第19話
5段ほど上がると壁の上に頭が出る。砲撃で穴だらけの大地に、これでもかと鉄条網が張られている。所々に細長く伸びるのは陣地の跡だろうか。別の星じみた景色の向こうに、比較的整然とした鉄条網が見えているのが敵陣のようだ。一定間隔で盛り上がっているのが機関銃陣地?私には見分けがつかない。腰に下げた双眼鏡を構えると、ざーっと陣地っぽいところを流して見てみた。敵兵っぽいものは見えない──。
いた。一瞬何か動くものが見えた。改めてじっと見ていると、盛り土の間から青っぽい鉄帽を被った頭が覗き、すぐ引っ込む。しばらく待ったがもう出てこない。こっちに気付いた?
「いかがですか?」
大佐も隣に上がってきた。塹壕の縁に足を掛け、堂々と全身を晒している。私も身を潜めるのを諦め、上半身を起こした。
「さすがに大胆すぎでは?」
「貴方の能力を信頼していますので。狙撃程度であれば問題ないでしょう」
事も無げに言い放つ大佐が片手を差し出してきたので、双眼鏡を返した。空いた両手で小銃を抱えると、すぐに肌に張り付くような独特な感覚があった。ある種物理的な、壁に押し付けられているような感じ。この辺り全体を守るつもりで集中していくと、下で待機している皆にも触れたような奇妙な感触がする。見なくてもどこに誰がいるのか分かる。今までの実験では大佐とマンツーマンだったので気付かなかったが、こういう感じになるんだ。
ぱちんと何かが当たる感覚があった後に乾いた音が響く。この感じは知っている。小銃弾。狙いは大佐。自分が撃たれたのは分かっているだろうに、動揺を全く見せずに平然と双眼鏡を構えている。高級将校が最前線で全身を晒して偵察しているのだから、敵としては相手の意図は分からずとも警告の意味も込めて撃ってきたのだろう。正確に頭を狙っていたようなので殺意満々だが。
続けて2回、ぱちんと弾ける感覚が続く。大佐の頭と、胸の辺り。遠くの地面すれすれの所で何か光るのが見えた。目を凝らしても姿は見えないが、あそこから撃っているようだ。撃った人は今頃混乱しているだろうな。あなたの腕には問題無いよ。
「ふむ。中々に興味深い」
大佐は完全に他人事で敵陣観察に興じている。この人、根本的な所は軍人というより学者なんだよな…。私も改めてぼこぼこになった大地に目を移した。至る所に水溜まりができていて、双方の砲撃の激しさが窺い知れる。3日前に大規模な戦闘、って言ってたっけ。それにしては…?
「あの、大佐」
「なんでしょう」
「3日前に戦闘があったと言ってましたよね?それにしてはその、きれいだなというか」
「戦死者が見当たらない、ということでしょうか」
「はい」
圧倒的な暴力の跡はあるのに、死体が無い。戦争映画だと鉄条網にぶら下がってたり砲撃でできた穴に溜まってたりした気がするけど。
「昨日まで戦死者の回収のために停戦していましたので。双方で合意した人数を出し合い、少なくとも目に付く範囲の作業は完了しています」
「あ、そうなんですね」
「戦死者を放置すると、衛生上重大な問題が発生します。それと、死後回収すらされないとなると士気にも関わりますので」
淡々と語る大佐の口調には何の感慨も感じられない。医療防疫担当参謀としての職務故か、そもそもの人格なのか。そういえばここに来た時、すれ違う衛生兵が皆遺体袋を下げていた。あれは「作業」の結果だったのか。
「停戦って、そんなに簡単にできるものなんですか?」
「歩兵の突撃を伴うような戦闘の場合、砲弾が払底することがあります。補給が完了し戦闘準備が整うまでは停戦は受け入れられやすいですね」
わりと打算的な理由だった。トラックがまだ普及しているとは言えず、汽車と馬車で輸送している時代だ。重たい砲弾を大量に運ぶのは大変なのだろう。
敵陣でぱぱぱっと何か光ったと思ったら、飛んできた銃弾がバチバチ弾けた。今度は一斉射撃だ。狙撃では埒があかないと思ったのか、大勢が撃ってきている。
「中尉、どうですか」
