3
そして次の日。
目雲はやはりというべきか忘れていなかった。
夕方、しっかり詫びをしにチャイムを押した目雲は、まだ普段以上に顔色の悪いまま、謝罪とお礼だと言ってコーヒーチェーンのギフト券をゆきに渡した。
なんとなく記憶を失うタイプじゃないよねと思ったのもあって、ゆきが逆にいたたまれなかった。たぶん目雲は醜態をさらしたと思っているはずだ。ゆきはそんなこと思っていなくても、あの涙を見てしまっているので、ゆきが真実どう思っているかはもう関係ないと、ゆきの方がなぜか申し訳なく思ってしまう。
それでも忘れた振りはせず律儀にやってきたことで、ゆきは目雲の誠実さを垣間見た気がした。
お礼も最初は遠慮したゆきだったが、昨日とは打って変わって無表情で淡々と謝る姿に、受け取ったほうが気が晴れるかもしれないと受け取り、絶対蒸し返すようなことは言うまいと黙って心に刻んだ。
それにしても水とスポドリが倍以上の価値になって返ってきた、とゆきは絶妙に嬉しいお返しに感心してしまった。
下手にこれ以上高価なものだったらゆきは絶対に受け取らなかったし、目雲の気にしようが値段に現れていたらと考えるとより一層申し訳なくなっていたと安堵した。
そんなことがあってからまた一か月が過ぎた。
すっかり寒さも本格的になり始め、ゆきは首元にぐるぐるとマフラー代わりにうっすらチェック柄のグレーの厚手の大判ストールを巻いていた。大学時代に買って随分年季が入っていたが、首に巻くだけじゃなく部屋でひざ掛けにしたり、出先で肩から掛けてくるまったりと、寒がりのゆきには大事なアイテムだった。
用事で一日外出していたゆきが、そのストールを口元まで引き上げてまだ慣れない寒さに気持ち速足で夕方マンションに帰ってくると、隣の玄関に既視感たっぷりの光景があった。今度は倒れこんではいなかったが、扉の前で蹲っている。
また飲み過ぎたのかなと思いながら近くに行き、後ろから同じようにしゃがみ込んだが不思議と前回のような酒臭さがない。
「目雲さん?」
声をかけても、うめき声しか聞こえない。
前回とは違うことを察知したゆきは今度こそ救急車だと、ポケットからスマホを取り出した。
けれど、その腕を目雲が掴んだ。
その冷たい手と、振りかえった目雲の震える瞳に、はっとしたゆきはゆっくりと小さな声を出す。
「めまいを起こしてますか?」
青ざめた目雲がゆきの手を掴んだままの手の甲で頭をささえて、「はい」と囁いた。
「鍵出しますね、とりあえず横になりましょう」
ゆきは前回と同じように転がっていた目雲のビジネスリュックから財布を出してカードキーを選び取り、素早く扉を開ける。
肩を貸して殊更ゆっくりと立ち上がらせると、泥酔している時とは違い、自身の体重を自分で支えようと必死ながらどうしてもふらついてしまう目雲をできるだけ揺らさぬようにして、今度は最大限休めるように躊躇いなくベッドへ誘導した。
相変わらず部屋の状態はひどく、忙しさは緩和されていないとゆきに伝えていた。
大きなベッドの端に座らせると両手で頭を抱えるようにする目雲のコートとジャケットを脱がせ、手伝いながら横にさせる。
前回と違い目雲はゆきの行動に遠慮する余裕がないのが分かる。
低血糖などの応急処置ができることがあるならば、何か教えてくれるかもしれないと目雲の傍にしゃがむが、うめき声以外に聞こえるものはない。
寝室のひんやりとした空気を感じ、ベッドのサイドボードにエアコンのリモコンを見つけて暖房を入れる。
「お薬ありますか?」
救急車を止めたことから、もしかしたらと思い聞くゆきに、定まらない揺れる手がキッチンの方を指さす。
ゆきは寝室を出て自分のカバンを下ろしストールを取りコートを脱いで、ソファーの脇に置かせてもらう。そのまま乱雑なキッチンカウンターから処方薬を見つけ出し、手を洗ってから次に冷蔵庫を開けると相変わらず何もない中に今回は一本だけ未開封の五〇〇ミリの水があったのでそれを手にベッドに戻る。
薄暗くなりつつある部屋の電気を薬を飲むために点ける。刺激を避けるためできるだけ変化を起こしたくはなかったのだが、薬を間違うわけにはいかなかったのでゆきは心で目雲に謝った。幸いに寝室だからか淡い色の光で、目雲もより苦しみだしたりはしなかったのでゆきはほっと息をついた。
「しんどいと思いますが、薬だけ飲みましょう。これ全種類飲みますか?」
「……はい」
めまいと、もしかしたら頭痛もあって頭を振れないのかもしれない。弱弱しい声で何とか返事をする姿が辛さを物語っていた。
