地元愛

6/22


久しぶりに地元に帰省した。

帰省といっても普通電車とバスを乗り継いで2〜3時間程度の片田舎なのだが、首都圏で暮らしている者にとって生活圏から2時間も離れればもうほとんど異国と言っていい。

少し用事があって帰ったのだが、私はあまり地元が好きではない。

郷土愛であるとか、愛国心であるのか、そういうものがいまいち理解しかねるのである。

母国が大好きという人間が、数キロズレて国境の向かいに生まれていたら、全く反転した思想で話すだろうというのがどうにも腑に落ちない。

生まれ育った場所を好きになる、というのは複合的なものである。

故郷という概念を形成するのは『育った』、の部分の割合が大きいはずだ。

人間は社会的な生き物であるから、周囲の環境に適応した価値基準を作り出して社会の構成要員になっていく。

それそのものは理解しているが、それを私がなんとなく腑に落ちないのは私の個人的な性格の問題である。


ゲームブックというのを知っているだろうか。

選んだ選択肢でページが飛んで物語が分岐して進んでいく本の形式である。

近頃めっきり見ないが、私はあれが結構好きだった。

ある本の中で、主人公はヒロインと恋仲になった。

これは運命の出会いだ、生まれ変わっても君を愛している、と主人公はヒロインに囁くのだが、主人公とヒロインが恋仲になるかは極序盤の何でもない選択肢、自動販売機でコーヒーを買うかコーラを買うかとか、十字路で直進するか左折するかとかそんなつまらない分岐で決定しているのである。

あるいは、そういう些細な偶然が重なることを『運命づける』というのかも知れないが、自動販売機でコーヒーではなくコーラを買った主人公にとってはヒロインは赤の他人でしかないのである。

生まれた場所で、出会った人で、たまたま買ったジュースの内容で、人の思想が性格が人生が運命が決定付けられていく。

『先天的』であることと『後天的』なるものは玉虫色であり、それが当人の生まれ持った資質なのか環境が付与したものなのかの判別は難しい。

しかし、生まれた場所であるとか、買ったジュースであるとか、右に曲がったとか左に進んだとか、そんなものに影響されない絶対性を運命と呼びたい気持ちがどこかにあるのだ。


実家の近くにあった古本屋に行ってみた。

学生の頃入り浸っていた場所である。

古本屋の建物はコンビニに変わっていて、そのコンビニも潰れたようで中年女性向けのジムが八月頃から開業すると張り紙が出ていた。

あの古本屋の無い16歳の夏を思う。

運命というのは本当に数奇なものだと思う。

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