どう、とは。とりあえず撃たれてるな、という感じだが。遠くで断続的に光っているのが見えるが、さっきよりも命中精度は低いらしく時々消しゴムの粒でも当てられているみたいな感覚がある。
「さっきの人、上手だったんだなと」
「ふむ。体に負担はありませんか」
「今の所はありません」
「よろしい。では、ヘッケン伍長、アフィク上等兵。こちらへ」
大佐に呼ばれて、血の気の引いた2人がばっと私を見た。今まさに銃撃されている場に呼ばれたのだ。平然と身を晒している狂人は連隊長相当の将校。軽い口調だが兵卒には拒否権のない命令になる。命令を覆せるのは2人に対して直接指揮権のある私だけだ。救いを求めるような瞳に見つめられて気まずくなる。
「ええと、大丈夫です。ちょっと理解できないと思いますが安全は保証します」
大佐は色々おかしいけどそこまで理不尽ではない。単純に2人にも実戦経験を積ませようと思ったとかその程度の感覚だろう。私も塹壕の上に出て、2人のために場所を譲る。まずユーリアが、それからスザナが斜面を上ってきた。塹壕の縁に沿って腹這いになり身を縮める彼女達の肩を軽く叩くと、震えが伝わってくる。
「コートリー中尉。現在の攻撃の規模は分かりますか」
「ええと…」
ぱちんぱちんと銃弾を弾く感覚がある中、敵陣に目を凝らす。距離としては陸上トラックの端から端までよりも遠いくらい。姿はよく見えないが、何か叫んでいるのは微かに聞こえる。時々光る銃火の数からして、数十人?
「小隊規模でしょうか」
「そうですね。今後士官として報告を求められる場面もあるでしょうから、分析する癖は付けてください」
「はい」
のんびり会話している大佐と私を見て、向こうは今頃混乱していることだろう。数百発の銃弾を消費して、たった2人に何ひとつ被害を与えられていない。その上塹壕の中からまた2人生えてきている。指揮官はどう報告したものか気が気では無いと思う。
「閣下ぁ、これも神様のちからですか?」
スザナが私を見上げて聞いてくる。少し落ち着いてきたようで、黒いくりくりした目に光が戻っている。
「まあ、はい。これくらいの攻撃なら効かないので安心してください」
「これは一体、どうやって…」
ユーリアも落ち着いてきたようだ。頬に赤みが戻ってきて、少し頭を上げてじっと敵陣を見つめている。良い質問だ。一体どうやってるのか私も知りたい。
「私にもよく分かりません。神の加護とでも何とでも」
「そう、ですか」
ユーリアが上体を起こした。目がギラギラしている。
「参謀閣下、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
「支給された拳銃の射撃訓練、今ここで行ってもよろしいですか?」
「ええ、構いません」
「え?」
何言ってるの?早速ホルスターから拳銃を抜き点検している彼女の目は完全に据わっている。銃撃の恐怖で壊れた?
「ユーリア?大丈夫?」
「はい。小銃での射撃訓練は受けていますので」
「えっと、そうじゃなくて」
「コートリー中尉も実際に使ってみましょう。アフィク上等兵、あなたもです。標的があった方がやりやすいでしょう」
大佐が微笑みながら口にする言葉の意味が分かるが分からない。ついさっきまでただの見学ツアーみたいな気分でいたのに、いつの間にか変な流れになっている。相手が撃ってきているのに対してこちらも撃ち返せば、それはもう交戦状態だ。それに標的って。右腰に下がった重たい拳銃をのろのろ取り出す。
人に向けて、銃を、撃つ。それって、こんなに殺意も覚悟もなくやるものなの?
相変わらずぱちんぱちんと弾ける感覚が続く。赤茶けた大地には風もない。砲撃でできた穴に溜まった水が太陽の光を反射してキラキラ輝いている。口の中に変な唾が溜まってきて、飲み込むのに喉が鳴った。
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