マーガレットの蕾を食む
ルフトヘイヴンへ向かう前の一幕。
無口の奥に秘めているもの。
***
始まりはどうだったか、遠い昔の記憶だからか曖昧だ。
静かで、家族の声くらいしか無かったような世界に突如もたらされた音───音というより、騒音。ただし、これは褒め言葉だ。
最初はおそらく"賑やかな双子の片割れ"。そんなふうにしか思ってなかった気がする。
「ん〜〜〜!なんか久々に外出た気分!」
クロスタの隣でシリスが大きく伸びをした。
その表情は清々しく、ほんの少しだけ疲労が滲んでいる。
友人間で1人だけ違う任地を告げられたヴェルを宥めるために家に篭りきりだったというのだから、そうなってしまっても仕方ないのだろう。
そんな彼女は鼻歌でも歌いそうな調子だ。資料を見に行くなんて大した目的でもないのに、本部へ向かう足取りも軽い。
「ルフトヘイヴンだっけ?ディクは───流石にもう資料も読み切っちゃてるのかな。一緒に行けたらよかったのに」
「誘いはした」
「なんて言って断られたの?」
「杖のメンテ。アスのところ」
「あ〜、なら仕方ないかぁ」
2人と同じ任地に配属されたディクシアは、彼らの中で最も生真面目だ。彼の性格からすると間違いなく、任地が決まったその日にルフトヘイヴンの資料を全て確認しただろう。
別に、資料を見に行くときまで仲良しこよしを強要するつもりはクロスタにはない。
各々もう子供ではないのだし、自分の1番良いペースで準備をした方が効率も良いことは百も承知だ。
それでも、配属を決定した執行部に文句を言いに行こうとしたヴェルを、一緒に止めてくれても良かったのではないか?と思う気持ちが湧くのも仕方ないだろう。……ディクシアがいても正論で叩きのめして火に油なのは目に見えていたが。
「じゃあ頑張って2人で確認しますかねぇ。サボるとディクにすぐバレそうだし」
「文句だらけだろうな」
「そーゆーこと」
ともかく、彼が1人で先々に動くのはシリスも理解している。だからこそ、クロスタの返答に対して苦笑いをこぼすのだろう。
肩を並べて本部に続く通りへ出れば、彼らが住む閑散とした住宅街とは違って、ヒトの話声や笑い声などが入り乱れ騒々しさを生み出していた。
ちょうど時間も時間で、至る所から食欲を刺激する香ばしいにおいが漂ってくる。
「そういえばクロ、お昼ご飯食べた?」
「まだだな」
「じゃあさ、本部行く前にちょっと食べて行かない?まだお腹に余裕があるなら、あとで買って帰ってもいいけど」
「食って行く」
クロスタがそう答えれば、シリスは「おっけー」と歯を見せて嬉しそうに笑う。空腹だったようだ。
嬉々として店の候補を挙げる彼女に、クロスタは小さく口の端を緩ませる。ディクシアはそんなつもりなく単独先行しているのだろうが、シリスと2人きりでの行動はクロスタにとって悪いものではなかった。
自分の性格的に、何に対してもあまり感情を動かされないという自覚はあった───家族や友人に関してはまた、別だが。
それでも彼女の一挙手一投足だけはまた更に特別だった。
ヴェルと似ているようで、彼よりも柔らかな金糸が跳ねる様子から目を離せなかった。
淑やかさはなくても、飾ることなくけらけら笑う姿を見ているとつられて口元が緩んだ。
高くも低くもない落ち着いた声が、自分の名を呼ぶたびに胸が高鳴った。
時々───本当にごく稀に、柔らかく微笑む翡翠色に見つめられると、抱きしめたくてたまらなくなった。
『なに言ってんだか。当たり前だろ』
『だってあたしたち、友達じゃん』
始まりは、何よりも守りたい友人だった。
騒がしくて賑やかで、傍らに居てくれた双子の片割れ。
兄の訃報を聞かされて、どうしようもなく自暴自棄になって、全てを突き放した気になっていたあの頃、ずっと傍らに居てくれた彼らはクロスタにとっての光だ。
それが、いつからこんな風にシリスだけは目で追うようになってしまったのかは分からない。
確かなのは、ここ数年で彼女への想いが変化してしまったということだ。
───クロスタ・アルガスはシリス・シュヴァルツのことが好きだ。
勿論、その想いを伝えたことなど一回もないが。
自分の頭ひとつぶん下、すぐ届く距離に煌めく金髪。何度手を伸ばそうとしたことがあったか、もはや覚えていない。
「クロ?」
手を止めようとして足まで止めたクロスタに気付いたシリスが振り返る。不思議そうに小首をかしげて見上げる翡翠色を、クロスタは数秒見つめ返した。
「どうかした?」
「……いや」
片手をあげてごまかしてから空いた距離を詰めるよう踏み出せば、その眼は緩やかに弧を描く。
彼が思わず抱き締めたくなる、柔らかな微笑みだった
「考え事?もしかして行きたい店があった?」
「違う」
「もしかしてヴェルのことまだ心配してくれてる?多分、まだ暫く引きずって文句言うと思うけど……」
「いや、俺はただ───」
「ただ」。
思わずその続きを口走りそうになって止めた。口にしたが最後、取り返しがつかないことはわかっていたから。
シリスが自分たちを友人としか思っていないことは知っていた。むしろ、それ以外の関係に変化することを望んでいないこともよくわかっていた。
かつて一度、周りからの心無い言葉で自分たちとの間に線を引いた彼女。
それは短い期間の出来事で、すぐにでも日常が戻ってきたのは覚えている。
しかしシリスが引いた見えない線は未だに彼らの間にうっすらと残ったまま。
ひとりになりたくないのだと、みんなと一緒にいたいのだと。
いまのこの関係が大きく崩れてしまうことをなによりも恐れている彼女。
周りの目を気にしていない素振りを見せながら、その実、心の底ではヒトの目に怯えている事をクロスタは知っている。
「……やっぱり考え事だ」
「やっぱりって何さ」
眉根を寄せて、下がった目尻で呆れた様に破顔する。コロコロ変わる表情は見ていて飽きることはない。
"ただ"、抱き締めたかったと言えば彼女はどんな反応を返すのだろうか?
"ただ"、好きなのだと言えば彼女はどう応えるのだろうか。
怯えているのは、クロスタも一緒なのかもしれない。
誰にも気付かれてはいけないのだ。
彼女本人にも、ヴェルにも、他の幼馴染にも。
バレてしまえば最後。それがどういう形になるにしろ、心地よい今の関係は終わりを迎えることはわかっていたから。
自身の表情が豊かでないことに、これほど感謝することもない。
きっと身の内に秘めた焦がれも、喉を焼きそうな渇望も、クロスタ本人以外に知る者など誰もいないのだ。
だから、今はまだこのままの距離でいい。
「行くぞ」と言えば、釈然としなかった彼女の顔がまた笑みを
「うん!」
愛らしい顔立ちというわけではない。目を惹くような美しさがあるわけでもない。
それでもクロスタにとって花が綻んだようにも見えるシリスの笑顔は、何よりも綺麗に見えたのだ。
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