恋。となり、となり、隣。

雉虎悠雨

プロローグ

 友人の自宅に呼び出された篠崎しのさきゆきは三人掛けのカウチ付きソファーの前に座り、お気に入りの缶チューハイに口を付けた。


「うん、美味し」


 肩に付かない程で切りそろえられたブラウンの髪を手首のヘアゴムで縛り、もうひと口。


 ゆきを呼び出した家主はカウンターキッチンの中にいた。


「ごめん、急に話があるなんて」


 キッチンから手作りのつまみを両手に持って、ゆきの向かいに座ったのが友人の伴愛美ばんめぐみ

 二十五歳のゆきとは五つ離れた年上だが、ゆきの大学時のバイト先に常連客として来ていてそこで出会ってから、友達として親しく付き合っている。


 ソファー前のローテーブルに皿を並べる姿を見ながら、ゆきはその美しさに見惚れていた。

 意識して作られたボディラインなのだとゆきは知っていたし、今日の愛美は緩く巻いたロングヘアーにナチュラルなメイクをしている。愛美のメイクは日によって振れ幅が広いので、それを見るのもゆきの楽しみだった。


「夕方から予定もなかったし、あらためて頼み事なんて言うからちょっと構えてはいるけど」


 梅雨入りしたと宣言があって少し経ったが、中休みなのか、ここ数日は晴れが続いていて梅雨時期にしては気持ちのいい日だったのだが、電話の向こうの愛美の声はそれを知らないような浮かないものだった。

 現在も愛美は唇をかみ苦しそうな仕草をする。それがゆきに話の深刻さを伺わせた。


「うん、無駄に引っ張る話でもないから先に言う」


 そういって自分の缶ビールを煽った。

 ゆきは自然と眉が下がり、愛美を見つめてしまう。


「そんなに重大な悩み?」


 ゆきの言葉に愛美は答えず、唐突に話し始めた。


「この前ゆきさ、アパートの更新まだ先だって言ってたよね?」


 何気なく話したことをゆきは思い出す。


「うん、あと一年くらいあるかな」

「引っ越すつもりないって分かってるんだけど、引っ越ししない?」

「家変えろってこと? それくらいの貯金あるから大丈夫だけど、あの部屋なんかダメだった?」


 大学の途中で引っ越してからまもなく七年住んでいる独り暮らし用のワンルームがゆきにはとても快適だったので思い当たることがない。愛美も何度も来ているので、急に何があったのか気になってしまう。


「あの部屋の問題じゃないのよ、むしろ問題はこの部屋」


 愛美は指でぐるりと部屋を示した。

 三LDKのファミリータイプの分譲マンションは愛美の持ち物だった。


「ここ? 買ってから二年くらいだよね? 気に入ってたのにどうして」

「いや部屋ではなく私の問題だった」

「メグの問題? ホントに何があったの?」


 渋い表情になった愛美は少し言い淀んだ。


「ちょっと実家で問題が起きて、お金がね」

「お金?」


 愛美は確かに不安定な仕事をしているが、その年にしてはかなり稼いでいるし、さらに人生設計もしっかりしていて、資産形成の意味も含めて分譲マンションを買っていた。当然貯金も投資もしていて、お金に困る要素とは程遠いようにゆきには映っていた。


「そんなに足りないの?」

「すぐに生活が破綻するってことはないの、きちんとローンも払えるんだけど。ただ今までみたいに自分だけで好き勝手してとかできなくなりそうなのと、いつどんな出費があるか予想できなくなってるのもあるし、ちょっとでも蓄えておきたい」

「今すぐ困ってるってことじゃなくてとりあえず良かった」


 ゆきと比べ物にならない程稼いでいる愛美が困っているとなるとゆきが金銭面で助けることは難しいレベルの話だと推測できてしまうので、それほどの事態ではないことにゆきはほっと胸を撫でおろした。


「ありがとう。お金の方は本当はどうとでもなるんだけど、もう一つ事情があって」

「うん」


 そっちの方が本当の理由だと愛美は言った。


「今ね、ほとんど実家の方に帰ってて、この家に戻れてないの」


 その話を以前から伝えられていたゆきは愛美が話す以上の詳細を聞くのを避けていた。それは聞かなくとも精神的にも肉体的にも楽な状況ではないと分かっていたからだ。

 それでも、自分の城だと心の底から喜び、自慢していたこの部屋にほとんど帰ってこられないほどだとはゆきにも分かっていなかった。お金のこともきっと実家関係だろうと理解した。


「そんなに大変なんだ」


 愛美は正座までして姿勢を正し、ゆきをまっすぐに見つめた。


「それで、厚かましいお願いだとは分かってるんだけど、この家に住んでもらえないかと思って」


 ゆきは目を丸くした。


「え、私? 住んでいいの?」


 引っ越すつもりも今の家に不満もないゆきだったが、今いるマンションの条件の良さは愛美の過去の熱弁でよく知っていた。

 愛美は条件以上に心情を話してしまえるほどのゆきだからこそだった。


「ゆきがいい。光熱費はいらないし、家賃もいらないから。こっちが住んでもらいたいの」


 お願いと頭まで下げる愛美にゆきは面食らうばかりだが、それでも冷静に考える。


「光熱費も払うし、家賃も今と同じくらいしか払えないんだけど、それくらいは払うよ。でもそれだったら貸し出した方がもっと家賃貰えるんじゃない?」


 少しでも蓄えたいならば、そっちの方が金額が大きくもらえるはずで、愛美の願いが叶うのはそちらだと思ってだったのだが、愛美が最近の疲労の籠った息を吐きそれと共に、ビールの缶を持ち上げた。

