第43話

 緩やかな風が北東から南西へと吹き抜けていく。髪が揺れるが乱れないくらいの絶妙な強さだ。塩素ガスも停滞せず吹き飛ばされもせずに、狙い通りに敵重砲陣地を飲み込むことだろう。再び最前線まで進出した聖騎士団こと私達は、〇九〇〇の砲撃開始をじっと待っていた。一本向こうの塹壕には今回一緒に前進することになる大隊が控えている。時々音もなく伝令の兵士がやって来る以外は、実に静かだ。

 あの出頭命令から4日後、『黄』号作戦の最終的な伝達があった。天気予報から作戦決行は2日後。予定通り塩素ガス弾で敵重砲陣地を無力化した後、連隊全力で突撃する。敵防衛線を粉砕した後師団全体が前進し、戦線を20マイル押し上げる。敵軍後方まで進出した師団と偽装工作で集積していた沿岸地域の戦力で敵残存兵力を包囲殲滅し、共和国首都入城を目指す。まとめるとそんな感じの作戦だ。肝となるのは最初の第23歩兵連隊による防衛線粉砕。ここが遅滞したら作戦全体が滞る。共和国軍に防衛体制を整える隙を与えたら、逆に包囲殲滅されるのは帝国軍だ。最悪の想定では包囲された連隊は孤立無縁の中自力で撤退することになる。デューリング少佐によれば、それでも進出地点での死守命令が出ていないだけ有情だそうだ。

「閣下、こちらを」

「ありがとう」

 ユーリアが行動食を一本くれた。今回の作戦は第一段階の敵防衛線突破だけでも最低1日を見込んでいる長期戦だ。各員には3食分の戦闘糧食と行動食が分配されている。それを食べ切ったら…後は神のみぞ知るだ。

 油紙を外し、細長い茶色の塊を口に入れる。チョコレート、ということになっているそれは、脂と砂糖を練って固めて何かの漢方薬を足した上で気持ちココアパウダーも入れてみた、みたいな味がする。とりあえずカロリーはしっかり取れそうな感じだ。熱くて渋いお茶が欲しくなる。ねちねち口に残る甘味が、極限状態ではありがたくなるんだろうか。

 聞き慣れた雷のような音が響いた。時計の針は9時を回っている。『黄』弾による敵重砲制圧が始まったようだ。これから15分ほどかけて箒で掃くような砲撃が進んでいき、航空機による戦果観測が行われたら連隊全体が突撃する。しばらくはドロドロゴロゴロ鳴っているのを聞きながら待機だ。

 世界初の毒ガス戦が始まったが、私はそれほど動揺していない。初めて聞いた時には葛藤があったが、この間の出来事で少し気持ちが変わった。目の前で呼吸を止めてぶっ倒れるホイアー中佐。もはや私の能力自体が毒ガスみたいなものだ。倫理的にどうかなんて考えたら、全部自分にぶっ刺さりそうなのでやめることにした。それよりも毒ガスを使っているのに装備品にはガスマスクが無いんだよね…。いいのか?一応ユーリアとスザナには今回の作戦で毒ガスが使われること、安易に進出すると危険なことは伝えた。まあ標的の重砲陣地に到達するまでには塩素ガスも拡散している…かなあ?うーん。

 ぐるぐる考えているうちに敵の応射も始まった。私達の待機している塹壕を飛び越えて、後方の砲兵陣地に砲弾が飛んでいく。ここまでは作戦通り。応射のために集結した重砲運用要員を含めて一網打尽にするのが今回の砲撃の目的だ。砲の運用には直接操作する兵士はもちろんだが、発射角や装薬量を調整する専任の士官、協調した砲撃を行うための観測班と通信網、防御を固めた弾薬庫から弾薬を運搬する兵士等々各種人員が必要だ。特に砲兵士官は数学に長けた人材が必要で、すぐに補充できるわけではない。砲撃の目的は重砲の破壊ではなく、運用システムの破壊ということになる。今頃は偽装の煙幕弾に紛れた『黄』弾が、じわじわシステムを蝕んでいる頃だろうか。

 ドロドロゴロゴロが続く中、エンジン音が空から聞こえてきた。着弾観測をしていた航空機が戻ってきたようだ。ゆっくり飛ぶ複葉機が連隊陣地上空を旋回し、発煙筒を落とす。黄色。砲撃は予定通り進行。各員突撃に備えよ、の合図。相変わらず敵の応射はあるが、密度は目に見えて減っている。私は手に馴染んできた小銃をそっと撫でた。

 ホイアー少佐の言っていた「若干の修正」で、私は真っ先に飛び出していくことになった。正確には私を含む聖騎士団と左翼担当の大隊が先行し、敵前線に侵入。敵が混乱し動揺したところでヤンセン中隊を含む独立混成団が中央、別の大隊が右翼に進出。司令部を含む残りの大隊が最後に突入する、という流れだ。ヤンセン中隊は前回突破した地点をそのまま攻略する。陣地を破壊し罠を設置した当事者なので、他が担当するわけにもいかないらしい。中央突破する彼等の被害を減らすためにも、先行する我々でなるべく敵の攻撃力を削いでおきたいところだ。

 味方重砲の砲撃が止んだ。散発的な敵の攻撃はあるが、急に辺りが静かになる。重砲部隊が敵前線に再照準し、支援砲撃が始まったら我々の出番だ。意識を集中していくと、ざわざわと肌が薄く広がり、大隊の一人ひとりに触れていくような感触がした。隣のユーリアが着剣し、弾倉を確認する。スザナは目を瞑って静かにしている。

 どどおっと斉射の音が響き、遅れて何も聞こえなくなるような破裂音に包まれた。ユーリアとスザナの背中を叩き、斜面を駆け上がる。キーンとした耳鳴りの向こうで、甲高い笛の音が重なって聞こえる。地鳴りは雄叫びか砲撃か、もう分からない。とにかく、前へ。

 長い1日が始まった。

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