知識の代償

ディクシアの過去話。

女性が苦手な理由の主たる原因について。



***





 本を読むのが好きだった。


 本は僕に今まで知らなかった世界を教えてくれたから。

 知識が増えると同時に広がる世界は何ともいえないほどに輝いて、眩しく、心が躍った。



 それと同時に、本を読んで学ぶという行為は忘れることのできない"あの人"を思い起こさせる。









「ディクシア!お父様を見なかった!?」



 その日もまた、母の第一声はそれだった。


 もはやこのルーティンも数年に渡り続いているが、いまだに慣れるものじゃない。



「い、いえ、お母様。朝食を召し上がられてからは、一度も」

「……またあの女の所へ行ったのね……」


 幼い日の僕は、恨めしさを隠しもしない母の声音に下手な返事をすることはできなかった。




 あの女、とは父の2番目の相手───所謂いわゆる、妾という立場の女性だ。




 守護者は数多く存在するといえ、無数にある世界に比べればその数は少ない。加えて、純血守護者の血でしか世界を渡れないというのに、かつては他種族と交わってこの地を離れる者も多かったという。



 愛してもいない同族と子を成すか、他種族といえ愛した者と添い遂げるか。



 どちらか選ばねばならないのであれば、後者を選ぶ守護者が圧倒的に多かった。ジェネシティには……ひいては、この世界ガイアには守護者以外を受け入れる体制が全く存在していなかったからだ。



