいには頭が正常に働いているのかなとゆきは目雲の状態を考察する。それとも本能で答えているのから遠慮なく正直に答えるのか。
ゆきは目黒に抱いていた思慮深そうな印象から、今の状態が普段の目雲なのか、判断が付かなかった。
「冷蔵庫開けて見てもいいですか?」
頷いた目雲を見て、冷蔵庫を開けるが見事に物がない。唯一と言えるほどの水のペットボトルを手に取るが、開封済みで半分ほど減っていた。
ゆきは部屋の荒れ具合とこの水を見て、果たして飲ませて健康に害のない水なのか怪しく思ってしまう。
「目雲さん、お水なさそうなんで部屋から取ってきます」
キッチンからそう声を掛けたが、目雲から反応が返ってこない。
心配になって、慌てて目雲に駆け寄ってその様子を伺う。呼吸が早く、胸が激しく上下している。
「息苦しいですか?」
ゆきは不安でその眉間に皺を寄せる顔をじっと見つめる。目は閉じたままだったが、ゆっくり首を振った。
起きているし、声も届いていると分かり、僅かにだけ緊張を解く。
けれど安心はできずもう少しだけ異変がないか観察する。目雲はそんなゆきが分かったのか、より深い深呼吸を繰り返しなんとか呼吸を落ち着けた。
ゆきはもう一度ゆっくり問いかけた。
「お水隣りから取ってきますね」
言葉の意味を理解するのに時間が掛かっているのかと、反応がなくても今度は少し待った。
時間にして五分。
落ち着かない呼吸と、深呼吸を繰り返す目雲をゆきはただ傍で見守った。
目も開かないままだったが、目雲がようやく口が動く。
「みず」
目雲の口から小さく漏れる声に耳傾け、できるだけ優しく答える。
「はい、なさそうなので」
また少し、呼吸音だけが響く。
息遣いと共に吐き出される言葉を聞き逃さないようにゆきは目雲の体に触らないぎりぎりでソファーに指を掛けてその口元に神経を集中する。
きっとそうしていなかったら聞き取れないほどの小さな声だった。
「かえって、きますか」
その意味が分からず今度はゆきがすぐに言葉を返すことができなかった。
「水、がかえる? かえす? 返さないといけないかってことですか?」
目雲は首を横に動かした。
「うーん」
水を貰うことに気が進まないのかと思ったが違うようだと首を捻るゆきを、目雲はうっすら目をあけてその様子を少し眺めているようだった。
だからゆきも困り顔でもう少しヒントをくれませんかと、目で訴える。
すると思いが通じたのか、目雲はため息とは違う大きい息を吐いて吸って、頑張って声を出した。
「帰って来ますか?」
目が合っていたせいなのか、その言葉の意味はゆきに届いた。
そしてゆきは微笑んだ。余程心細いのだと、普段の目雲なら絶対そんなこと言わないだろうとなんとなく思うゆきは、自然と柔らかい声で答える。
「ちゃんと帰って来ますよ」
目雲は荒い呼吸のまま、瞬きというには遅い速度で瞼を動かして、こくりと頷いた。
「目雲さん、一人の時に吐いたりしたら怖いので、横向きに寝れますか?」
今まで全く吐いている様子はなかったが、万一のことを考えてゆきがした提案を目雲は大人しく聞き入れて、ゆっくりとした動作でゆきの方に体の向きを変えた。
「カードキー借りていきますね」
「はい」
目はまた閉じた状態に戻ったが、今までで一番はっきりと返事があったのでゆきは少し安心した。
オートロックのためさっき玄関のシューズボックスの上に置いたカードキーと自分のカバンを持って部屋に帰りカバンを置いて、備えている二リットルの水とついでに自分の体調不良用に置いてある五〇〇ミリのスポーツドリンクも持っていく。
再びカードキーで玄関を開け廊下を抜け、開け放たれたリビングドアのあたりでゆきはいったん止まった。リビングのソファーで横になっている姿に変化はないが、ちょうどドアの方を向いている目雲とゆきは目が合ったからだ。
その瞳は今まで以上にひどく潤んでいる。
「小さいサイズのお水が家になくて、コップ借りますね」
目雲がどうしてそこまで飲むことになってしまったのか、不憫に思いながら自分が手助けしていることが少しでも心の負担にならないようにとゆきは明るく努める。
ペットボトルを抱えたまま、キッチンに行き食器棚からグラスを取り出してから、目雲のもとへ持って行く。
ソファー前のローテーブルには郵便物と思われるものが山のように置かれていて、その他に全て未開封のバランス栄養食の箱やシリアルバーや同じ用途のゼリー飲料が雑多に散らばされていたので、それをテーブルの端に少し寄せて、手の中の物を置く。
グラスに半分ほど水を注いで差し出すと、目雲は何とか肘をついて少しだけ上体を起こすと、差し出された水を飲みほし、そしてまたソファーに倒れこむ。
少しはマシになったようだが、ユキの目にはまだまだ放っておけるほど安心できる状態には見えない。
救急車はすぐには必要ない状態なのか、それとも友人でも家族でも呼んでもらうべきか、ちゃんと呼べるだろうかと、そうやって少し考え込んでいる様子を見せたせいか、目雲は不意にゆきに話し始めた。