ゆきはベッド脇に膝をついて、やはりゆっくりと目雲の上体を起こすと、袋に書かれている薬の量を声に出して確認しながら、支えていないと倒れこみそうになる目雲の口に薬を含ませ、ペットボトルの水をそこに注ぎ入れるのを三回繰り返した。
再び横にさせると、苦しそうに顔を歪める目雲の姿に心が痛む。
一応歩くときやコート脱がせるとき、薬を飲む姿で、体のどこにも今のところは麻痺が出ていないことはゆきは見て取っていた。
歪む表情を少しでも和らげたくて、ベッドの傍で膝立ちになり目雲を観察する。
「ネクタイ取りますね」
前回必死に気にしていた姿にゆきはそうした方が良い気がして静かに声を掛けると、目雲からも拒絶の反応はなかった。
そっと慎重に抜き去り、首元のボタンも外す。そして少し様子を見守ると、目雲はベッドの上で丸まるように横を向き、頭を抱え、呻く。
ベッドに運ぶ途中感じた冷えた体を思い出しふわりと毛布を掛けると、ユキは部屋を出ていこうとした。
「ここに」
目雲は背中を向けて見ていない、ゆきもできるだけ音をさせないように立ち上がったのだが、神経が尖ってるのか目雲はゆきの行動を感じ取った。
震える声がそれでもはっきりゆきに届く。
人の気配も邪魔になるかと思ったゆきだったが、何も聞くことなくそっと戻りベッド横の床に座った。そのまま声もかけず、じっとベッドの上で苦しむ目雲をただ見守った。
きっと目を閉じても揺れている感覚だろう、目を開ければ世界は歪んでいて視覚で認識できるものなんてないのかもしれない。音だってどんな風に聞こえているか分からない、耳鳴りさえしているかも。今の目雲の感覚は、すべてがきっと苦しくて辛いに違いなくて。
そう想像しながらも、もうゆきにできることは何もないと分かっていた。
ただ、一人でその苦しさを耐えるだけなのは、それも辛いんだと分かる。
誰でもいいから、この世界には一人ではないと示す人間が欲しい。
ゆきがそれを証明する人間になれるなら、近くでただじっとしているのもなんてことはなかった。
そもそも万が一脳の疾患だったらと不安もあり、リビングで様子をみるつもりだったので、場所がどこになろうと邪魔でないなら問題なかった。
しばらくすると薬が効いてきたのか、のたうつような動きと呻き声が減る。
たくさん置かれている枕に頭を預けようとするが、じっとしていることが辛いようで動きたくないのに、動かざるを得ないように頭の位置を何度も変える。
さらに時間が経つと、やっと目雲は仰向けになり腕で目を隠したまま動かなくなった。
「すみません、こんなことばかり」
小さな声が、音のない室内に響く。
「大丈夫ですよ、少し楽になりましたか?」
ゆきもベッドの端に寄り、小さな声で尋ねる。
「はい」
「吐き気はありませんか?」
「ありません」
ゆきはひとまずほっと胸を撫でおろした。
腕で隠れているのであまり顔色は分からないが、声には少し力が戻ったようだった。
「電気消しましょうか」
部屋に入ったときはまだ日暮れ前で電気を点けてもそこまで強いと感じなかった明るさが、すっかり日が暮れると淡い色の光でも刺激になるのではとゆきは心配になった。
「平気です」
ゆきはここで帰るべきかどうか悩む。
いて欲しいと言われたが、やや落ち着いた今、居続ける方が迷惑な気がして仕方ない。
迷っているゆきの前で、目雲は自力で起き上がりベッドヘッドに持たれるように座った。
「水、貰えますか」
ゆきは頷いて、手元のペットボトルを少しだけキャップを緩めて渡す。
それを受け取り口に運ぶ姿に、自分で飲める程度には良くなったのだと見て分かる。
「あと何か手伝うことはありますか?」
水を飲み終えた目雲は、蓋を閉めたペットボトルを毛布の上で握りこみ、天を仰ぐようにベッドヘッドに頭を預けた。
葛藤しているのだろうとゆきは思った。
酔っ払ってる時とは違い理性が完全に働いているはずで、目雲の理性はゆきが感じる限りでは人に迷惑を掛けることを良しとしていないだろうと想像できた。
ゆきの手をこれ以上煩わせることと、自分の体調を天秤にかけ、目雲は自分でできることを考えているのだろうと、その結論を大人しく待つ。
そのまま少し深呼吸を繰り返し、ようやく頭を持ち上げた目雲は今日初めてしっかりゆきと目を合わせた。
「着替えを取って来てもらえますか。乾燥が終わったパジャマがそのままだったと思うので、それをお願いします」
今動けば自分がどうなるか、目雲にはきっと予想ができたのだろうと、頑なでないところも賢い人だとゆきは安心した。その分今の状況が異常事態だともさらに思わずにはいられなかった。
