第一章 隣の部屋に住む人は

 夏が始まった。

 昼中ゆきと愛美で引っ越しの作業中に、玄関前でたまたま隣の赤ちゃんのいるご夫婦に会い挨拶ができた。

 粗品を渡して挨拶を終えた後、部屋で段ボールを開けながら愛美がゆきに感謝を口にする。


「ありがとね、挨拶まで」

「メグが長く住む部屋だもん、最低限の礼儀は守らなきゃ。小さなお子さんがいるご家族だったら隣に見知らぬ人が頻繁に出入りしてたら不安になるかもしれないし」


 賃貸では最近は挨拶をしないことも多いというのはゆきも知っていたが、分譲というのとゆきの拘りでそこはきちんとしておきたかった。

 愛美はゆきのあまり数の多くない段ボールの一つを開封しながら、もう片方の住人を思い出していた。


「前にも言ったかな、反対側は男の一人暮らしだったはず、ほとんど顔合わせたことないけど。あちらの方が先に入ってて、挨拶行った時に会ったけどたぶん三十前後くらいの結構いい男だった。愛想はそんなに良くなかったけど、悪い人ではない感じよ」


 ファミリータイプの分譲マンションに一人暮らしする人は珍しいと思っていたのだが、そうでもないんだとあまり不動産に興味がないゆきは感じていた。


 粗方片付くと愛美はその日も実家に帰らなくてはならないと出かけていき、引き続き片づけをしていたゆきは逆側のお隣にも早めに一言挨拶しておきたいなと思っていた。


 細かい片付けが終わり、ゆきが二十四時間ごみ捨てが可能なマンションだったことに感動しながら、夜もまだ早い時間にごみステーションに行った帰りのエレベーターで数人乗り合わせた人がいた。


 その中でも目立っていたのがスーツ姿のなかなか見ない程の背の高い男性で、ビジネスリュックを背負っていた。

 センター分けの長めの前髪にサイドも耳掛かるほどの長さの黒髪ながら、目にかからないように毛先の癖もきっちりとスタイリングされていて清潔感がある。洗練された雰囲気を持っていて、あまり人の容姿に注視しないゆきでも気になるくらいには整った造作の男だった。

 偶然にも同じ階に降り、まるでゆきが後をつけるかの如く歩いていくと、その男性は一番奥の扉の前に立った。それがゆきの隣の部屋になるこの階の角部屋だった。

 ゆきは思いかけず訪れた挨拶のチャンスを逃さなかった。


「あの」


 玄関のノブに手を掛ける姿にゆきが声を掛けると、驚いた様子もなく首だけ振り返りゆきと目を合わせるとその男性は会釈だけを返した。


「隣でルームシェアすることになった篠田です」


 頭を下げたゆきに応えるように、今度はゆきの方に体も向けて同じく頭を下げた。


目雲めくもです」

「これからよろしくお願いします」

「よろしくお願いします」


 愛美が言っていたように愛想は確かにないようで笑顔もなくやや顔色も悪いが、声の柔らかさから拒絶感や嫌悪感は感じられなかった。


「今、粗品お渡ししてもいいでしょうか?」

「はい」


 急いで暗証番号を入力し開錠して室内に入ると、玄関に準備してあった紙袋を取って戻る。目雲は同じ場所でキレイな立ち姿で待ってくれていた。


「ありきたりな物ですが」


 ゆきが両手で紙袋を渡すと目雲も両手でそれを受け取る。


「どうも」


 終始表情が変わることはなかったが、不愉快な雰囲気は一切なく、ゆきの行動を受け止めていた。


「では、失礼します」


 引っ越し挨拶は簡潔に、そうネットで見た情報をゆきは忠実に実行し、お互いにまた会釈してそれぞれの部屋に帰える。

 どちらのお隣さんもいい人そうだと、ゆきは一仕事終えた気分で新しい部屋で肩の力を抜いた。


 それからあっという間に三カ月が過ぎた。

 ゆきの生活は以前の部屋とさほど変わることはなかった。言っていたとおり愛美はほとんど帰ってくることはなく、ルームシェアなのに一人暮らしに近い。


 ゆきがしている二つの仕事のうちの一つである定食屋のアルバイトには、前のアパートからだとそれほど離れていなかったので自転車で行っていたが、今はマンションが駅に近く、そのままの路線で二駅ほど。店自体も駅近なので、慣れてしまえば苦ではなかった。


 定食屋のバイトは他の学生アルバイトが入りづらい平日の昼間で週に二から四回入っていた。生活費のためというよりは、人手不足の店を手伝いたい思いと、人との一種のふれあいのようなものだった。もう一つの仕事がほとんど在宅なので、それだけにしてしまうとなんとも人との接触が乏しくなってしまうからだ。


 新しい部屋にも生活にもすっかり慣れたゆきは、金曜日のバイト終わりに愛美とはまた別の友人と飲みに行っていた。友人の方が明日も仕事があり、それほど遅くない時間に帰ってきたのだが、マンションのエレベーターから降りて、部屋に向かっていくと、見慣れない光景が待っていた。


