第16話

 朝なお暗い竪穴の中。ユーリアとスザナが動き出す音で目を覚ました。腕時計を確認すると7時を指している。竜頭を回してぜんまいを巻き、私もコットから降りた。

 なんかめちゃめちゃよく寝た。自分でもびっくりだ。新しい環境。近距離で炸裂する砲弾。うろつくネズミ。何一つ、私の眠りを妨げることはできなかった。逆に心配になる。外に出ると、相変わらずぬかるんではいるが雨は降っていなかった。うっすら日差しも見える。かつては鉄条網を支えていたであろう支柱を横目にトイレに行くと、何やら色々改造が施してあった。地面には木の枝が敷いてあって、踏むとカサカサパリパリ音がする。細い葉が折れて匂いを出すのか、独特な香りがトイレの臭気を消している。暗くてよく見えないが、穴の中にも同じようなものが敷いてあるっぽい。何か燃やしていたらしき金属の皿が奥に転がっている。とりあえず例の虫はいない。あとネズミも。ありがとうスザナ。

 宿舎に戻ると朝食の準備ができていた。メニューは何か豆を煮たのと固いパン。紅茶であろうと思われるお茶付き。固いパンは固いんだけど砕けたりはせず折ろうと力を入れるとそのまま圧縮される感じだ。なかなか面白い。独特の酸っぱさにもそのうち慣れるだろう。

 今日の予定は特に伝えられていなかったのでゆっくりお茶を飲んでいたら、従卒を従えたシュメルツァー大尉がやってきた。いきなりの上司登場に慌てて立ち上がる私を、大尉が片手で制する。

「本日の予定の伝達に来ただけです。〇九三〇より前線視察。連隊司令部に出頭されたし」

「〇九三〇、連隊司令部に出頭」

 敬礼を返す私を、大尉がじっと見つめる。鉄帽からわずかに見える明るい茶色の髪と、グレーの瞳。引き結んだ口元がふっと緩む。

「参謀閣下から聞いてはいましたが、想像以上でしたね」

「はい?」

「昨日中尉が回復させた兵は437名。連隊定数の2割以上を一気に原隊復帰させなければならなくなったわけです。準備不足を痛感しました」

 要するに私の意図しない治癒で業務量が一気に増えたということか。負傷兵をどういう扱いにしているのか詳しいことは知らないが、人数からしてとんでもなく面倒臭いのは分かる。

「申し訳ありませんでした」

「いえ、中尉は中尉の職務を忠実に果たしただけです。後は連隊司令部の担当ですので」

 では、と戻っていく大尉を見送り、またお茶を口にする。連隊の定数はたしか2千人くらい。それに臨時編成の砲兵大隊、師団所属の補給大隊と医療班、軍属の民間人がくっついて、指揮下にあるのは最大で3千人近いと聞いた。まあそれにしても私が治癒した人数は一度に受け入れられる限度を超えていただろう。人事担当者は寝る暇もなかったんじゃなかろうか。

 私がのんびりしている間にも、ユーリアとスザナは掃除に片付けにと動き回っている。この2人は本当によく働く。じっと座っているのが申し訳なくなるが、手伝おうとすると「士官のすることではない」と押し返されるので仕方ない。邪魔にならないようにするのが仕事と思うようにしている。

 お茶の入った金属製のカップを持って外に出ると、空はさっきよりも明るくなっていた。塹壕の縁から少し頭を出すと、でこぼこした茶色の風景が広がっている。徹底的に破壊された大地に、所々に焼け焦げた木と元は民家だった壁の一部が突き出ている。一定の間隔で並んだ杭には鉄条網が張られ、カラスが遊んでいる。他に動くものは見えない。すごく静かだ。塹壕の中に渡された木の板に腰掛けると、視界は土の壁と薄曇りの空だけになった。カップに口を付け、すっかり冷めたお茶をすする。

 私の治癒は、人間を元の状態に回復させる。失った手足を生やし、損傷した内臓を治し、膿んだ傷をきれいにする。完全に魔法だが、一つひとつは医療でできなくはない。なんとなくの感覚として、時を巻き戻して元の状態にしているというより、生物のもつ回復力を超加速させているのだと思う。人間の手足が生えるのは普通はありえないが、不可能ではない。肝臓なんかは半分以上を失っても元の大きさに戻るし、損傷したら回復しないと言われていた神経も再生医療でどうにかできそうだ。免疫がしっかり仕事をしていれば感染症は治る。そういうのをものすごい勢いでやっている、のではなかろうか。医者じゃないからよく分からんけど。どっちかというと防御の方が何をやっているのか得体が知れない。なんか銃弾とか弾くから瞬間的に空気の密度を上げて壁にしてる?最近は治癒ばかりで出番のない能力だったけど、前線では活躍してくれそうだ。

「閣下ー、そろそろ出発するですよー」

 スザナの明るい声が響き、赤茶けた土壁に吸い込まれていく。カップに残ったお茶をぬかるんだ塹壕の底に流し、私は立ち上がった。

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