 だが、それは過去の話。




 純血の保護を目的に、守護者の婚姻法はかなりの昔に変化を遂げている。


 純血の系譜を繋げることができるのであれば、他種族と契りを結んでも許される───即ち、配偶者がいながらも他種族を妻や夫として迎え入れても良いというものだ。

 迎えられた他種族がこの世界ガイアでも受け入れられる体制も同時に整備された。




 ……昔に作った法といえ、なんとも安直な話だ。しかし実際に、他種族を選んでこの世界ガイアから離れてしまう守護者の数は減ったという。


 純血の系譜を守らねばという義務感と、愛している相手を迎え入れることができる権利。双方を満たせる法は、板挟みになっていた守護者にとって救いだったのだろう。


 無論、その法を利用する必要がない守護者だって多数いる。むしろ現代では利用しない者の方が多いかもしれない。

 一定数の守護者は敵となり得る鏡像を生み出す他種族を「劣っている」と見做していたし、そうでなくとも身近な同族と心を通わせるのが妥当だからだ。


 けれど、やはり僅かであってもこの世界ガイアから離れる者が少ないようにとこの法は今も適用されたまま。




 その結果が、この毎朝のルーティンだ。





「今日はいつもより念入りに伝えたはずなのに、どうして……わたくしのどこがあの女に劣っているというの……?」

「……お母様」

「はは、あはは、ふふふ。今日がなんの日かすらも興味が無いのね。本当にもう……は……あははははははははは!」




 狂ったように腹を抱えて笑う母に身体を強張らせる。僕は机の上をちらりと確認して、開いていた本のページをこっそりと閉じた。





「デ ィ ク シ ア」




 ぱたん、と音もなく本が閉じられた瞬間、色のない母の声がすぐ背後で聞こえた。


 跳ねそうになった身体を気力で抑え込み、すぐに振り向く。

 いつの間にか母は椅子の背もたれに手をかけ、僕の肩越しに机を覗き込んでいた。


 見開き、やや血走る目。

 乱れた髪。

 能面のような、ピクリとも動かない表情。


「何を、見ていたの?」


 最近、食事もほとんど摂らないからか乾燥してカサカサの唇。それでも化粧は忘れず施された口紅。

 言葉を紡ぐたびに動くそれが、独立したひとつの生き物みたいで少しだけ怖かった。



「魔術を行使するにあたっての……効率的なエーテル操作と、その応用に際しての注意点……です」

「……何ページ?」

「233ページから、251ページまでです」


 僕の申告を確かめるように、丁寧に磨かれた爪が中の文字をなぞる。

 部屋の中に落ちる沈黙は胃を締め上げるかのように重く、母が内容を確認している間、僕はただひたすら鳩尾を抑えて耐える。


「……お勉強は身にはなってるの?」

「はい、お母様」

「じゃあここの理論を用いた実践というものを見せてくれるかしら?出来るわね?」


 否定を一切許さない言葉。


 僕は必死で頭の中に叩き込んだ理論を、自分の中に落とし込んで形にする。


 子どもの身体で精密な魔術を使うのはとても難しい。補助の役割をしてくれる杖がないなら尚更だ。


 魔術とは、言うなればエーテルの操作プログラムだ。


 知識と実践。

 計算と経験。


 子どもの頃の僕にとっては眩暈がするほどの思考力を必要とした。


 それでも、僕は指の先に小さな火を灯す。

 火はやがて形を変え、1匹のトカゲへと変貌する。トカゲはゆっくりと僕の指を這って掌まで移動し、小さな破裂音を立てて水に変わった。



「どうですか、お母様……!」



 魔力を最大限に縮小して明確な形を模し、自立して動かす。さらには相性の悪い属性への変化までさせるのだ。


 簡単に見えてその実、理論を覚えて自分なりに組み立てるまではこれ以上ない研鑽と思考力が必要だった。


 だから母もこれなら喜ぶのではないかと、かつてのように微笑んでくれるのではないかと。

 そんな浅い考えを、その時は持ってしまったのだ。




「───何かしら、その子供騙しは」



 そんなこと、あるハズがないとわかっていたのに。


 母が冷たく言い放った言葉は、存外、僕の心に近く突き刺さった。


「もっと他にもあるでしょう?前にお父様がお話ししていた、遠隔での連絡魔術の実用化は?飛行術はまだ使えないの?」

「ご……めんなさい。それは、まだ」

「魔術じゃなくても良いのよ。鏡像の自壊を早める理論については?ポータルを違法利用する劣等種たちへの対策も考えていたでしょう?」

「ごめんなさい、それも……」





「じゃあ、何も身になっていないじゃない!?」


 声を荒げた母親が、僕の肩を掴んだ。





「もっと学びなさい!もっと身に刻みなさい!!今のままじゃ、何も得ていないのと同じことよ!!」


 枯れ枝のような細い指。子どもの僕ですら痛いと思えないくらいの力しか込められない、弱々しい手。

 ただ、絡みつくように僕の肩を覆う手にはどこか振り解けないほどの圧があった。


「あなたは素晴らしいわ、あなたは天才なのよ。私が産んだ子がこれ程までに優秀だと知れば、お父様はもっと私たちを愛してくれるわ。だから……だから賢くなりなさいディクシア……!」


 母が詰め寄れば詰め寄るほど、落ち着いたウッディノートが鼻腔をくすぐる。父が好きだと言ったその日に、今まで使っていたフローラルなものを全て捨てて母が取り寄せた香水の匂い。

 母には似合わない匂い。少なくとも、僕はそう思っていた。


 母もわかっているのだ。父が好きだと言ったのは"あの女"の香りのことだと。

 森に住む純粋なエルフの纏う匂い。それを好きと言ったのだと。だから母がいくら近い匂いを身に纏おうが、父はやはり母に見向きもしなかった。


「ディクシア、ディクシア……貴方が架け橋なの。貴方は間違いなくお父様の長男で、私の最愛の息子なのよ」


 少し落ち着いた母が肩を掴んでいた手を離す。代わりに、僕の頭を抱えて自分の胸へと埋めた。……まるで、慈母のように。


 枯れ枝の指が僕の目元を撫でる。


「あの人と同じ瞳、私に似た顔。貴方の存在が私の、私たちの愛の証なのよ。愛してるわ、愛してる……」


 耳に入ってくる呪詛が、悲しいほど僕に理解をさせる。





 母は僕を愛しているんじゃない。

 僕を通して父を見て、その面影を愛しているのだ。


 僕がすることは、全て父が認めるか否かで価値が決まる。僕自身なんて、母にとっては何の価値も持たないのだと。




「ディクシア、愛してるわ」



 父のために塗られた口紅が。

 父のために施されたネイルが。

 父のために纏う匂いが。


 "父のために作った女"の捌け口が僕に向けられている。




 僕は込み上げる吐き気を抑えながら、縋りつく手を黙って受け入れた。






 本を読むのは好きだった。

 けれど、本を読み知識を得る行為は、この哀れなヒトの姿を僕の頭にずっと刻みつけてくるのだ。













 泣き疲れて眠ってしまった母を手伝いに預ける。最近、著しく体力も減ってしまっているから眠ってしまえば夕方までは起きないだろう。



 閉じてしまった本の最後のページを開く。


 そこに畳まれた紙片を手にとって、中の文字に目を落とす。お世辞にも上手いとは言えない絵地図の横に、お世辞もいらないくらい綺麗な文字で時間が書かれていた。



 "明日10時、ここ集合!"



「……まったく……、絵が下手なんだから、しっかり場所まで書いたらどうなんだい……」


 本の内容を覚えておいてよかった。母が最後のページまで開いてを見かけたなら、どこまで詮索されるかわかったものじゃなかったから。



 僕は紙をしっかりと持ち、外へと飛び出した。


 あの金髪3人組は、もう約束の場所に着いてしまっているだろうか。





 僕の───僕の腹違いのきょうだいがいる家に。

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