浮遊感

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地に足のついた、という言葉がある。

だいたいは否定系で用いられる言葉だ。

地に足のつかない人。

地に足のつかない人生。

浮遊感、と言えばいいだろうか。

そういう感覚は私にもずっとついて回っている。

子供の頃はそうでも無かったはずだ。

一体いつからこうなったのか、自分でもよく分からない。


日曜日、小さな鞄に水筒と電車賃だけを詰めて、通学定期を使って電車に乗る。

朝早く、七時から七時半くらいの時間。

平日なら通学している時間帯だ。

日曜日の電車は少し空いていて、座れはしないが立っていて苦では無いくらいの混み方だ。

学校に用がある。

と言っても、五分くらいで済む用事である。

八時過ぎには暇になるだろう。

日曜日の朝というのは、空気が澄んでいて、いつもの怠惰な眠気を溶かすように優しい陽の光がさしている。

他に用事は特に無い。

何をしようか。

少しだけの非日常。

何でもできる気がする。

通学路の反対側の路地に行ってみようか、二年も通って一度もそちら側を通った事はない。

いつもと反対側の電車に揺られてみようか、一時間ほど乗っていれば海が見えるはずだ。

浮遊感。

日常の外側にいる。


私の人生とはそういうものだ。

いつの日からか、毎日がそういう浮遊感で満たされている。

仕事に行く。

スーパーで買い物をする。

家を借りる。

ゲームセンターに行く。

恋愛をする。

皿を洗って風呂に入る。

全てが、生活に根差していない。

どこか浮ついた胡散臭さがある。

生まれ育った実家を売り払った時からか、両親が離婚した時からか、母親が死んだ時からか、あるいはもっとくだらない、子供の頃に通っていた玩具屋が潰れてコンビニになった時とか、そういうものの積み重ねかもしれない。

子供の頃見ていたクリアな世界は、もう思い出せない程遠く感じるし、薄くもやがかかったような夢見心地な世界にももう幾分か馴染んでしまった。


実家の自室で、旅行の準備をしている夢を見た。

明日から三日間旅行に行くのだ。

三日?

夢の中の私は疑問に思う。

暦は六月だ。

今日は平日のど真ん中のはずだ。

学校は?仕事は?

「休めばいいじゃない、たまの旅行なんだから」

と母が言った。

夢の中の自室は鮮明である。

出窓の木目の形をなぞる。こんなものまでよく覚えているものだ。

この家は売り払った後取り壊されて、今はもう別の建物になっている。

これは夢だ。

夢の、特有のあの浮遊感。

浮ついている感覚がある。

大きな旅行鞄には水筒と電車賃しか入っていない。


夢から醒める。

浮遊感は消えない。

あるいは、これも夢なのかもしれない。

胡蝶の夢という小噺が浮かんだが、これはそんなに気の利いた話でもないのだ。

水筒と電車賃。

ふと思う。

今、私は、水筒を持っていない。

首都圏を歩く分には自動販売機で事足りるからだ。

小銭もあまり持っていない。

小さな、交通系のICカードが一枚、財布に入っているだけだ。

家を出て、いつもの通勤電車に乗る。

今日も日常は浮遊したままだ。

それはある意味では幸せなのかも知れない。

非日常の前触れの浮遊感は、悪い気分ではない。

ただ、私がそこから帰れないというだけの話だ。

ある意味では常に酩酊しているようなものである。

酔生夢死という言葉を思い出す。

あれも中国の古事であったか。


コンビニのアルバイトは通勤ラッシュから外れていて、大抵は座って通勤できる。

端の座席に座って、仕切り板にもたれて微睡む。

少し寝不足である。

仕事が終わると二十四時を過ぎていて、他の店はほとんど空いていない。

仕事終わり、唯一煌々としている最寄駅のドンキホーテで小さな水筒を買った。

多分使わないだろう。

無駄な買い物である。

私は、水筒を箱のまま棚の奥にしまって、眠りについた。

夢は見なかった。

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