 ゆきは慌てて駆け寄っていく。


「大丈夫ですか!」


 廊下の突き当りでドアの下の方に背中を付ける形でスーツの男性が完全に倒れている。

 ドアを背もたれの様にして座っていたのがそのまま横に倒れてしまって、起き上がれないでいるといった感じだ。

 荒く激しい呼吸音で生存自体は確認できたが、目を閉じているので意識があるのかが分からない。


 その人物が一瞬誰か分からなかったのは、あまりに日頃のイメージからは想像できない姿だったからだ。

目雲とは引っ越し後の挨拶から、ほんの数回しかマンション内で出会わなかったが、ゆきの挨拶には律儀に返してくれていた。駅で見かけたこともあったが、長い脚のストロークで颯爽と歩く姿は華麗と言えるほどで、歩く速度もゆきではとても追いつけるわけもなく、たとえ同じ方向に歩いていても、いろんな意味でただ見送るだけだった。

 いつもスーツ姿で清潔感があり、だらしなさと縁遠くむしろ風貌や無駄のない動きだったからこそ一見神経質そうな空気すらあった。けれど、挨拶をするときは他人を突き放すような雰囲気はなく、笑顔はなくても穏やかで落ち着いているといった印象だった。


 その雰囲気からは想像できない状態で床に倒れていて、ゆきは動揺以上に現実として受け入れがたい思いだった。


 それでもゆきはさっと意識を切り替えた。

 そばにしゃがみ、様子を確認する。以前と同じようにきっちりとしたスーツ姿ながら、酒の匂いがひどく、泥酔しているのが分かる。揺らしたりしないように触れることはせず、何度か耳元で呼びかけるとゆっくりと声の方に顔が向く。


「大丈夫ですか? 救急車呼びましょうか?」


 うっすらと開いた目は真っ赤に充血している。

 辛うじてゆきの声は届いているらしく、首を振ったり力なく手を振ったりする。


「大丈夫ですか、目雲さん」


 その声に反応したのか、目雲はゆらゆらとドアの取っ手に手を伸ばし、ゆきがハラハラ見守る中その取っ手に掴まりながらなんとか立ち上がった。だが頭は揺れ足元はおぼつかず、慌ててゆきが支える。

 理性なのか本能なのか、支えるゆきになんとか頼りきらないように体に別の力が入っている気配を感じた。


 けれども一人で立ち続けることは叶わず、ゆきから完全に離れることはできないでいた。


 それでも意識はどうにか部屋に入ることに向かっているようで、目雲はドアの暗証番号を入力しようとするのだが、手元が定まらないのか番号を間違えているのか、エラーの電子音が鳴るばかりで鍵が開かない。

 ゆきは自分が聞き出して代わりに押すべきか悩みながら、一つの可能性を思い浮かべる。


「目雲さん、カードキーって持ち歩いていませんか?」


 このマンションの鍵はエントランスと自宅とで二か所あった。エントランスの方は端末に暗証番号を入力するかカードキーを使う、あとはハンズフリーのキーポルダーのようなものを持っていれば何もせずにマンションに入ることができる。きっと目雲はそれで玄関まで辿りついたのだろうと状況からゆきは考えた。


 自宅用の鍵は暗証番号を入力するか、カードキーをかざすかのどちらでも開けることができるようになっていた。


 一人暮らしの目雲がわざわざカードキーを持ち歩かないかと思いながらも聞いてみると、ゆきから離れ、壁伝いにしゃがみ込みながら目雲はフラフラと不自由な手で床にあるカバンをあさりだす。

 しかし、なかなか目当ての物は見つからないらしい。


「良ければ代わりに探しますよ」


 暗証番号を聞き出すよりも少しだけハードルが下がっていたゆきは手助けを申し出る。


「さいふ」


 吐息のような話し方で諦めたように座り込む目雲の前で、カバンを開くとすぐに財布は見つかる。

 これを見つけ出せないでいた目雲のことがゆきはますます心配になった。


「財布自分で見られますか?」


 ゆきが差し出した財布を見詰めはするが、目雲はすっかり自分を諦めたのか、僅かに首を振った。


「じゃあ代わりに出しますね」


 黒いシンプルなおそらくブランドものだと思われる長財布を開き、見覚えのあるカードを中から取り出すと、覚えていられないかもしれないが念のため目雲の見えるように財布を鞄に戻してから玄関のリーダーにかざしてドアを開けた。


 もう立ち上がれなさそうな目雲だったが、ゆきだけでは何とか協力してもらわないと男性だと言うこともさることながら身長差がかなりあって運べない。


「目雲さん、もう少しだけ頑張ってください」


 ゆきの声に最後の力を振り絞ったのか立ち上がり、ゆきが肩を貸してなんとか玄関の中まで入れると、すぐそばの廊下で目雲は倒れ込んで丸くなってしまった。

 外のカバンも部屋に仕舞うと、ゆきは目雲の靴を脱がせてその光景をしばらく眺める。


「このままほっとくのは恐いな」


 思わず呟くと、目雲の肩を叩く。


「目雲さん、本当に救急車呼ばなくて大丈夫ですか?」

「だ、い、じょう、ぶ」


 振り絞るような声ながら、ゆきの声は届いていると確認できた。

 ほんの少しだけ呼吸の荒さが緩和されてきてもいる。

 何とか意識があり、正しい反応があるので、ゆきはひとまず部屋の奥まで運ぶことにした。



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