「いつもは、こんなんじゃ、ない」
ゆきにそう話していても、目雲の視線はソファーに寝たまま天井を見ている。
唐突な話題にゆきの思考は止められたが、優しく微笑んで、はい、と頷く。
この返事にわずかに頭を傾け、ゆきに目を向ける。
開き切らない目がうるうるとゆきを見つめていたが、目雲は腕でその瞳を隠すように覆って「ちがう」と数度呟いた。
ゆきは、こんな姿になるほど普段は飲まないんだと言っているのかと、「大丈夫ですよ」と声を掛け慰めた。
すると前触れもなく突如起き上がった目雲は、ポロポロと涙を零す。
それでもその瞳でじっとゆきをみている。
驚きに固まりながらも、ゆきは初めて間近で目雲を真正面から見つめることになった。
乱れた髪に腫れぼったい瞼、濡れる赤らむ頬と歪む唇。
それでも、カッコいい人はカッコいいんだな。そんなことをゆきは思ってしまっていた。
もし自分が同じ状態ならきっと見てられないだろう、なんて想像して少し苦笑いしてしまった。
それをどう受け取ったのか、目雲はますます涙を流す。
「こんな、汚い部屋、自分の部屋じゃない、本当はもっと、きちんとして、きちんと」
ゆきの腕を力ない手でつかみ、まるで懺悔して許しを請うように項垂れて「違う」と、「きちんと」を繰り返す。
きっと普段からこの部屋の惨状に辟易していたに違いない。それでも片付けられない理由がきっとあるのだろうとゆきは察する。
そして妙な絡み方をし始めた事で、その様子が普通の酔っぱらいくらいには回復してきているのではないかと、ゆきの緊張感は少し緩和された。
腕をつかむ手にゆきが自分の手を重ねて、さするように包み込むと、目雲はじっとゆきを見つめる。
「きっと最近忙しくしてたんですね。大丈夫ですよ、私すぐ忘れちゃうんで、目雲さんも私に見られたことは忘れちゃって下さい。きっと明日には二人とも忘れてます」
「わすれる?」
子どもの様にきょとんとした顔になった目雲に、ゆきはますます笑みが深くなってしまう。
だから敢えて子供番組のお姉さんのようにはっきりゆっくり明るく話すことを心掛けた。
「そうです。それに、普段きちんとされているの分かりますよ。確かにお洋服とか郵便とか資源ごみとか散らかって見えますけど、食器とか本棚はきちんと整頓されてますし、シンクもとっても綺麗でした。生ごみなんかもちゃんと捨てられているみたいですし、ペットボトルも洗われて纏めて置かれてるし、段ボールも畳まれて積まれてるし。資源ごみって嵩張るから溜まると下に持っていくの大変ですもんね。だから忙しくても最低限のことは疎かにしないし、片付けができる人って分かりますよ」
ゆきはどうにか安心してほしくて、思い浮かぶ限り大丈夫の理由を説明した。
わざとたくさん話したことで、ほとんどはたぶん耳をすり抜けているだろうと分かっている。情報を飽和されることで酔っ払った頭でなんとなく大丈夫だと思わせることが目的だ。
それが功を奏したのか、目雲はぼんやりコクリと頭を動かした。
「うん」
その目雲の小さい子供のような返事が似合わなくて、でも可愛くてゆきはにこにこと笑ってしまう。目雲も涙が止まり今度はゆっくり横になり、幾分呼吸も落ち着いていた。
もうそのまま眠らせても大丈夫かなと、ゆきは何か掛けるものがないかと周りを見渡すが目ぼしいものがない。
秋も深まっているこの頃を思うと、夜の寒さで体を壊さないか心配になってしまう。
「目雲さん、お布団行きませんか? ここだと風邪引いちゃいますよ」
目雲はまた目を瞑って、首をゆっくり振る。
「じゃあせめて何か被ったほうがいいですよ、タオルケットとか大き目のバスタオルとか、コートとか近くに何かないですか?」
何でも良いと羅列するゆきに、目雲はのっそりと閉じられた扉の一つを指さす。
横に住んでいるゆきにはある程度間取りの予想ができるので、そこが寝室だと分かるのだが、さすがに躊躇う。
「寝室、私が見ちゃっても平気ですか?」
目雲の方は躊躇いなく頷く。
ゆきは仕方なく、こっそり気合を入れた。人の寝室をほぼ無断で覗く罪悪感を頭から払う。
「じゃあ、さっと入って取ってきます」
ゆきはこれ以上目雲のプライドが傷つかないように暗かった寝室の電気は点けず、リビングの光だけでできるだけ室内を見ないようにして毛布だけ持ってきた。ただちらりと見た感じではベッドが乱れているくらいで他はリビングほどすさんでいるようには感じられなかった。
「毛布掛けますね」
こくりと頷くしぐさで、まだ寝ていないことを知るゆきは、その後、静かな寝息が聞こえてから三十分ほど見守ってからコップに水だけ注いで、本当に覚えていないことを考えて無くさないようにカードキーだけ財布に戻してから部屋に帰った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます