残り火

鳥尾巻

3月の朝

 3月の肌寒く凍えた朝に虚ろな気分で毛布を手繰り寄せた。厚い遮光カーテンの隙間から差し込む光が白々と室内を照らし、傍らに眠る男の肌をゆっくりと染める。昨晩交わした熱はとうに冷め、再び彼の体温を求める気も起こらないまま、私は毛布の頼りない温もりに縋りつき、もう一度眠りの中に逃げ込もうとした。どこかでキジバトが鳴いている。それほど田舎でもないのに、どこで鳴いているのだろう。

 長閑な声に耳を澄ませ目を閉じても、一度冴えてしまった頭はあの蕩けるような微睡まどろみを運んでは来なかった。今日は休みだからもう少し眠っていたいのに。すっかり目が覚めた私は渋々起き上がり、ベッドのあるロフトから下の階を見下ろした。

 通い慣れた彼の部屋。使い込まれた布張りのソファと青いローテーブルの向こうには、こじんまりとしたキッチンスペース。寝床で本を読む習慣のある彼が床に雑多に積んだ本と、散乱した衣服の間から自分の下着を拾い上げ、Tシャツを身に着けた。毛布を彼の肩に掛け、床に降り立つと裸足の足裏がじわりと冷えて思わず身震いする。 


 大学から付き合い始め、お互い社会人になり就職で遠距離とも言えない中途半端な場所に転勤になって3年が経つ。こまめに連絡を取り合い、週末や長い休みの間はお互いの家を行き来する生活。ずっと変わらないと、変わりたくないと思っていたはずなのに、今、肌に迫る冷気のように、曖昧な心情の変化が私の心に染み込み始めていた。

 全く飲む気はしない珈琲の為に機械のスイッチを入れる。この珈琲メーカーは私と一緒に買いに行ったもの。作り付けの食器棚の上段から出した2人分のカップは色違い。思い出はたくさんあるけれど、それが私の心を温めてくれないのはなぜだろう。珈琲の香りが漂い始め、立ち昇る湯気をぼんやり見つめていると、後ろから近づく足音がした。

 振り向くと、寝癖のついた頭を搔きながら彼が立っている。私の視線よりも幾分上にある目は眠そうに半分閉じられている。


「おはよ。いい匂いだね」

「飲む?」

「うん。ありがと」

 

 何気ない会話がくすぐったかったのは最初の頃だけ。私は珈琲の上に浮かぶ白い蒸気を崩すようにそっと吹く。その息と一緒に、何も意識する間もなく声がするりと口から漏れた。


「ねえ。別れようか」

「急だね」


 唐突な私の言葉に驚いた風でもなく、彼が答える。物理的な距離が開いて、終わりの予感はいつもあったけれど、私達は上手くやっていたはずだった。お互いのズレを埋める努力も怠らなかったし、好きな気持ちは変わらないと思っていた。突飛なことを言って彼の気持ちを確かめたい訳でもない。このまま一緒にいるのが自然になって、ゆくゆくは結婚して家庭を作るのだと漠然と考えていた。子供が出来、皺が増え、2人で老いていく未来は曖昧過ぎて蜃気楼のように心許ない。

 いつかの話をするたびに、本当にそれでいいの?違う未来はないの?と問いかける自分の声が日に日に大きくなる。多分どちらを選んでも私は後悔するのだろう。


 それでも2人で築いてきた瞬間はどれも忘れたくないと願い続けていた。川べりの道を歩いた時の草の匂い、好きなことを饒舌に語る無邪気な瞳、夕暮れに影差す横顔、つまらない口喧嘩をして口も利かずにいて、お互い寂しくなってしまった夜。

 けれど私の心臓を沸き立たせていた炎は、いつの間にか勢いを収め、消えかけている気がする。人によってはそれが愛だというのかもしれない。湿り気を帯びた惰性が、赤々と燃え立つ熱を柔らかく温かい水蒸気に変えて、心を包むように。


「ずっと考えてた。嫌いになったんじゃないよ。でももうなんか無理かなって」


 私はカップをシンクに置いた。言い訳がましい言葉を悔いて、珈琲で少し温まった自分の体を抱き締めるように腕を組んだ。ただ私が欲しいものはもうここにはないと感じる。

 時々の逢瀬が義務になるのも、寂しいだけで求め合うのも違う。そんなことを理由にするのは、2人で過ごした時間に対して誠意がないだろうか。けれど好きに理由はいらないのに別れに理由を求めるのは、潔癖が過ぎるのかもしれない。

 彼もカップを置き、肌寒さに鳥肌の浮いた私の腕を優しく擦る。大きな手の平の温かさも、いつものように無言で私を抱き寄せる腕も優しくて、泣きたくもないのに涙がこぼれそうになる。この腕が好きだなと残り火のような気持ちで思う。


「分かった」


 私の頭上でくぐもった声がする。低くて穏やかなこの声もとても好きだった。「どうして」とも「嫌だ」とも言わない。そもそもそんなことを言って縋るタイプでもない。そこまでの熱量が彼の中にも既にないのだろう。

 それが別れの儀式であるかのように、私達はしばらく無言で抱き締め合っていた。そのうち彼の骨っぽい指先が私の背を撫で、項を擽り、鎖骨を辿った。手の平はそのままTシャツ越しに胸を包み、肩口に彼の頭の重みが乗る。


「……別れる前にもう一回しない?」

「しない」


 こういうちゃっかりしたところは嫌いだったな。でも感傷めいた気持ちを吹き飛ばされ、つい笑ってしまう。

 私は彼の体を無理矢理引き剥がし、空々しい空気を破るように、遮光カーテンを開けに行った。窓の外には灰色に霞む朝の街が広がり、近くの電線に薄い茶色のキジバトが2羽、並んで止まっていた。 


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