 けれど耳に髪を掛けなおしたあと、ビールを飲むでもなく、缶を眺めている。


「いろいろ考えたんだけどさ、ゆきに迷惑掛けることになるのも分かってるのに。いろいろ言い訳をね、考えちゃって。貸す人探すのも大変だし、すぐ入ってもらえるかも分からないからとか。結局この部屋に執着してるのよ、私。だから赤の他人にこの部屋に入ってほしくないの。私の荷物はそのままがいいし、たまに帰ってきたいし。帰れるところがあるっていうのが大事っていうか。全部私の我儘なんだけど、分かってるんだけど」


 部屋を買い、受け渡し日に愛美が鍵を初めて手に入れた時からゆきはこの部屋を知っている。その時の愛美の喜びようも同じく知っているが故に、お金の問題ではないのだなと理解することができた。


「でも、それなら放っていてもいいかなとも思うんだけど違うの? 帰りたい時だけ使って、それまで無人でも」


 ゆきは別に断りたいがために言っているのではなくて、より愛美にとって利のある方法を選べないのかと模索していた。自分が住んでしまうことで愛美が本来求めているものを諦めることになるのはゆきには見過ごすことはできないからだ。

 愛美もそれを分かってくれているからこそ、ゆきに頼ろうとしていた。


「人が住んでない家ってなんか淀むのよ。この数カ月で分かったの。空気が流れないからなのか、ほこりが積もるからなのか、久しぶりに返ってきても落ち着かなくて」


 人が住まなくなった家は傷むのが早いというのはゆきでも耳にしたことがある話だったから、だから淀むというのもあるのかとゆきは改めて部屋をぐるりと見渡した。


「そうなんだ。一軒家ならなんとなく分かるけど、マンションでもそうなんだ」

「何かが悪くなるってことは、たぶんないと思うんだけど。わかんない、まだ何カ月も空けたことはないから」


 愛美の広いリビングはかなり整っている。大画面のテレビが壁に掛けられていて、大きな観葉植物もいくつかアクセントに置いてあり、ソファーもダイニングテーブルもシェルフも絵画も照明もあるので物がないという印象は持たないが、色も統一されており、小物も不要なインテリアも生活感が滲むようなものは目に付くところには一切ない。モデルルームのようだとはまさにこのことだとゆきはいつも思っていた。


 ゆきは愛美が作ってくれた角切りこんにゃくの甘辛焼きを一つ口に運ぶ。一味がアクセントになってお酒が進む。

 愛美が最初に煽ってから全くビールに口を付けていないのをゆきは分かっている。飲むのが好きな愛美が酒が進まないことが心情の表れなのだ。

 どちらかと言えば気が強い印象を持たれることの多い愛美が不安げな表情でゆきを見つめている。


「ダメ?」


 ゆきの前ではそんな姿もよく見せてくれるので、そんな愛美の本当は人に気遣いができて、心配性で、温かい人間性が大好きなゆきは愛美の不安を吹き飛ばすつもりで大きく首を振った。そして明瞭な声で答える。


「全く、何も、ダメじゃない。私でいいなら、こんないいところ有難いのはこっちだよ。駅も近くなるし、というか、本当に私でいいの? 極力この部屋を維持できるように暮らすけど、たぶんこのままは無理だと思うよ?」


 愛美は瞳を潤ませる。


「引っ越す気なかったのにごめん、でもいてくれるならゆきが良くて。もちろんゆきの暮らしやすいようにしてくれて構わないし、客間になってるところをゆきの部屋にするから。あとねゆきの今のあの部屋の雰囲気私好きなのよ」

「そうなの?」


 対照的とまではいわないが、隠すつもりがない生活感がある家をまさか愛美にそこまで気に入られているとはゆきは思っていなかった。


「すごく落ち着く。この部屋とはまた別の感覚なんだけど、寛げるのよ。それも含めてゆきがいいの。ううん、ゆき以外じゃ無理」

「あれま、それは光栄なことだわ。じゃあ住んであげても良くってよ」


 あまりに愛美が何度も謝るので、ゆきはわざとそう言うと茶化すように座ったまま腰に手を当てて胸を張った。

 ゆきのそんな心遣いに愛美は申し訳なさと感謝で涙が零れそうになる。


「ありがとう、本当に……」

「こちらこそ、楽しみだよ。メグもたまには帰ってきてくれるんだよね?」

「もちろん」

「そんな嬉しいことないよ、こんな風に飲めるってことでしょ?」


 缶を持ち上げ笑顔のゆきに愛美は涙を振り払って大きく笑った。


「よし飲もう!」

「よし! 新生活に乾杯!」

「乾杯!」


 愛美の作るヘルシーでとびきりお酒に合うつまみを肴に宴に突入した。愛美の実家の愚痴と仕事の話もそんな肴の一つだった。

 その数週間後の梅雨が明けたばかりでかなり汗ばむ日、ゆきは引っ越しをした。



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