目雲の力ない声がゆきに伝えている、申し訳ないと。それでも今、ゆきに助けてもらった方が回復が早いと判断できたことがゆきにも伝わっていると、言わずでも目雲に分かるように笑顔で頷いて見せた。
ゆきは寝室から出ると、ランドリールームを自宅との比較で推理し見事迷うことなく見つけ、洗濯機からパジャマを持ってきた。
「ドアの外で待ってますから、着替え終わったら教えてください。倒れたりしたら大変なので、その後ちゃんとベッドに戻ったのを確かめたら帰ります」
「お手数おかけします」
ゆきはパジャマを手渡したらそのまま部屋の外に出てドアを閉める。
そのドアを背にゆきはリビングとダイニングを見回す。物が散乱しているが、あくまで整頓できていないだけで分類はされているし、臭いを発するようなものはやはり処分しているようで部屋には異臭もない。
足の踏み場がないなんてことも当然なく、むしろ床に物を極力置かないようにするための机やソファーの上が乱雑になっている印象だった。それでも壁際には服の山や、資源ごみの山ができていた。そしてそれは前回より量が増えている。
それとコンビニの未開封の箸や空のレジ袋も片付けきれずにテーブルの隅に集められていて、そんなふうに生活しているとどうしても出てくるすぐにゴミとするのに躊躇うものがあちこちに分類だけされていた。
少しすると中から声がかかる。
「もう平気です」
そおっとドアを開ける。
「失礼します」
ゆきが入ると紺のパジャマを着て、しっかりとベッドで上体を起こして座り、毛布を腰まで掛けた目雲がいた。
「無事着替えられたみたいで良かったです、もう平気そうですか?」
「このまま寝てしまえば、治ると思います」
そこにはまだ症状は引いていない事実が察せられたが、ここまで自分の状態を把握している目雲なら本当に大丈夫だろうとゆきはやっと安心して頷いた。
「ゆっくり休んで下さいね、ではお邪魔しました」
「ありがとうございました」
ゆきは笑顔でお辞儀をして静かにドアを閉めると荷物を手に取り、今回はカードキーは財布に戻さずにそのまま音をたてないように玄関を閉めて、部屋まで帰った。
鍵を以前のように戻さなかったのは、あまり勝手に鞄や財布に触られるのは嫌だろうと、シューズボックスの上ならすぐに見つけられると思ったからだ。
自宅のソファーに座りなんとなく一息ついてから夕飯を済ませたゆきはゆっくりとお風呂につかり、思わぬ出来事を振り返る。
他人が倒れているのに遭遇するなんてことはあまりないはずなのに、お隣さんが二回もなんてすごいこともあるなと考える。
ひと月前のことがあった後、部屋に寄った愛美に、今までも目雲が倒れていたことがあったのか聞いた時は、全くなかったと聞いた。住んでるのかも分からないくらいほとんど顔を合せなかったらしいから、イレギュラーなことだったんだと思っていたのだが、気づかなかっただけで、今までも独り倒れていたことがあったのだろうかとゆきは夕方の目雲を思い起こして胸が痛かった。
体の弱い人なのか、心労が祟るほど忙しくなってしまっているだけなのか。
今日はちゃんと休めるといいなと、ゆきはそんな風に一人で祈った。
その後風呂から出て、すっかり寝支度整えてからベッドで本を読んでいた時だった。
部屋のインターフォンが鳴ったのだ。
「え」
一瞬で恐怖に駆られたゆきは身を固くしながらも放置はできず、そのまま足音を立てないようにしてインターフォンのカメラだけを確認する。
どういうわけが、画面は真っ暗で何も分からない。
しかし、エントランスからではなく、玄関前だと知らせるランプが光っている。
時刻は午前零時直前、誰かが来る時間ではない。
ますます怖くなるゆきだが、もしかしたら愛美かと考える。それならエントランスを通過した理由は説明できるし、手荷物が多いとか何かの都合で玄関ドアを開けられないのかもしれない。
けれど、そんな楽観だけで玄関を開けることはできないので、スマホで愛美にかけてみようとする。
そんな時またインターフォンが鳴る。さっきは本に夢中で聞き逃していたが、確実に玄関に来客を知らせる鳴り方をしていた。音は一緒だが、回数が違うのだ。
「どうしよ……」
スマホを握り締めてかすかに震えながら、もう一度カメラを確認すると、今度は人影が確認できた。
どうやらインターフォンの横に手をついて項垂れているようだった。
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